17.お願いします!
プール清掃も終わり、俺は1人着替えを済ませる。
背中には隠さなければならないもの(刺青)がある故に人がいなくなるまで隠れて待機していた俺は、ようやく人がいなくなった更衣室で、1人寂しく替えていたのだ。
すっかりオレンジ色に染まった夕焼けの差し込む更衣室で、玲奈に殴られた頭を触る。
「痛っ…」
コブが出来てる。
思いっきり殴られたから腫れるだろうとは思っていたが、結構行ってるな。
まぁデッキブラシで殴られたわけだし、このくらい行っても仕方がない。
「さて、帰るか」
制服に着替えたし、荷物も持った!
あとは沙羅の待つ愛の巣に帰るだけさ!待ってろよ沙羅、今日こそ連絡先を聞き出すからね!
何か忘れているような気もするが、どうせしょうもないことだ。
今日最も重要だったプール清掃もやったし、成績に影響することは全部済ませている!
俺は意識高い系の陰キャだから、抜かりない。
この時、俺は物凄く浮かれていた。
別荘に帰ると好きな人の靴が玄関に置いてあるし、もしかするとまた沙羅と話す機会があるんじゃないかと、思春期特有の恋愛感情が溢れ出ていたからだ。
まるで青春映画のように廊下を駆け抜ける俺の姿は、見る人が見れば微笑ましく感じるのかもしれない。走ってるのは陰キャだけど。
しかしそんな俺の浮かれた感情は、長くは続かない。
それはちょうど昇降口にたどり着いて、靴を履き替えたタイミングだった。
部活動生の声が微かに響く昇降口の中で、人の気配がして顔を上げる。
そこには夕焼けを背にして立つ、見覚えのあるシルエットがあった。
「あれ…早見さん?」
このシルエットは早見玲奈だ。
しかし帰宅部の彼女が、わざわざこんな時間まで学校にいる理由がわからない。
確かに今日はプール清掃もあったから帰るのが遅れるのは理解できるが、彼女の家はすぐそこだし、誰かと変える必要性なんてない。
それに玲奈は1軍だから、借金問題がなくなった今、ぼっちで行動する必要性がないのだ。
見上げた先で腕を組んだまま仁王立ちする彼女は、俺と目が合うと口を開く。
「時間ある?」
「ないです」
間髪入れずに即答する。
あるけど君に時間を割くくらいなら沙羅の下に走って向かいたいと思います。
俺にとって何よりの優先事項は、沙羅だ。
早く沙羅と同じ空間で空気を吸わないと、中毒症状が起きて死にそうなくらいだ。俺は沙羅の吐息を吸わないとイライラするんだ。
「即答て…ちょっとくらい時間あるでしょ!」
「ないよ!俺は忙しいんだ!」
お前が思っているより何倍もな!
俺が時間がないと答えたのが気に食わなかったのか、玲奈は声を荒げながら近づいてくる。
「そもそも、俺と関わってたらお前の格も落ちるぞ。別に俺は、金を渡したから仲良くして欲しいなんて言った覚えはない」
この際ハッキリさせておこう。
俺は玲奈に対して、恩着せがましくカースト3軍から拾い上げて欲しいなんて思ってないし、関わって欲しいとも思っていない。
入学してからつい先日まで一度も関わったことがないのに、この数日で3度も校内で接してきた彼女に呆れざるを得ない俺は、ハッキリとこの行為が迷惑だということを告げる。
「でも…今日はアンタを待ってたわけだし…」
「俺を?罰ゲームか何かか?」
玲奈が俺を待つなんて、あり得ない。
さっきまで生理の話で激怒した彼女が、こんな陰キャのために気持ちを切り替える可能性なんて万に一つもないし、だとするなら考えられる可能性は罰ゲーム。
きっと思わせぶりな態度を取って、興奮した俺をどこかから撮影して明日クラス内でばら撒く算段なのだろう。
「違うわよ!お金よ!ちょこちょこでいいから返して欲しいって言ったのアンタでしょ!?」
「ありがとうございます!早見様!」
「アンタ、お金のこととなるとプライド無くなるわよね…借金返してくれた奴とは到底思えない」
そりゃそうでしょ。
あの金は俺のじゃないし、手違いで渡してしまった1000万だ。今の俺は逃亡生活でなんとか生きているわけだし、お金が圧倒的に足り…
そこで俺は、あることを思い出した。
雨龍からのメッセージ。
あれは間違いなく、親父が祝福していた。
…ということはつまり、俺はこいつを実家に連れて行くことさえ成功すれば、1000万のことをチャラに出来てお小遣いも貰えるのではないだろうか?
親父は玲奈を実家に連れて来いと言っていたし、上手くいけば全てが丸く収まるかもしれない。
これは俺の目の前に転がっている、最初で最後の一発逆転のチャンスだ。
失敗すれば親父に1000万の損失の対価を支払わされるだろうが、成功すればオールオッケー。
「早見、お願いがある」
「え?何?」
「彼女やってくれない?」
「は?無理」
「即答!?」
おい!お前がいないとこの計画そもそも破綻するんだけど!?
1000万は今付き合っている彼女のピンチに使いました!と言って許しを得ようとしたが、そもそも玲奈が協力してくれないとなると俺の人生はお先真っ暗だ。
彼女をやって欲しいと聞いた玲奈は、俺にじっとりとした眼差しを向け、今にも唾を吐き捨てそうな表情になっている。
「話を…」
「無理。やっぱりアンタ、最初からそういうプレイするのが目的だったんでしょ。やっぱり最低ね」
「最後まで話聞けよ!?」
なんで俺が無理やり強要して私腹を肥してるみたいになってんだ!?
恋人発言がよっぽど気に食わなかったのか、俺の弁明も聞かない彼女は、10000円を床に置いてそのまま立ち去ろうとする。
「待てって!あの1000万のせいで俺はピンチなんだよ!」
「…なに?」
ようやく反応してくれた。
こいつを今度から呼び止めるときは、1000万と呼ぶことにしよう。
俺に恩があるからか、1000万という単語を聞いて立ち止まった玲奈は、夏の風に髪を揺らしながら振り返る。
「実はあの時の金、俺は100万だと思って渡したんだよ。…けど実際は1000万入ってて、それを無くした事が親父にバレた」
俺は玲奈が振り返るのを待ってから、ありのままの事実を伝えることにした。
ここで変に取り繕って話せば後でボロが出るだろうし、素直に話して率直な意見を聞きたい。
「はぁ…なんとなくわかってたわよ。いくら金持ちでも子供が1000万すぐに用意できるわけがないって…それで?」
「その後、ほら、車運転してた奴がいるだろ?アイツがお前のこと俺の彼女って言ったみたいで、おかげで親父は大はしゃぎ。実家に連れて来いって言われたわけだ」
「拒否ったら?」
「まぁお前も俺も殺されるだろうな。何しろお前は1000万を借金取りに渡してて、返済方法がない。俺も俺で、もうどうしようもない」
「ちょっと!なんで私まで殺されなくちゃいけないの!?あの金はアンタが勝手に…」
「勝手にでもなんでも、結果的にお前の家庭は救われたんだろ?その対価に1日だけ恋人のフリをして挨拶をしてくれればいいだけだ。夏が明ける頃には、俺の口から別れたって言っとくから」
そうするのが1番いい作戦だ。
下手に数日で別れたなんていうと怪しまれるし、夏休みの1ヶ月は玲奈と顔を合わせる機会もないから、互いに問題はない。
後は夏休みが終わったタイミングで、喧嘩別れしたとでも言えば親父も納得してくれることだろう。
玲奈は俺の話を聞き終えると、頭が痛いのか額に手を当て、深いため息を吐いた。
「…わかった。1日だけアンタの彼女役すればいいんでしょ。やるわよ」
ありがとう1000万の女!