殺さない殺し屋
深夜、霧の濃い倉庫街で、
静寂を打ち破るような声が響いた。
「やめてくれ、お願いだ、殺さないでくれ……死にたくない」
男の懇願は虚しく宙に溶けた。
掠れた声。涙と鼻水で歪んだ顔。
ここは人通りのない倉庫街だ。
誰かが助けに来るはずもない。
そう分かっていながら、男はわずかな希望に縋るように、殺し屋の足にしがみついた。
額を靴の甲に押し付け、命乞いをする。
自分でも分かっていた。
この姿は、あまりに無様で、誰にも見られたくない。
だが、殺し屋は静かに告げる。
「お前がしてきたことは、許されるべきことじゃない」
「生きていれば、他の人間を不幸にする」
「だから、殺す」
淡々とした声だった。
まるで、すでに終わった出来事を確認するかのように。
時間だけが刻々と進んでいく。
神に祈る猶予すら、残されていない。
殺し屋は男の襟元を掴み、無理やり立たせた。
視線だけが、冷たく突き刺さる。
「……なぜ俺なんだ」
「他にも、同じことをしている奴はいるだろう」
縋るような言葉を重ねる男に、殺し屋は言った。
「お前の最後の言葉は、それだけか」
その瞬間、男は悟った。
終わりのカウントダウンが、確かに始まったことを。
そのとき、男の脳裏に、浮かんだのは彼女の顔だった。
約束した言葉が、遅れて胸を刺す。
――幸せにすると、言ったはずなのに。
男は目を閉じ、意味のない祈りを捧げた。
そのときだった。
「……お前」
低く、抑えた声。
「愛する人がいるのか」
問いは短かった。
感情は乗っていない。
それでも、男は息を呑んだ。
ゆっくりと、殺し屋は続ける。
「今の仕事から、足を洗えるか」
沈黙。
「洗えないなら、ここで終わりだ」
男は目を見開いた。
さっきまで、確実に自分を殺す目だったはずの男が、
別の選択肢を差し出している。
「ああ……洗う」
掠れた声だったが、嘘ではなかった。
「もう二度と、同じことはしない」
「彼女のために、生き直す」
言葉にした瞬間、男は自分でも驚いた。
逃げるための言葉ではない。
守るための言葉だった。
殺し屋は、しばらく男を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……その覚悟、嫌いじゃない」
銃口が下がる。
それだけで、男は膝から力が抜けた。
「なぜだ」
男は問う。
「なぜ、俺を殺さない」
殺し屋は答えなかった。
代わりに背を向け、淡々と告げる。
「死んだことにはする」
男は言葉を失った。
「証拠が要る。俺には依頼人がいる」
それだけで、意味は通じた。
その後の作業は、驚くほど機械的だった。
血の跡、倒れた体勢、写真一枚。
すべてが終わると、殺し屋は言った。
「落ち合う場所があるなら、そこへ行け」
「二度と、俺の前に現れるな」
男は深く頭を下げた。
「……ありがとう」
返事はない。
殺し屋は振り向くことなく、
霧の中へと消えていった。




