「天使のうろこ」
なあんだ。
恋、なんて。
そんな甘い言葉とは、全然違うものじゃないか。
深い緑の虹彩。
薄く青み掛かった長めの毛髪。
日光を知らないために透く程に白く、皮下の血肉の色を通す為に却って桃色の皮膚。
その皮膚へ、まばらに付着するうろこ。これは本当にきらきらと透き通って、まるでクリスタルを削り出したかに見える。
すんなりと細い、少女の様な足。
――いや、彼女は本当に少女なのかも知れなかった。
よく、解らない。
初めて出会った、あの衝撃。
その存在を知ると同時に、この感情も知る事になった。
私は、生物学者だった。
だった、と言うのは、或る意味では正確だ。
もう、私がこの分野で表舞台に立つ事は永遠にないだろう。
だから、ここにいる。
この、山奥で誰に知られる事もなくひっそりと存在する研究所に、私が雇われた理由は、二つ。
一つは優秀であった事。
もう一つは、私が金で沈黙を守るタイプだった事だ。
確かに優秀ではあったが、ここにくる以前の私は、学者とは言っても大学の研究室で教授の助手を務める研究員に過ぎなかった。
大学では教授の代わりに研究し、教授の代わりに論文を書き、金を受け取りそれらを教授の名前で発表した。
こだわらない人間なのだと思っていた。自分は、地位や名誉なんかどうでもいいのだと。
しかし、それはどうも間違っていた。
どうでもいいと言うのは、こう言う事だ。
彼女が、いるだけでいい。
その他には、何も要らない。
金なんか、何の価値もない。
私は彼女を一目見たその日から、契約で定めた勤務時間よりもずっと長い時間を研究所、それも彼女の傍で過ごした。
彼女の部屋は特別な造りになっていた。十メートル四方の四角い部屋の、四方の壁に面してぐるりと幅一メートル程の通路があり、そこだけが足場になっている。その内側は一段低くなっており、中には水が満たされていた。水はおよそ膝を少し隠すくらいで、プールと言うよりは風呂程度の水深しかない。
その水槽の中で、彼女はいつもゆらゆらと水面に揺れているのだった。
私はその姿を少しでも長く眺めようと部屋の隅で通路に腰を下ろし、よく、白衣の裾が濡れているのにも気が付かない程ぼんやりと過ごした。
だが、しばらくの時間が経っても、私は彼女の事を大して知っていた訳ではなかった。
私は正式に彼女を研究対象としていたが、しかし私に求められたのは正確なデータを、より多く採取する事だけだった。
彼女がどこからきたものなのか、そう言った事は一切知らされなかった。
今更ながらに、この研究所と最初に交わした金と沈黙の契約書が疎ましく、サインした自分に嫌悪を抱いた。
彼女のデータも、彼女自身も、俺には何も教えてくれはしない。
心電図も、脳波も、体液を分析しても、ごく普通の人間のものと格別差のある結果は得られなかった。
しかし、では、彼女は何なのだろう。
誰も答えを教えてはくれなかった。
その日は、朝から研究所内が騒がしかった。
幾つもある研究室の一つで、実験動物を逃がしてしまうミスがあったらしい。
どの程度の動物だろう。
私にも、彼女を逃がす事ができるだろうか。
そんな事をぼんやりと考えて、はっとした。何を考えているんだ。
それに、できるはずがない。きっとマウスか何かを逃がしただけで、この騒ぎなのだ。逃げても、すぐに連れ戻されてしまう。
私は乱暴に頭を振って、心の隙間からするりと入り込んできたその考えを振り払った。そうしてから、研究日誌を片手に彼女の部屋に足を向ける。
悪い、夢の様だった。
水槽の真ん中に黒い塊が浮び、その表面はざわざわとうごめいていた。彼女の姿はない。
手も足も、痺れてでもいるみたいに動こうとしてくれなかった。
一拍遅れて弾かれた様に、私は手にした日誌を投げ捨て、靴を脱ぐ事もせず水の中に飛び込んだ。
ざぶざぶともどかしく水に阻まれながら塊まで辿り着くと、必死に両手で黒いものを掻き分ける。それは黒い蝶だった。
私の手によって千切れた羽や、死んだ蝶が水面に落ちて、みるみる内に黒い染みの様に漂って広がる。途中で、私はこの蝶が騒ぎの元の逃げた実験動物だと気がついた。
この部屋には窓がなかった。あるのはいつも鍵の掛けられたドアと、高い天井に開いた空調ダクトだけだった。恐らく、逃げ出してどこかからダクトに入り込んだ蝶が、ここに流れ着いたのだろう。
だとしたらこの蝶は貴重なサンプルに違いなかったが、そんな事には構っていられなかった。早くしなければ、彼女が食い殺されそうな気がしたのだ。妙な恐怖心が、私に憑りついていた。
あるものは飛び去り、あるものは私に打ち殺されて、やがてその黒いものの下から滑らかな肌が現れる。彼女はいつも通り美しい姿で、しかしいつもより間近で、冷たい肌はどれだけ水に晒されても指先すらふやけたりしていない。
視線が、一つだけぽっかりと開いた緑の眼とかちあう。
もう一つの瞼の上には、まだ一匹の蝶が残っていたからだ。私はそれを、そっと指先で瞼撫でる様にして追い払う。
ひらひらと飛んでゆく蝶を、捕まえようとでも言うのか。彼女の手が伸びる。偶然か、それとも故意だったのかは解らない。しかし、彼女の指は蝶ではなく私の頬にぶつかって、反射的にビクリと震えて離れた。
まるで、水よりも、壁や床よりも、私の方が熱い事に驚きでもした様に。
彼女は、やはりぽっかりと眼を開けたまま、少し不思議そうに頚を傾げて、もう一度そっと私に触れた。
その指先を感じた瞬間に、消えてなくなってしまいたかった。
私は夢中で彼女の身体を抱き締めた。
壊してしまいそうに強く、抱き締めた。
そして、触れるか触れないかのキスをした。
頭の芯から、痺れる様な。
たったそれだけの事で、私の心はこれ以上なく満たされた。
――だから、これで最後になるとは、考えてもいなかった。
翌日、私は貴重な実験動物を大量に損じてしまった事に所長からのお叱りを受け、それに見合った大量の始末書を書かされた。
そのため、彼女の部屋を訪ねた時には、いつもより随分遅い時間になっていた。
ドアを開けても、そこには何もなく。
水槽の水は抜かれ、一段低くなった床に、いくつかの水溜りが残っているに過ぎなかった。
彼女の姿はない。
呆然と立ち尽くす私の肩に、誰かが手を置いた。
振り返ると、そこにいた所長はぞっとする様な眼をして、何でもない事の様に言った。
私には彼女の研究から外れて貰う。だから、資料や今までの研究結果をまとめて後任に引き継ぐ様に、と。
彼女はどうなったのか、私は激しく叫びたい衝動を抑え付けて問うた。
――知る必要はない。
それが、答えだった。
所長が去った後、私は呆然と、なかば無意識の内にふらふらと水槽の中に降りた。
あの男は、去り際に嫌な事を言った。あれにはもう会わせないよ。
と。
だとしたら、もうここにはいないのだろう。この研究所は、こんな研究施設を他に幾つも所有しているのだと、いつだったか噂に聞いた。
ぱちゃん、と、水音が響く。
何の音かと驚いたら、私の膝が崩れた音だった。
水溜りの水を吸って、服が冷たく重くなる。その、床に接した膝の傍で、何かがきらりと光って見えた。のろのろと手を伸ばす。少しだけ残った水に沈んだそれは、彼女から剥がれたうろこだった。
手のひらに包む。
それはすぐに私の体温を吸収して、もう彼女に触れた様な冷たさを得られはしなかった。
私は、嗚咽を堪えなくてはならなかった。
けれども涙だけは、どうやっても止まってはくれなかった。
こうして私は、何も知らないまま、彼女を失った。
[天使のうろこ 終/みくも]
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