4.お迎え
金髪の兄ちゃんはどうしても現金が欲しいようで、俺の財布と教材じゃ納得してくれない。
だが残念なことに、俺にはこれ以上現金の持ち合わせはなかった。
本当だ、神に誓ってもいい。今の俺には11万円と小銭が少しあるくらいで、バッグの中に残る金目のものは教材と筆箱くらいだ。
こうなったら致し方あるまい。
金で全てを解決するつもりだったが、お兄ちゃんが欲しい金額を差し出せない以上、ここは穏便に逃げ出す必要がある。
俺にはまだ様々なカードが残っていた。
借金取り立ても失敗し、失禁も未然に防がれ、お金でも納得してもらえなかった以上、あの魔法の言葉を使うしかない。
俺は俺が知り得る中で、例え教師だろうが先輩だろうがヤクザだろうが阻むことのできない言葉を使うことにした。
「あのー、僕トイレ〜」
この言葉は強力だ。サッカーで例えるなら、レッドカード並みの強さを誇っている。
トイレ〜という単語はやんわりとしているが、具体的に言えばおしっこやクソがしたいという意味だ。
それは俺たちが人間である以上絶対に避けられない生理現象であって、何人たりともそれを阻んではならない。
学校に通っていた人なら、一度は耳にしたことがあるんじゃないだろうか「隣のクラスの○○、先生がトイレに行かせてくれなかったから漏らしたらしいぜ」というやつ。
人である以上避けられない生理現象を我慢しろというのは、とち狂っている。我慢しろというやつは人間じゃない。玲奈の退学を賭けてもいいくらいだ。
だからこの言葉は誰にでも効く。
金髪の兄ちゃんは、俺の魔法の言葉を聞いた途端に眉間に皺を寄せると、一瞬だけ腕に入れる力を緩めた。
明らかに動揺している。ここでクソをぶち撒けられると困るのだろう、俺も困る。
「どっちだ?大か?小か?」
「どっちも…これって中って言うんですかね?ははっ」
大と小を同時に出すなら、足して2で割って中だ。誰がなんと言おうが、大と小が同時に出るなら中なのだ。
それは小学校で足し算を習っている奴ならバカでもわかる。高校になってもこれがわからない奴は己の知識のなさを深く悔いた方がいい。
しかし俺が中だと言うと、金髪の兄ちゃんの表情は一瞬にして豹変し、真っ赤になった。
それは嵐山モンキーパークにいる猿のように真っ赤な表情で、人というより最早猿に近い。…というか猿だ。
「テメェいい加減にしろよ!ぶん殴られてえのか!」
大と小を同時にするのが許せない派なのか、男は大きく拳を振り上げてくる。
ちょうどその時だった。
背後から車のエンジン音が聞こえ、金髪の兄ちゃんはピタッと動きを止める。お友達でも来たのだろうか?
「坊っちゃん、こんな所で何してるんすか?」
背後から聞き慣れた声が聞こえてくる。どうやらお兄ちゃんたちのお友達が来たのではなく、俺のお友達が来たらしい。
これで俺がここでクソをぶち撒けなくても、穏便に済ませることができそうだ。
俺は背後から聞こえてくるエンジン音と声を聞くと同時に、首を120度ほど回して、運転席に座る男に向かって声をかけた。
「あ、雨龍?悪いけど現金持ってない?この人たちに渡したくてさー」
俺が振り返ると運転席に座っているのは、顔半分ほどに刺青を入れた、柄の悪い男だ。コイツは雨龍といって、まぁ学生で言う友達みたいなものだ。
「べ、ベン○レー…?」
「つか坊っちゃん…?」
借金取りの兄ちゃんたちの声が聞こえてくるが、無視でいいだろう。
何やら車も欲しそうだが、流石に車はプレゼントすると親父に怒られるし、そもそもこの車は俺のお気に入りだ。免許なんて持ってねえけど。
雨龍は突然の俺の発言に少し驚いたようだが、俺の真正面に立っている借金取りたちを見てすぐに察してくれたのか、助手席から銀色のアタッシュケースを取り出してくれた。
「へい!今日の取引分っす!坊っちゃんのためならこのくらい、親父も許してくれるでしょう!」
俺は雨龍から差し出されたアタッシュケースを受け取る。
受け取ったアタッシュケースはそこそこの重みがあって、これなら給料が少ない兄ちゃんたちも喜んでくれるはずだ。
「お、ありがとう。いくら入ってる?」
「大体これくらいっすね」
「おー、ぼちぼちだな。ちょっと待ってろ雨龍、すぐに話終わらすから」
「うす!」
10本指が立ったから、多分100万くらい入ってるんだろう。
100万にしては重い気もするが、やっぱりこういうのは重厚感が大事だし、アタッシュケースが重いのかもしれない。
俺が雨龍から受け取ったアタッシュケースをそのまま金髪の兄ちゃんに突き出すと、金髪の兄ちゃんは俺の胸ぐらから手を離し、大人しくアタッシュケースを受け取ってくれた。
やっぱり現金が良かったようだ。それならそうと最初から言ってくれたら、クソをぶち撒ける覚悟なんて決めなくて良かったのに。
まぁ、これにて一件落着だ。
さっきまで嵐山モンキーパークになっていた兄ちゃんも顔色は元通りだし、今日は焼肉でも食って帰ってくれ。
俺は手を離してくれた金髪の兄ちゃんに手を振ると、車の助手席側に回ってからお別れの挨拶をした。
「じゃあ、俺はこれで帰るんで。お仕事頑張ってくださいね」
「お、おう」
かなり満足しているのか、アタッシュケースの中をそそくさと開けた金髪男は、中身を確認した後ににっこり笑顔で見送ってくれる。
「雨龍、出せ」
「うす!シートベルトおなしゃす!」
「おう」
俺が車を出せと頼むと、雨龍は軽くアクセルを踏んでから車を発進させた。
そしてサイドミラーから背後を見ると、金髪の兄ちゃんはよっぽど嬉しかったのか、大きく手を振りながら見送ってくれた。
それはなんだか気分が良くて、久しぶりに人助けをしたような、そんな気分になってしまう。
「坊っちゃん、ついにデキたんすね!」
遠くなっていく金髪の兄ちゃんが見えなくなったタイミングで、雨龍が口を開く。
「は?何がだよ」
一体何がデキたのだろうか?
クソを我慢?冗談言うな。クソは物心ついた時にはもう我慢できてたぞ。
まるで俺があそこでクソをぶち撒けようとしていたのを察知していたかのように嬉しそうに微笑む雨龍は、刺青の入った顔に似合わないほど心底嬉しそうな笑顔を見せて、親指を立ててきた。
「とぼけないでくださいよ!彼女っすよ!さっすが、1000万をポンと渡して去るなんて、あの女も坊っちゃんにベタ惚れっすよ!」
笑顔で話す雨龍を見て、俺は背筋が凍った。
コイツ今なんつった?