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トルコ/眠り/湖

作者: 松ハル

彼女が語り出した思い出。

でもね、と彼女は僕の話をさえぎって言った。

「わたしのいちばんの思い出はトルコで気球に乗ったことだわ」

そう言い終えると彼女はなにも喋らなくなった。眠ってしまったかのようにぴくりともしない。

僕は彼女の口もとに手をあてて呼吸をしているか確認してみた。優しくて温かな息が僕の手の甲にあたる。


彼女はからだだけを置いてどこかに行ってしまったかのように目を閉じた。

目を開こうとしない。

まぶたは音もなく閉じられている。いっさいの光は彼女にとどかない。

僕はまったくの暗闇に彼女がいるところを想像する。


暗闇の世界。

光もなく音もない救い難い暗闇。その暗闇で彼女はすべてを探している。

自分がどこにいるのかわからない。肉体と暗闇の境界があいまいでぼやけている。


おそらく、と僕は思う。

彼女はその暗闇に横たわったまま、ひとつの意思として存在しているのだ。きっとそうだと思う。

彼女は浮遊するひとつの意思として、みずからを暗闇に溶解させて放散し、溶け込んでいくのだ。そして終いには自分をさえ失ってしまうのだろう。

彼女は“わたし”を奪われないように抵抗するかもしれない。

しかし暗闇は容赦なく彼女を奪おうとする。彼女のささやかな願いは誰にも届かない。そして暗闇の底に沈む。

つぎに彼女が目を開くとき、そこは暗闇だ。僕はいない。


彼女は目を閉じて横たわっている。眠ってしまったのかもしれない。

こういうことはよくあった。

彼女は話している途中で自分が喋っていることになにかひっかかりのようなものを感じると話すのをやめて、そのなにかを探ろうとする。

思い出すまで彼女は目を開かなかった。僕はひとりで取り残された。


彼女が喋りはじめるのを待つのに飽きると僕は外に煙草を吸いに出た。

一本目の途中で戻ることがあれば、三本吸ってもたりないときもあった。

彼女は煙草のにおいが好きで、僕が一本しか吸わないで戻ると文句を言った。だから僕は少なくとも二本は吸うようにしていた。あまりにも早く彼女から声がかかると聞こえないふりをした。

三本を続けて吸うことはなかった。たいていの場合、彼女は二本目の途中で僕を呼び戻したし、それにそもそも煙草は三本も続けて吸うものではない。


うまく思い出すことができたときの彼女は機嫌がよかった。ベッドのそばの腰掛けに僕が座ると彼女は続きを話しはじめた。

うまく思い出せないと彼女は目をひらかなかった。

そういうときの病室はひんやりとして冷たい。

無機質で硬質で金属的な冷たさだ。体温を感じない。

僕たちが交わしていた会話ですら跡形もなくきれいに消え去って、透明な静けさだけが残っていた。しかし僕は嫌いではなかった。その静けさは水面に波ひとつたたない湖を思わせた。


                 ※


冬になると寒さが厳しく訪れる人はめったにいない山奥にその湖はあった。空気が凍るほどの寒さであたりは雪に覆われている。そこにあるすべての営みはささやきと吐く息の白さに彩られた冬の景色だ。

旅人がやってきた。

彼はその湖を目にしたときに自分はずいぶんと遠いところまで来てしまったんだと後悔した。戻ろうと思って振り返ると足跡はない。

彼は湖を眺めた。

湖はどこまでも広くて、写真で切り取られた風景のように永遠に静かだ。

このままここにいれば私は時間の存在を忘れてしまいそうだと旅人は思った。

彼はその湖に触れてみたいと思った。

ゆっくりと慎重な足どりで水際までやってくると、帽子を落とさないようにおさえて水のなかをのぞいてみた。


どれくらいの時間そうしていたかわからない。

湖はきれいだ。他になにか考えようとしたけど、なにも思い浮かばない。

結局彼は音のない世界の片隅で、ひとり湖をのぞきこみ、感想を持たないまま帰ることしかできないのだ。

彼は水面に触れようとして外した手袋を探した。

湖をのぞいているあいだは気にならなかったが、顔をあげてもとの世界に戻ってきた途端、それまで感じなかった寒さが旅人をおそった。

彼は必死になってあたりを探した。手袋は上着のポケットに押しこまれていた。

手袋に手を戻した旅人は振り返ることはなかった。

湖の世界で彼が目にしたものは、彼しか語ることができない。


                 ※


僕が彼女の部屋に戻って感じる静けさとはこういう感じだ。

彼女はとにかくよく眠った。誰よりも深く眠ることのできる人だった。

そして眠りから覚めるとまた話はじめるのだった。

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