親友の様子がどうもおかしい
突然だが、私の親友の様子がここ最近おかしい。
その親友が目に見えておかしくなったのは、奴に恋人が出来た日に遡る。
『おい奥田! 驚け、俺になんと可愛い後輩の彼女が出来たぞ!!』
いつものように親友である早乙女岳と学校で2人、居残り補習をしていると、先生が出て行った瞬間椅子を後ろに倒し早乙女が私を振り返った。
『へぇ。良かったじゃん。彼女欲しがってたもんね』
『そーだよ!もうさー、俺にマジ惚れしてるらしくってさぁ……』
早乙女の惚気話に頬杖をつき相槌を繰り返しているのが私、奥田沙和である。
ちなみに、彼氏は居ない。
そんな私を馬鹿にしてか、この高校に入学して出会ってからというもの共に赤点の度に補習を繰り返し、絆を確かめ合った仲であった早乙女は私を可哀想な目で見つめた。
『可哀想になぁ奥田……同じバカだっていうのにお前って奴は……男子にもモテないで……』
『何でいきなり彼女出来た日からそんな上から目線で同情出来るの?』
腹が立ったので前の椅子を蹴り上げる。椅子を斜めにバランスだけで支えていた早乙女は顔を青くして自身の机にしがみついた。
『あっぶねぇ!!おま、奥田!!お、俺が大好きだからって……』
『誰、その奥田。私じゃない奥田だよ』
逆に鼻で笑い返してやる。もしかしたらこんな小物の早乙女を好きだと言った女子は罰ゲームなのかも知れない。
説が濃厚になり始めた私は、喚く早乙女を無視して数学のテストと向き合った。…………クソッ!! 何で数学に突然ローマ字が出るようになったんだ……!!
『……なぁ、奥田……何で数学っていきなりローマ字出るようになったんだろうな……』
『……早乙女。やっぱり私達、親友だね』
『イエーイ!!』
『イエーイ!!』
お互いを熱い視線で見つめ合いハイタッチを交わす。彼女が出来たって、彼氏が出来たって私達は親友だ!!
――――と、思っていた時期もありました。
過去を思い出し、ため息を吐く。それを目の前の女子は自分の事に対してだと思い、怒りを露わに足踏みをし始めた。
「言いたい事があるなら言ったらどうですかぁー!? 先輩?」
「いや、無いけど……」
目の前の小さな女の子から溢れんばかりの殺気を感じる。まるで小型犬サイズの土佐犬だ。
くりくりとした真ん丸お目目はまるでチワワの皮を被った土佐犬。
小さな唇は今にも私の首に噛みつかんとする土佐犬のよう。まさに人型の土佐犬だ。
「私の事が邪魔なんですよねぇ!? でも可哀想! 私、早乙女先輩の彼女なんでぇ~!!」
あたかもそれが事実のように話しているが、私は彼女に対して今の所土佐犬以外の事は考えていない。
しかしそれを否定しようにも、目の前の彼女は分かってるんだから!と尚更興奮する始末。お手上げだ。
私はどうすれば良いのか分からず頭をガシガシと雑に掻く。
「えっと……それで、何の用?」
この子……小柳さんと言ったか。彼女はどうやらあの早乙女が自慢げに話していた彼女らしい。……随分と獰猛な彼女だ。
困惑しながらも問うと、土佐犬はその質問を待ってました!と言わんばかりに鼻の穴を膨らませ、足音を響かせ私に一歩踏み込んだ。
「分からないんですかぁ? 邪魔なんですよ、先輩。早乙女先輩の周りをうろちょろと……彼氏が居なくて寂しいんだと思いますけどぉ……それ、恥ずかしくないんですか~?」
「いや……そもそも同じクラスだからうろちょろって言われても……」
そもそも早乙女から来るのだ。「昨日のドラマ見たか!?」と来るのも「なぁ奥田も昼、パンか?だったら一緒に行こうぜ!」とやって来るのも早乙女の方なのだ。
「だから~! もう口利かなければいいじゃないですかぁ!!」
「それ無視? それはクラスで私が浮くじゃん……」
いきなり無視は流石に酷い。私は顔を顰め首を振るが、土佐犬はそれに尚更顔を赤くし「口を利くな」と咆える。
一歩私が下がると一歩踏み込む土佐犬。一体どっちが先輩なのだろうか?
「……っっ~!! 奥田先輩最低っ!! 人の彼氏の事、狙ってるんだ!! 私から早乙女先輩の事、取る気なんだ!!」
そう叫んだ次の瞬間、突然の号泣。もう私はついて行けない。
呆気にとられる私。とりあえず座り込んでいるので立たせようとすると手を振り払われる始末。
「や、止めてくれない?ほら、ここ廊下だし……」
人の目がある事を知らせて宥めるが、土佐犬は泣き止まない。
大方私を悪者にしようとしているのだろう。実にあざとい。
そしてお決まりのようにそこにやって来る空気の読めないバカ。
「えっ!? な、何やってんだよ奥田……に、小柳ちゃん?」
ギャンギャンと泣き喚く土佐犬を見て早乙女が珍しくドン引きしていた。
しかしやはり彼女が泣いていると心配なのだろう。私にどういう事かという視線を投げかけながら、早乙女はあわあわと土佐犬を宥めた。
……これは私が怒られるパターンかな?先輩だし……。
まぁ泣かせた事は事実だ。ここは別に悪くなくとも謝っておくべきだろう。
――と思っていると、突然鉄砲玉が早乙女の腹めがけて私の眼前を駆け抜けた!
「うわあああんっっ!! 早乙女せんぱいぃっ! 私ぃ、奥田先輩に脅されましたぁぁ!!」
「フグッ!!?……っぐ、お……おぉっ……そ、そうか……うぅ」
青い顔をしながら何かを耐えてる様子の早乙女。絶対土佐犬の話、聞いてないな。
可哀想……と、お腹が大変な事になっている様子の早乙女の同情の視線を送る。土佐犬を彼女にすると大変だ。
とりあえずは彼氏の登場で落ち着いた様子の土佐犬。自慢げに私を振り返っている辺り元気そうだ。
「えっと……じゃあ、極力話さないようにしとくよ……ごめんね」
「べーっだ!! 私と早乙女先輩の愛を引き裂こうなんて、女子力の無い奥田先輩じゃ無理ですよーっだ!!」
「っこ、小柳……ちゃん……ちょっと、離れて……」
非情に腹の立つ土佐犬からの一言に殴ってやろうかと思ったが、青い顔で震えている早乙女を見て溜飲が下がる。
それに流石にあの早乙女にこれ以上負担をかけるのは可哀想だ。
後ろでまだビービーと喚く土佐犬の叫びを背に、私は何食わぬ顔でその場を離れた。
「なー奥田。数学って何で存在してんだろうな? 一緒に教科書燃やそうぜ」
「…………」
「XイコールYの時って、そもそも何で分けたんだよ。どっちもXにしろよな。な? 奥田」
「…………」
「何だよ奥田ーー!! 何か喋れよーー!! 親友だろーが!!」
早乙女が私の机を揺らす。やめろ、落書きが乱れる。
私と同じくじっとしている事が出来ない早乙女は、会話の相手が居らず不満げに椅子を揺らす。
いつもは私が何らかの言葉を返すから不満なのだろう。
「何だよ! 俺何もしてないんだけど!!」
「……ふぅ……してないけど、彼女に釘刺されたからね。もう極力私に喋りかけないで」
「はぁ!? 何でだよ!」
意味が分からなそうに目を丸くして無理やり私の視界に入り込む早乙女。本当に分からないようだ。
私は読みもしない教科書を閉じ、苛立たし気に早乙女を見やる。
「だから、彼女に言われたの。早乙女と喋るなって」
「だから! 何で喋ったら駄目なんだよ! 俺ら親友じゃんか!!」
「男子と女子だからでしょ。普通彼氏が他の女子と仲良くしてたら嫌でしょ」
そう言って早乙女を睨むと、早乙女は睨み返してきた。早乙女はバカなのでその理論が分からないらしい。
私はこれ以上話しても意味は無いだろうと、解けもしない数学の問題を解き明かしにかかる。
……本当に、何でどっちも最初からXで表示しないんだろう……まどろっこしい。
「……じゃあ、もう俺は奥田と喋れねーの?」
「そうじゃない?……まぁ、クラスメイト程度には喋るけど」
「……奥田は、俺と喋れなくて寂しくないのかよ……」
何だか私と喋れない事を寂しいように言う早乙女を見上げる。
早乙女はそっぽを向きながらも、私の反応を窺うようにチラチラと視線を寄越した。
……寂しい、か。
「そりゃ寂しいよ。だって初めて補習してからの付き合いだよ? 寂しくない訳ないじゃん」
そう言って苦笑いを浮かべると、早乙女は僅かに目を瞠った。
思い出す、高1の数学での補習授業。
初めてのテストでまさかの2点。自分で自分を疑った。逆にどこで2点も取れたのか気になるレベルである。
そしてぽつんと1人教室で補習。何と憐れな事か。
1人ぼっちの教室に、カリカリとペンの走る音だけが小さく響く。
それはまるで、バカがこの学校には自分しか居ないような幻覚を思わせた。
――何してるんだろう私。せっかく頑張って高校に入れたのに。
これは留年かな……と遠い目で数字を見つめていると……不意に教室のドアが開いた。
『おおっ!? ラッキー! 俺だけじゃないじゃん補習!! お前誰? 名前なんてーの?』
これが、私と早乙女の出会いだ。
孤独な戦いに飛び込んできた同じ境遇の早乙女。
その早乙女と喋れなくなるなんて……寂しくない訳が、ない。
「……でもさ、遅かれ早かれそういう運命じゃないの? 早乙女だって彼女欲しいってずっと言ってたじゃん」
知っていた。早乙女が彼女を欲しがっていた事を。
だから、早乙女に彼女が出来て良かったと思ったし……出来れば、その幸せが長く続くように応援もしたいと思った。……その相手が土佐犬でも。
「それに私以外にも早乙女、友達居るじゃん。別に私1人居なくなったって何とも思わないって」
眉間に皴を寄せて私を睨む早乙女にからりと笑う。
早乙女には私以外に男子の友達がいっぱい居る。彼等とはこれからも仲良く出来るだろう。
私にも女子の友達が居る。早乙女としか話せない事だってあるけれど、いつかは寂しさだって忘れるものだ。
……その言葉を最後に、私と早乙女の会話は途絶えた。
早乙女の為を思っての会話だったはずなのに……何故か、喧嘩別れしたような気がして、少し胸が苦しくなった。
「なー早乙女!! 昨日の試合の中継見た?」
「あーゴメン! それ見てないわ」
「はあーっマジかよ!? 神回だぜ神回!!」
お昼時、雲を眺めながらクラスの会話に耳を傾ける。
自然と親友の言葉を拾うバカな耳を虐めるように、私は小さく耳を抓った。
「――ねぇ聞いてる? 沙和?」
「……え?……あぁ、ごめん。雲見てた」
真面目に聞きなよー! と友人からお叱りを受け、笑ってごめんと彼女に向き直る。
それでも彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「何か、最近ボーっとしてる事多いよね。沙和」
「そうかな? いつも通りじゃない?」
嘘を吐いた。
本当はあの日から休み時間に何をすればいいのか分からずボーっとしている。
友人の話がつまらない訳では無い。……ただ、休み時間はよく……早乙女と話していたので、会話が無くて暇だと思っただけだ。
しかし私の嘘にすぐ気づいたのか、彼女は親指だけで彼女の後ろの方に居る早乙女を指差し残念そうに私を見つめた。
「……早乙女に彼女出来てから、2人とも全然話さなくなったもんね」
「……普通、彼女居たら騒ぎにくいでしょ」
「まぁ確かに。嫉妬されても困るしね」
でもあの知能指数の低いやり取り見れないのはつまんないわー! と友人は他人事に笑った。
「……あっ! じゃさ、沙和にも彼氏が居たらまた喋れるんじゃない?」
名案! とばかりに友人が人差し指を天に向けて立てた。どうも私が早乙女と話していないとつまらないらしい。
……彼氏。……いや、要らない。あの土佐犬の男子バージョンが居たら恐怖だ。
私はキラキラとした視線を投げかける友人に困った笑いを向けた。
「……うーん……それ……「奥田!! 奥田は昨日の試合見たのかよ!?」
机に振動が走る。
私の机につかれた手を見上げると……珍しい事に、あれから全く喋りかけて来なかった早乙女が私を見下ろしていた。
私は目を丸くして早乙女を凝視する。
「……え……えっと、……バ、バスケの……?」
「そうそれ! スリーポイントが入って逆転したってやつ!!」
クラスメイト全員の前で無視はいかがなものかと考え言葉を返すと、早乙女は顔を輝かせて頷いた。
どうしようかとへっぴり腰になる私をニヤニヤと見ていた友人が「ここ座りなよー」と早乙女に自分の席を譲った。
そしていつものように私と早乙女は向き合うような形で対面する。
「そうだよ! これだ!! 別にクラスメイトとして喋ったらいいんじゃん!」
「ダメでしょ。女子と2人がダメなんだって」
ルンルンと楽し気に会話を始めようとする早乙女に待ったをかける。だが早乙女は聞く耳を持たない。
「どうせ小柳ちゃん俺に会いにクラスまで来ねーんだから細かい事気にすんなって! 俺と同じバカなんだから!!」
「ちょっと待って。一緒にしないで。私、生物は得意だから」
「俺だって地理は得意だから」
何を張り合ってんの? と睨むと、早乙女はケラケラとよく笑った。
それに頭を抱えながらも……私の口角は何故か疲れる心とは裏腹に上を向いた。
……そうだ。結局私だって、早乙女と話すのが1番楽しいのだ。
「……休み時間だけ、ね」
「当たり前だろ、奥田! どんだけお前に時間割くと思ってんだよ」
「そんな事思ってないって……っはは……!」
バカみたいな事を言う早乙女。その当たり前の日常が少し戻って来た気がして、私の喉から久々に自然な笑いが零れた。
「せーんぱいっ! 帰りましょー!!」
下駄箱前まで来ると、土佐犬が早乙女を待っていた。……何だか、土佐犬が早乙女を待っているのを初めて見た気がする。
しかし、土佐犬は知らないのだろうか?
「わり、小柳ちゃん。俺今から部活だから」
「えーっ! 私ぃ、ずぅーっと待ってたんですよ?」
ばかばかぁと申し訳なさそうにする早乙女の胸をポカポカ叩く土佐犬。
……しかし、土佐犬はどうして彼氏である早乙女が部活に入っているのを知らないのだろうか?
普通、一緒に帰る時に言われるはずなのでもっと前から知っているはずだ。
土佐犬の謎な行動に首を傾げる。
それに早乙女も彼女が出来たわりにあまりイチャついたりしないのも意外だ。もっとデレデレしてるのかと思った。
健全なお付き合いっていうやつのかな? と少し笑う。早乙女の部活を見に行こうとしている土佐犬を見て、可愛い所もあるじゃないかと微笑ましく思った。
早乙女はバスケ部に所属している。私と同じく推薦入学だ。
だから赤点になっても少々大目に見られるし、この高校にも合格できたのだ。
ちなみに私は弓道部である。
「あっ居た居た! 奥田さんっ!!」
「? あっ、部長!」
ボーっとそのやり取りを見つめていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、我が弓道部の部長が涼し気な顔に安堵を浮かべて私に手を振っていた。
「どうしたんですか? 今から部室に行く所でしたけど……」
「いや、奥田さんにそろそろあの話の返事聞こうかと思って……」
待ちきれなくて……と部長はお茶目に頬を染めた。
ちなみに、あの話というのは私が次期弓道部部長になるという話だ。
「でも、私なんかが……」
苦笑いで頭をかく。嬉しい話だが、女子が部長というのは弓道部の男子からの反発は免れないだろう。
故にどうしようかと心配そうに返事を待つ部長にごにょごにょと言葉を濁しながら辞退を申し出ようとすると、突然部長に手を握られギョッとする。
部長は結構突拍子の無い事をするから驚かされてばかりだ。
「そんな事無いよ! 手を見れば分かる!」
「えっ……手……で、すか?」
困惑しながら己の手を見ると、皮膚が分厚く固くなったおおよそ女性らしいとは言えないごつごつとした手が見えた。
弓の握り過ぎでいつの間にかこんな手になってしまっていたのだ。
その固く柔らかさの無い手を部長に包まれている事に気づき頬が熱を持つ。
……と、いうか男の人に手を握られた事なんて幼稚園児以来なので免疫がない。
しかしそんな私の動揺にも部長は気づかず、あろう事かそのまま私の手を労わるように優しく撫でた!!
「この手は努力の証だよ。奥田さんは誰よりも相応しい。僕が、保証する」
「っぶ、部長……」
ドクドクと心臓が脈打つ。その心音も知らぬ部長は、私に柔らかい微笑みを向けた。
黒く切れ長で涼し気な目元。さらさらとした髪は部長が弓を引く瞬間に美しく靡く。
その部員全員の憧れである部長にっ……! い、い、今てて手を……!?
部長と暫し見つめ合う。
……ど、どうしよう……!? こ、こ、これって、どういうタイミングで手を離せばっ……!? わ、私分から
「オラアッッ!!!」
「うわっ!?」
「わあっ!?……えっ…………ちょ、何してんの早乙女……」
突然、私の青春っぽい空間にチョップが落ちて来た。
私と部長はそれを避け、お互いが同じ極の磁石のように離れた。
私と部長が離れた後、早乙女はずっとチョップの態勢でそのまま不自然に固まる。
勿論私の問いかけにも無視だ。
「ねぇ、何してるの早乙女……」
「……わ、分かんねぇ……」
大量の汗をかきながら早乙女は固い声で答えた。
……いや、分からないのに人にチョップしちゃダメでしょ……危ないじゃん。
自分でもよく分からないように手を見つめ開閉を繰り返す早乙女。その早乙女を追いかけて来たのか、土佐犬が私にガンを飛ばしながら早乙女の背にくっついた。
「もーうっ、早いですよぅ早乙女先輩っ! 私にバスケ見せてくれるんじゃなかったんですかー?」
「あ……あぁ、そうだったよな……?」
首を傾げながら土佐犬の言葉に同意する早乙女。……何者かに体を乗っ取られたのだろうか? 怖い。
「奥田さん、そろそろ部活始まるから歩きながら話そうか。さっきの続き」
「あ、はい。……あの、さっきは早乙女がすみません……」
私を手招きして呼んでくれる先輩の隣を歩き、先程の事を謝る。あれは通り魔だ。
先輩は気にしてないよ、と柔らかく笑ってくれた。優しい人だ。
「じゃあお詫びに部長にならない? チョップの後遺症が……」
「嘘つかないでくださいよ。当たってないじゃないですか部長。それと部長の件は次の試合で結果が出てからにしてください。男子からの反発とかあるから嫌なんですよ……」
「あぁ、その問題もあったね」
ははは! と暢気に笑う先輩。その気の抜けた笑いに先程のトキメキは気の迷いだと知る。
やっぱり先輩は誰にでもする人だと軽薄さを確認し、私は呆れたような乾いた笑みを漏らした。
「お疲れー!」
「お疲れ様でーす!」
先輩に挨拶をし、私は部室を後にした。
今日は少し暖かかったのでまだ日が高い。これなら今日は明るいうちに帰れそうだ。良かった。
夜が苦手な私はホッとしながら靴を履き替える。
……こういう時に彼氏が居れば怖くないのだろうか?
知り合いに恋人が出来始めて、そういった事を意識するようになってきた私は無意識にそう考える。
……私も、彼氏が出来たら楽しいとか思うのだろうか?
そんな事を考えながら校門を出ると、出た瞬間に外に人が居る事に気づき驚いて立ち止まる。……不審者?
「……! おー奥田! お前ん所、終わんのおせーな」
「って早乙女か……ビックリしたじゃん……!」
早乙女の悪気の無い笑顔に脱力する。一瞬今日死ぬのかも知れないと考えた私の不安を返せ。
お前なら勝てんだろと人の気も知らず隣を歩く早乙女の肩を叩く。
失礼な。私はか弱い女子なのだ。人を殴ったら腕が砕けてしまう。
「っていうか何で居るの? 待ち伏せ?」
「違うっての!! 小柳ちゃんが居ないから奥田と帰ってやろうかなって思っただけだし!!」
「待ち伏せじゃん。早乙女のストーカー」
「違うわっ!!」
だいたい補習の時は一緒に帰ってただろーが!! とキレる早乙女に耳を塞ぐ。
それでも早乙女の反応が面白くて何だかニヤニヤとしてしまう。
「はははっ!……ん? でも土佐…………こ、小柳さん? 部活見てたんじゃなかったの?」
会話におかしな部分があった事に気づき早乙女に問う。
土佐犬は今日、早乙女の部活を見ていたのではなかったのだろうか? なら、何故今いないのだろう?
そう質問した私に、早乙女は何でも無さそうな普通の顔で私を見返し首を傾げた。
「いや、見てたけど。でも俺が部活してる間に仲良くなった1年と先に帰ったぜ」
「ああ、なるほど」
納得。先に帰ってしまったなら、そりゃ帰り居る訳が――…………
「…………え、そ……それって女子? だよね? 1年って……」
いや、まさかありえないよね。と震える手で早乙女を指差す。
流石に別の男とあの土佐犬も帰らないだろう。きっと同級生の女子だよ、女バスだ。
「いいや? 俺の後輩の坂本だけど? 男な」
……私は天を仰ぎ、盛大なため息を天に吹きかけた。
それを見て早乙女が、私が突然泣き出したのかと思い「情緒不安定だぞ!?」と私の周りをグルグル回って手をバタつかせる。
それを見て私はキレた。
「バカじゃないのッッ!? 何を普通に見送ってんの!? 怒りなよ彼氏なら!!」
「えっ……でも俺が部活早く終わらなかったのが悪いし……」
「悪くないわッッ!! 彼氏の部活中に彼氏以外の男と帰る方が悪いわ!!」
謎に遠慮を見せる早乙女にさらにキレる。彼氏の目の前で別の男と帰る女の方が悪いに決まっている!!
だいたいその後輩も後輩だ!! 後輩なら先輩の彼女と仲良くなっても帰んなよ!!
私はポニーテールを振り乱し暴れた。まるで我が事のように腹が立つ!
「な、何で奥田が俺以上に怒んだよ……」
「怒るでしょ普通!! 早乙女、良い奴なのに裏切って!! あんなに、喜んでたのに……!」
彼女が出来た報告を私にドヤ顔でしてきた早乙女を思い出し、一瞬イラっとしたが憐れに思った。
それから数日で浮気もどきをされるのだ。あの日のドヤ顔に涙が止まらない。
早乙女は私の理由に目を見開く。
こんな何にも胸を痛めてなさそうに見えて、実の所早乙女はきっと胸を痛めているのだ。そう考えるとものすごく可哀想だ。
「えっ……お、俺の為に、怒ってんの? 奥田……」
「そうだよ!! 早乙女が怒らないから私が怒ってんでしょ!? 何で早乙女は平然としてんのッ!? 彼女が別の男と居たら嫌でしょ!!」
まるで他人事のように言う早乙女にも腹が立ってきた。
そもそも何故早乙女はその時止めなかったのだ。土佐犬ももしかしたら嫉妬して欲しくてやっていた可能性だってあるのに。
だいたい早乙女も何私と普通に帰ろうとしてるのだ。
土佐犬が先に男子と帰ったからと言っても、それだって普通に浮気の可能性がある。私は一応女子なのだ。
怒りを露わに道端で怒鳴る私をカラスが笑う。……それに少しだけ自分が間抜けに思え、スッと怒りが冷めていくのを感じた。
……いやいや、待て私。これは私の問題じゃなくて早乙女達カップルの問題だ。
そう考え己の熱を冷ます。流石に私がここまで怒るのはおかしい。
たぶん私は土佐犬に腹が立ったのだ。私には早乙女と話すなと言う割に、自分は他の男子と話すのかという怒りから早乙女に要らぬお節介を焼いているのだ。
私は途端に先程まで暴れていた自分を恥ずかしく思い顔を片手で覆った。
「……っはー……ご、ごめん。何か白熱しちゃって……」
「お、おぅ……」
気まずい沈黙が夜に染まりかける道に落ちる。
私は暗くなり始めた事もあり、先程の失態をごまかすように早乙女を置いて早足で帰途を急いだ。
置いて行かれた憐れな男でも、一応は彼女持ちだ。早乙女が浮気を疑われないように、もう補習の帰りのように話しながら並んで帰ったりしない方が良いだろう。
「……な、なぁ奥田……彼女が、別の男と居たら……嫌、だよな……」
「そうでしょ、たぶん。私彼氏居ないから知らないけど!」
「だ、だよなぁ……俺も、たぶん嫌だし……」
「そうでしょ、好きなんだから」
贅沢な悩みだ。私はその問いを鼻で笑う。
急ぐ私の背を追いかけるように、早乙女が考え事をしながら付いてくる。
早乙女はそのまま、別れの電車まで何も発する事はなかった。
「――じゃっ、私こっちだから」
「……えっ?……あ、あぁ、そ……だな……」
呆然とした様子の早乙女の目の前で手を振る。どうやらやっと彼女に浮気もどきをされた自覚が出始めたらしい。
やはり数学が出来ないと脳の処理能力まで下がるのだろうかと恐ろしい可能性に震えていると、早乙女が突然私に近づいて来た。
「あ、あのさっ!! お、奥田……」
「えっ、何? どしたの?」
思わず鞄を構える。俺達カップルの事に口出すな!! とホームから突き落とされたら怖い。
だがやはり早乙女はそんな事をする人ではないので、私に近づきすぎた事に気づき、私から顔を少しだけ背け程よく下がる。
私はホッとして鞄を下げた。
「も、もう一度俺……ちょっと小柳ちゃんの事……考えてみるわ」
頬を少し緩めて早乙女はそう言った。
きっとお互いこれから話し合ったりして、寂しい思いをさせてないかとかお互いの理解を深めるのだろう。知らないけど。
「それが良いんじゃない? 付き合いたてなんだから早くそういうのは話し合ってた方が良いよ」
とりあえず親友の悩みなのでちゃんと答える。お付き合い歴の無い私のアドバイスだが、無いよりかは良いだろう。
それだけで良かったのか、早乙女は嬉しそうにおバカな笑みを浮かべた。
「おぅ! だよな!……じゃあ、な。奥田。……夜、暗いから気をつけろよ」
「……う、ぅん……?……気を、つける……」
それを最後に私は電車に乗り込む。車内の席に座ると、すぐに電車は動き始めた。
……しかし私はそれにすら気づかず、座席で揺られながら口をポカンと開ける。
そしてハッと我に返り、早乙女の言葉をやっと飲み込んだ瞬間、頬をほんのりと赤らめた。
「……な、なんっ……し、心配?……いやいや違う!! 私のバカ!!」
去り際の夜道に気をつけろ発言に愚かにも私はときめいた。なんせ私は生まれてこのかた女子扱いをされた事がほとんど無いからだ。
それなのに、よ、夜道に気をつけろって……ま、まるで普通の女の子に対して言うような事を言われて驚かないはずがない。私の心臓は激しく暴れ狂った。
しかし、早乙女は彼女持ち。人の彼氏に一瞬とはいえときめくのは人としてどうなのだろうか?
それにあの早乙女だ。たぶんそこまで深く言っていない。
きっと足元に気をつけろという意味だ。そうだ、それしか無い。
1番可能性の高い結論に行き着き、胸は静かに脈を戻した。
その事に安堵する自分が何だか酷く滑稽に思え、口元が自然と自笑を湛えた。
……そしてその次の日、事件が起こった。
「どうして私がフラれたんですかっ!! 先輩が何か吹き込んだんでしょ!!」
「えぇ……早乙女、フッたの……?」
放課後、靴箱を開けるとなんと可愛いお手紙が。それは何と土佐犬からの果たし状だった!!
一応昨日の決着がついたのかな? と気になった私は何も知らずに体育館裏に行った。
するとそこには涎を垂らし私の首に噛みつき息の根を止めようとする狂犬病にかかった様子の土佐犬の姿が!!
「先輩が何か言ったに違いありません!! あの私の言う事なんでも聞いてくれる早乙女先輩が私をフるなんて……あり得ないっっ!!」
そして首を激しく振り回して私に怒鳴り散らしている……という訳だ。
まさかあの後フッたのか……早乙女。行動力が凄い。
結局彼女の浮気は容認できなかったようだ。早乙女は頭は良くないが心も広くはなかったらしい。
「でも、他の男子と帰ったんじゃなかったの? 謝った?」
「私は良いんですぅー!! ほっといた早乙女先輩が悪いんですぅ!!」
聞く耳を持たない土佐犬。絶対謝ってない。
結局聞いた所によると、土佐犬は早乙女と別れるのが嫌なのではなく、フラれたのが嫌なようだ。
「私ってばぁ、可愛いじゃないですかぁ? 先輩と違ってー」
「はぁ……」
土佐犬がチワワの皮を被っているようにしか見えない。
「だからフラれるとか、あり得ないっていうかぁ。理由も信じられないしぃ」
「何て言われたの? やっぱり浮気する奴は無理、的な?」
とりあえず合の手を入れてあげる。これでも私は先輩だ。バカにされているのは大目に見てあげよう。
……と思って言ってあげた所、どうやらそれが地雷だったらしく土佐犬は目を吊り上げ、烈火如く怒った!!
「言う訳ないじゃないですかバカにすんなよッッ!! バーカバーカ!! 告る男全員にフラれて死ねっっ!!」
「えぇー…………」
ドン引きするような形相で私を罵倒し、私の肩にわざとぶつかるように歩き土佐犬は走って体育館裏を去っていった。
「何言ったの早乙女……」
やはり素人のアドバイスはダメだったかと昨日、軽率な発言をした自身の頭を軽く叩き、私は部室に向かった。
「ねぇ奥田さん。やっぱりダメ?」
「ダメです」
「冷たいなぁ」
私の周りをウロチョロする部長。標的と間違えた私は弓を構える。
それに慌てて部長は奥に引っ込んでいった。最近は卒業が間近に迫っているからかしつこくてかなわない。
試合の結果が出てからまた考えてくれないかなー……と考えつつ的に再度狙いを定めていると、何だか背後が俄に騒がしくなり始め集中力が削がれた。どうしたんだろう?
「あれー ?君バスケ部? 何しに来たの?」
「誰か待ち?」
バスケ部。という言葉を聞いてまさかと振り返る。
するとそこには私の方を見つめ驚いたような顔をした早乙女が!!
私は弓を仕舞って早乙女に駆け寄った。
「何してるの? 部活終わったから見に来たの?」
「あ、お、おぉ……奥田が部活してる所って、見た事無かったなぁって思って……」
「何それ、暇人じゃん」
今更な事に笑ってしまう。1年の初めに出会って今はもう2年の後半だというのに、どうして今更見学に来たのだろうか?
笑う私を早乙女は何も言わずに照れたように見つめた。
それが少々気恥ずかしくて、私は何かをごまかすように軽く咳ばらいをした。
「え、えっと……見てく?」
「い、いいか? 見てても!」
「どうせあと20分ぐらいで終わるしね。良いですか? 部長」
遠くの部長に確認を取ると、部長はにこやかに頷いた。……あとでまたお礼に……とか言われそうで怖い。
しかし了承は得たので、私は早乙女を部室の中に招き入れ、床に座らせる。椅子が無いのは勘弁してほしい。
「じゃ、ここで見てて。そんな面白い事もないけど」
「あぁ、ありがとな。……あの……お、奥田?」
「ん? 何か質問?」
呼び止められて振り返る。質問なんて早乙女が珍しいと思い少し感心したが、早乙女は呼び止めたわりに私の目を見ない。
そのくせ手招きで私を近くに呼び寄せる。私を何だと思っているのだ。
少し腹は立ったが、珍しくうちの部室に来たのだ。優しくしてやろうじゃないか。
そう思い早乙女の隣に屈む。……汗臭くないと良いんだけど。
「何? 早乙女。答えられる範囲なら私が答えるけど」
「ち、違うって……えー…………お、奥田の、さ……弓道着……」
「うん?……これ? これがどうかした?」
「その……あ、あれだよ…………い、良いっていうか……似合って……る…………」
「…………はぃ?」
思わず口が開いた。言っている意味が分からない。
早乙女はその私が理解に苦しんで出た言葉が自身に聞き返した言葉だと思ったのか、もう一度同じ事を繰り返した。
「だ、だから似合ってるって……奥田の、黒い髪に映えてるし……奥田が、さっき弓引き絞ってた時も……何か、真面目で……良いなあって、お、思った……」
「…………」
何を言っているのだろうか? 早乙女は……。
よく分からなくなり、そのまま無言で部活に戻る。……早乙女、何て言った?
「お帰り奥田さん。次、奥田さんの番だよ」
「……はい、先輩」
だめだ、今考え事をしている場合ではない。今が大事な時期なのだ私は。
己に喝を入れ弓を構える。深呼吸をし鼓動を整え、的に狙いを――…………
『い、良いっていうか……似合って……る…………』
へにょん。
「お、奥田さんっ!? 全然引き絞れてないじゃないか!!」
「ご、ごめんなさい!! ざ、雑念が……! もう一度お願いします!!」
矢がヘロヘロと床に落ち、部長が目を見開いた。
私は部長に謝り、再度弓を構えた。……が! 先程の言葉がようやく頭に到達し、集中出来ない!!
に、似合ってる!? あの早乙女がっ、わっ、私に言ったの!?
その後の黒い髪に映えているやら何やらも思い出し、動悸が激しくなり始めた。もはや深呼吸なんて何の意味も成してはいない!!
何でいきなりそんな……部活も見に来るし、今日の早乙女はおかしい。一度でも彼女との出会いと別れを経験すれば、人はこうも変わるのか。
――結局私は、この日一度も的に矢を中てる事が出来なかった。
「奥田、めっちゃ外してたな」
「どっか行け早乙女。疫病神」
当たり前のように私と下校しようとする早乙女を片手で追い払う。
早乙女のせいで今日は散々だった。あんなに的を外したのは私史上例を見ない程に外した。
もう二度と見に来るなという意味を込めてそう言うと、早乙女はむっと口を曲げて尚更私に寄って来た。一体何なんだ今日の早乙女は!
「何だよ! 奥田が夜嫌いだから一緒に帰ってやろうとしてんのに……」
「いや、それはありがたいけど…………って、え?……な、何で夜嫌いなの知ってんの?」
驚き僅かに目を見開く。私はその類の話を早乙女にした覚えが一度も無い。
そんな間抜け面の私を見て早乙女が得意げに鼻を鳴らす。そして当たり前だろ、と私を見下ろし偉そうに笑った。
「奥田が夜嫌いなのぐらい、普通に見てたら分かるわ」
「…………」
――――見てた? えっ……見て……さ、早乙女って、そんな私の事見てた……?
自分でも何に混乱しているのか分からない程に混乱する。
その混乱に気づかない早乙女は、足を止めた私に合わせて足を止め、そのままペラペラと続きを話した。
「暗いの苦手だもんな。補習で遅くなった時、よく空見て不安そうにしてたし。だからまぁ……俺が居れば多少は? マシになんじゃねーかなって思って……奥田?」
ようやっと私の様子がおかしい事に気づいたのか、早乙女が私の顔を急に覗き込んできた。
その顔の近さに驚き、私は赤面し飛び退くように後ろに後退る。
……が。その瞬間、何を思ったのか早乙女が飛び退く私の手首を突然、これ以上下がるのを妨害するように掴んだ。
私はそれを認識した瞬間、顔が燃える程体温が上昇した!
「ひょっ……!? しゃ、早乙女っ! な、何掴んで……」
「えっ……あ、うわあっ!! ちょ、違うって!! ま、待てって逃げんな!!」
訳が分からなくなった私は早乙女が驚き手を離した瞬間に走って駅へと向かった。
後ろで私を追いかける早乙女の声を聞く度、私の胸は除夜の鐘が如く何度も私の中で激しく重い鼓動を響かせた。
――っつ……!! な、何なの早乙女! い、意味が分かんない!! 今までハイタッチ以外した事もないのに……!!
走る私の頬を夜風が撫でる。
その冷たさが心地いい程に私の頬が紅潮していたと知るのは、家に帰ってからの事であった。
「……奥田。何で昨日逃げたんだよ」
「知らない……」
朝、教室に入ると案の定早乙女が先に来て待ち伏せしていた。
不機嫌マックスの表情をしている早乙女をスルーして席に着くと、当たり前のように早乙女は私の前の席に座り正面から私をガン見した。
私はその視線に耐え切れず寝たふりを決め込む。元の席に帰れ。
「……な、なぁ奥田。あの……明日、朝……一緒に行かねぇ?」
「……何でいきなり一緒に登校する訳? 彼女と別れて寂しいの?」
突然の誘いに度肝を抜かれる。最近の早乙女は本当におかしい!
どうして突然、私と早乙女が一緒に学校に行く話になるのだろう!?
絶対照れてるのは私だけだと、机から赤面しているであろう顔を上げずにそう言うと早乙女が軽く息を呑んだ声が頭上から聞こえた。
それが気にならない訳では無いが、そういう誘い慣れしていない自分の顔を見られるのが嫌で耳だけ澄ましておく。
「……別れたの……知ってたのかよ」
「うん。土佐…………小柳さんが言ってたから……」
「ッッ!! っこ、小柳ちゃんっ! 他に何か言ってなかったか!?」
突然の勢いに顔を思わず顔を上げた。すると、あまり見ない早乙女の必死の形相に思わず顔の熱が冷める。……早乙女からフッたのではなかったのだろうか?
もしかしてやり直したいのだろうかと考えながら「何も聞いてないよ」と返しておく。
……早乙女から別れを切り出した事に怒り狂っていたとは言い難い。
「そ……そうか……良かった‥‥…」
ぼそりと早乙女が零した言葉を私の耳は拾った。何か聞かれたくない事があったようだ。
……まぁ、親友って言っても赤点で繋がれた絆だしね。言いたくない事だってあるか。
と思いつつ、少し寂しい気持ちを振り払うように私は明るく笑った。
「はははっ! じゃあ早乙女は小柳さんと別れたから朝が1人で寂しいんだー? へぇー?」
ニヤニヤと小馬鹿にするように笑う。ここで早乙女が怒ってじゃれ合うのが私達のいつもの光景だ。
それで早乙女が元気になる事を期待して早乙女の肩を指で突くと…………急に、早乙女にその人差し指を掴まれた。
どこかデジャヴを感じる。
「えっ……あっ、あー! お、怒った? 話題に触れて欲しくなかった感じ……」
「寂しいから奥田と登校したいって言ったら……してくれんのかよ」
「………へぇ?」
「なぁ、してくれんの?」
目が点になった。早乙女が真面目な顔で言っているのも訳が分からない。
え、本当に寂しいの?……いやいや、早乙女はそんなガラじゃないだろう。付き合う前まで普通に1人で登校してたし。
――――えっ、じゃあまさか…………私と本気で登校したいだけ……とか?
思わず目の前の早乙女を凝視する。
……嘘を言っているようには見えないが……り、理由が分からない……!
ヤバい。掴まれてる人差し指が燃える!!
混乱した私は慌てて指を抜こうとするが、それに気づいたのか早乙女は私の拳ごと、私よりも大きな手で握るように覆った。
「!! っさ、早乙女なっ! 何して……」
「いや、だってまた逃げんじゃん」
俺だって学習すんだからな。と笑われ頬に熱が集中する。
笑い声がどこか色っぽく感じ、尚更私の体温は上昇した。もはや微熱である。
そんな赤面している私を早乙女は近距離で興味深げに見やる。堪らず訳の分からない羞恥を隠すように睨み返すとケラケラと笑われた。腹が立つ!!
「ははっ!……で、どうすんの? 俺と朝、学校……行ってくれんの?」
「な、何で早乙女と……だ、男女の親友が一緒に登校してたら、キモイでしょ……」
「……んー……やっぱそうだよなぁ。普通に親友だったら一緒に学校行きてぇとか、思わないよなぁ」
何だか1人納得したように頷く早乙女。よく分からないがこれが変だという事には気づいてくれたらしい。
だよね! と同意するように私も深く頷いた。だ、だって……男女で登校って……なんか、カップル…………みたい、だし!!
早乙女と2人で登校する自分を想像して動悸が激しくなった。まるで私に恋人が居るようではないか!
しかもそれが早乙女!! いや、嫌いじゃないけどっ! で、でもしし親友をそういう目で見るのはおかしいというか……!! さ、早乙女はそういう意味で言ってるんじゃないし!!
私のバカ!! と彼氏がいた歴史の無い自分を心で殴る。
すぐそういう方向に結び付けようとするのはモテない女の悪い癖だ!!
「……ね?早乙女……やっぱりいつも通り――」
「じゃあやっぱ奥田と登校してーわ。待ち合わせしようぜ奥田!!」
「何でそうなるの!? 聞いてた? 早乙女!!」
もはやため息が止まらない。動機も止まらない。死ぬのかな?
……いや、私だって別に嫌な訳ではない。早乙女は面白い奴だし、朝から話していたって苦では無い。
だがそこに男女の壁はあるだろう。早乙女は一体それがどういう目で見られるか考えられない程バカになってしまったのだろうか?
「……それ、カップルに見られるから。そしたら早乙女も次の彼女出来にくくなるよ? それで良い訳?」
それとなく教えてあげる。あの彼女が欲しくて毎日煩かった早乙女の事だ。これで諦めるだろう。
……と……思ったのだが……早乙女は、どうしてかその言葉に満面の笑みを浮かべた。
「それで良いから言ってんだって! 俺別に今彼女……とか要らねーし、……それに俺……奥田と居る方が楽しいって、小柳ちゃんと付き合って初めて分かったし」
「そ、そう?……あ、ありがとう?」
何だか褒められたのかと思いお礼を言うと項垂れられた。……あれ? 違うの?
困惑する私がもう逃げださないと判断したのか、早乙女は私の手からゆっくりと手を離す。
早乙女の手で蒸らされた手の甲が外気に当たってひんやりしたのが……何故か、とても恥ずかしかった。
「まぁいいや……でも嫌じゃないなら……その、駅で待ち合わせしねぇ……?」
「……別に……嫌では、ないけど……」
「おっし、じゃあ決まりな!」
どうしてかとても嬉しそうに笑う早乙女にさらに激しく胸が騒ぐ。なんだコレ……!!
その後すぐ前の席の友人が来て、早乙女は「じゃ、忘れんなよ」と私に手を振り自分の席に戻って行った。…………。
「おはよう……えっ、早乙女と付き合う事になったの? 沙和……」
「違う……えっ違うよね? あれ?……」
「やっとか、早乙女……!」
席に戻った友人に先程のやり取りを揶揄われ1人混乱する。いやいや付き合ってないよ。そんな事言われてないし……でも朝一緒に登校するってどうなの……?
もう数学並みに早乙女の行動の意味が理解できない。
これはもう考えても分からないやつだな。と結論づけ、何やらニヤニヤと私と早乙女を邪推するように見やる友人にデコピンした。
「早乙女……奥田。お前達はどうしてそうも揃って赤点なんだ……」
テストが返って来た。何と15点! 高得点だ!! ちなみに早乙女は14点。僅差で私の頭脳が勝った!
しかしそれでも補習は免れないのか、もはや先生も私達の赤点を周りに隠しもせず、教室で私達に頭を抱えた。
「でも先生、私初めて15点なんて取りましたよ! 先生の教え方が良かったからです、自信を持って下さい」
「俺も俺も! 先生の授業分かりやすいからスラスラ解けたわ! 14点なんて、母さんも驚いて腰抜かすって!」
「お前達はなんて志が低いんだ……」
逆にガッカリされてしまった。だけど私達にそんな高得点を期待されても困る。
――という事で、本日も早乙女と補習する事となった。
「なぁ奥田。明日忘れんなよ」
「わ、分かったって……」
先生にバレないようにコソコソとそんな事を言われ、思い出した私の心臓は今更ながらに大きく跳ねた。
そ、そうだった……明日早乙女と登校するんだった……。
何だかいつもののんびりした空間が、妙に落ち着かないものになってしまった。
……いやいや! 別に緊張してないし! だって早乙女だし!!
逆に何で私がこんなドキドキしないといけないのかと思い腹が立ってきた!
今日こそはこのXの2乗を早乙女よりも先に解いてやる!!
私はやる気満々にシャーペンを握る手に力を込め、………………。
「…………先生。Xって元々何の数字なんですか?」
「それを解くのがお前の仕事だ」
「じゃあ何で最初から数字で表さないんだよ。……あっ! 分かったわ先生! Xって確か10って意味だったよな!! やべー俺この問題分かったわ!!」
「……先生、ちょっと外の空気を吸ってくる……」
先生は外の空気を吸いに行く事が多い。質問するとすぐに答えずに行ってしまう。困ったものだ。
とりあえずXの2乗を20と書いておき放置して、自分の名前を綺麗に書く練習をしておく。
おかげでこの間習字で銀賞を取ったばかりである。数学以外はやれば出来るものだ。
「な、なぁなぁ奥田」
「何。手短に」
また忘れるなと言うのかと睨みながら答えると、早乙女は額にうっすら汗をかいた顔でとても真剣な目をしていた。
大事な話かと体を持ち上げ早乙女と視線を合わせる。……すると、早乙女が口を震わせて恐る恐るという風に私に問うた。
「っさ…………さ、わ?」
「は?」
何言ってんの?
意味が分からず首を傾げる。何だ“さわ”って。
「何、さわ……って。何の単語?」
バカだとは思っていたが、存在しない単語を話すようになるとは……と、親友のバカさ加減についていけなくなった私だったが、どうやら単語ではなかったらしい。
「ちがっ! あの、っこ、これこれ!!」
「何……?……って、私の名前じゃん。これがどうしたの?」
必死に早乙女が指差す先には私の答案が。そこの名前の欄を突くようにひたすら早乙女は「これこれ!」とそれだけを言い何かをアピールした。
……私の名前?……奥田沙和だけど……さわ? さわと何の関係、が…………。
「……えっ、もしかして私の名前の事言ってんの?」
「! っそ、そうっ!! さわだろっ、奥田の下の名前!!」
「違うから。それよく言われたけど私、さよりだから」
嫌な事を思い出して苦い顔で間違いを訂正した。
そういえば昔よく名前を間違われたものだ。思い返せばさわと間違われていた気がする。
それよりも昔男子に『サヨリって魚なんだぜー!!魚人女―!!』と言われた時の事の方が衝撃が強くて忘れていた。
あの男子の事殴って昔怒られたなー……と黒歴史を思い出して笑っていると……不意に名を呼ばれた。
「沙和?」
「ん? そだよ。沙和」
「沙和」
「あ……合ってるってば……」
突然名を連呼され慌てる。こんなに男子に何度も下の名を呼ばれた試しが無いので普通に反応出来ない悲しき非モテである。
慌てる私に気づかないのか、早乙女は面白そうに机に肘をつき、手で頭を支えて私を見て笑う。
「何か、奥田と結構一緒に居る機会ってあったのに……知らない事ばっかだよな」
「あ、あぁ……そうだね。私も早乙女の事、知らない事の方が多いし」
何だ。確かめてただけだったのか。と軽く息を吐く。そりゃそれ以外に理由がある訳がない。
「……な、俺の名前……奥田は知ってんの?」
「そりゃ知ってるよ。岳でしょ」
「お、おぅ…………」
「……照れないでよ。私が恥ずかしいじゃん……」
赤面され私まで赤面する。……そういえば男子の事、下の名前で呼んだの初めてだ……。
気まずい沈黙が教室に落ちる。その空気を切り裂くように、何をしていたのか絶対外の空気吸ってただけじゃ無さそうなげっそりした顔をした先生が、教室のドアを弱々しく開けた。
「……はぁ……じゃあ、さっきの続きから…………って、何だこの桃色の空気は」
「何がですか先生!! それよりどうしてYとXは平行らしいのに別のローマ字にするのか教えてください!!」
「俺は√について教えてくれよ先生! 何と分岐するんだよ!」
「静かにしてくれ……先生の胃が死ぬ……」
何やらおかしな事を言う先生に怒りつつ質問すると、先生はお腹を押さえて蹲った。
先生はそろそろ病院に行くべきだと思う。
「なぁ、教科書のリットルの問題の絵に出てるジュースってめっちゃ喉乾いてる時、飲みたくならね?」
「なるなる。夏とかミリリットルを調べようとしてる花子を殴って取ってやろうと思った」
「あるある!!」
帰りに早乙女と楽しく数学のあるある話で盛り上がる。やはり話がわかるのは早乙女くらいだ。
やっぱり早乙女と居るのは楽しいなーと思いつつ上機嫌で空を見上げる。早乙女が居ると夜も怖くないから不思議だ。
――そんな私の横顔に視線が突き刺さった。
何となく背筋が痺れるような感覚に、そっと横目でその視線を辿ると……案の定その視線の主は早乙女だった。
「……あの、何? 何かしたっけ? 私……」
最近様子がおかしいので私が何かしてしまったのではと思い早乙女に問うと、早乙女は鼻の頭を何かをごまかすように掻いた。
「ん……あ、いや……その……やっぱ、小柳ちゃんと歩いてる時と違うなぁって……」
「そりゃ彼女と歩いてるのとは違うでしょ」
何と比べてんだと訝し気に見やると、早乙女は何故か私の言葉に柔らかく笑った。
…………何か、子供の笑顔みたい。
「ん。全然違うわ。だから別れたんだし」
「……そう、それ。早乙女からフッたんだよね? 珍しいじゃん。あんな彼女欲しいって言ってたから絶対別れないと思ってた」
こんな何も考えていなさそうな早乙女が土佐犬をフッた事を考えると今でも驚く。
なんせ、これでも彼女が出来る前は彼女が出来たら絶対大切にするし、好かれるようにすると豪語していたのだ。
早乙女の方が嫌われたって別れないと思っていた。
やっぱり許せなかったの? と問うと、早乙女は穏やかに首を横に振った。
「それは別に気にしてない。……っていうか、そのおかげで分かった……みたいな」
「へぇ。何か分かんないけど良かったね」
なんにせよ人と付き合うという事について理解が深まったなら良い事だ。こうやって人は大人になるのだろう。付き合った事無いから分かんないけど。
「おー。何か、小柳ちゃんに荷物持たされたり、学食の席取らされたりさせられるのは嫌じゃなかったんだけどな。困ったけど」
「それ彼氏じゃないよ。パシリだよ」
あまりに不憫な彼氏もどきに指摘すると、もどきであった早乙女はやっぱ? と苦笑いで頭を掻いた。
やはり土佐犬は早乙女と付き合っているというよりパシリに使っていただけだったのか。そういえば何でも言う事を聞いてくれると土佐犬も言ってたな。
憐れな親友に憐憫の視線を向ける。
私も数学ぐらい出来ないと将来悪い男に騙されてしまうかも知れない……。
「それより奥田と話せないのが嫌だったんだよな、俺」
「へぇーありがと。私も寂しかったよ」
友情を感じてお互い寂しかったんだね! とハイタッチしようとする。
……が、早乙女はいつものように手を出してはくれなかった。
「早乙女?」
「――なぁ、奥田」
固い声が響く。
ハイタッチをする空気でもないので、私はそういうつもりで手を上げたんじゃないですよ? と手を月にかざす。良い感じの満月だ。
「おっ、早乙女! 月が――」
「奥田と、付き合いたいって言ったら……どう、する……?」
「……月?……つき、付き合う?」
何に? と首を捻る。しかしそれに早乙女は何も答えない。
……あれ? 何の話してたっけ? 土佐犬と別れた話だったよね?
それで、それは付き合ってないっていう話に…………? あ、あれ?
「……あの、早乙女…………それって、どう……ど、どっちの、意味……?」
……いやいやまさか。そんな意味の訳が無いだろう。と心で笑いながら問う。
だって私と早乙女は親友で、早乙女も私を別に女として見て
「だから、彼女になってって。……って、いうか……っ、なっ、なって下さいって……いう……」
「か、彼女?…………えっ、待って……早乙女……ええっ?」
夜でも分かる程、早乙女の顔が赤かった。
そんな早乙女と鏡のように向かい合った私の顔も赤く染まる。
……ちょ……り、理解が追い付かない。
彼女って、っカ、カップルの彼女だ、よね? 合ってるよね!? いやそれでも何でッッ!?
「お、んなとして見てなかったんじゃないのっ!? わ、私っガサツだしっっ」
そう。私は別に特別可愛くも無ければ綺麗でもない。髪の長さだけで女子だと判明している程度の顔だ。
それに早乙女。私よりもバカだが、顔は悪い訳では無い。
愛嬌のある、犬のような顔をしている。ボーダーコリーのようだ。
バスケをしているから筋肉も程よくあるし、クラスでもそこそこ人気者だ。その早乙女に……っ……か、彼女っ……!!?
狼狽える私とは真逆に、早乙女は落ち着きを取り戻す。
真剣な顔をした早乙女が1歩近づく度、私は後退る。するとあっという間に私の背が壁にぶち当たった。
しまった横に行くべきだった!!
焦る私の顔に早乙女の顔が迫る。
ま! 待って待って!! こう、こういう時の対処法を……って告白された事無いから分からない!!
「女だとは、ずっと思ってたけど……ガサツ、でもないだろ」
「ま、真面目に返さないでよ!! 何て言えば良いか、分かんないじゃん!!」
真正面で真顔で言うな! と怒ると早乙女は吹き出した。……や、やっぱり揶揄われてたのだろうか?
「ははっ!! 奥田って、照れ屋だよな。何だよそれ」
「う、煩い!! 免疫の無い私をバカにして……!!」
「バカにしてねぇって。そういう所、やっぱ好きだなって思っただけ」
「っす……ッッ!! なっな、何言ってんの!?……あ、あっち、行って……」
頭がのぼせたようにクラクラする。心臓が煩すぎて何も聞こえない。
――何でこんな話になったの? 早乙女、私の事なんて別に何とも思ってなかったじゃん。
こんな事、今まで私に言った事無かったよね? おかしくなった?
色々な事が頭をグルグルと回る。今までの経験上、早乙女が嘘の告白なんて事が出来る人間ではない事など分かっている。……けど……。
顔を見られるのが嫌で俯く。早乙女の言葉に素直にありがとうと言えない程には、私は擦れてしまっている。
そんな可愛げのない事を言う私に、早乙女はクスクスと喉を震わせ笑った。
「殴ったり嫌いって言われないと期待すんだけど? あっち行ってって……ちょっと離れたら付き合ってくれんの?」
「……な、何でっ……私?」
疑うように早乙女を睨み上げると、早乙女は何かを耐えるように深いため息を吐き出した。
そしてふらりと私の隣で壁に背を預け、空を見上げた。
つられるように私も空をゆっくりと見上げる。
「……小柳ちゃんと付き合いだしてから、奥田が居なくてつまんなかった」
「そ、それは普通に友達と喋れないからじゃ……」
「部長とやらが奥田の手握ってて……腹立った」
「…………」
そう言われ、早乙女が謎のチョップを繰り出していたシーンが脳内で再生される。
……えっ、部長に……しっ、嫉妬? した……って事?
「それで部長に赤くなってる奥田にも腹立った」
「あ、赤くなんて……」
「小柳ちゃんとの事ばっか心配する奥田にまた腹立った」
「弓道してる奥田見てて、他の奴も惚れるだろうなって思って焦った」
「俺の横歩いてる奥田見て、いつか俺じゃない誰かが奥田と手繋いで歩くんだろうなって思って死にたくなった」
それで、と早乙女は固まって目を限界まで見開く私に向き直る。
「俺が彼氏になりたいのも、彼女にしたいのも奥田だと思った。……だから……か、彼女に……なって、下さい」
そう言って、早乙女は私に右手を突き出し頭を思いきり下げた。
私はその右手を穴が開く程見つめる。
――本当に? わ、私……早乙女に、告白されてるの?
現実味の無い感覚に、心臓が静まる。だけどその鼓動は、確かに早乙女を意識してドクリと強く打ち付ける。
好きか嫌いかで言われたら嫌いな訳がない。だって、親友だ。
じゃあ好きかと言われれば……まぁ、うん。好きではある。
だけど、それが恋の好きなのかは……分からない。
「あ、あの……早乙女。私、早乙女の事……好きか、分かんないんだけど……」
「んなの後から分かるだろ。別に俺が傍に居て嫌じゃないなら……手握れ」
「何で早乙女そんな偉そうなの……」
と、言いつつ手を握る。……嫌な訳が無いし、別に……付き合う気が無いとも私は言っていない。
顔だって好きは好きだ。愛嬌はあって、眉は凛々しいし……ふ、普通に? 好き!
それにバスケをしている早乙女だって……その、かっこいいかと聞かれればかっこいい。聞かれれば!!
……とか何とか心で言い訳しつつ早乙女の手をやんわりと握ると、そのまま握り返され、強く早乙女の方へと引き寄せられた。
「っわわ!……ってさささ早乙女っ早乙女!! な、何して……ッッ!!」
「マジで嬉しいッッ!! ありがと奥田!!」
心底嬉しそうな声色でそう言うと、早乙女は強く私を抱きしめた。包まれた私の胸がドクドクと尋常じゃないスピードで鼓動を刻む。
しかしそれと同時に私のものではない鼓動も早乙女越しに私に響く。私はそっと早乙女を窺った。
「……き、緊張……してるの?」
「すんだろ……普通。……てか、お前もな」
「うるさい……」
そっぽを向く私に笑い声が落ちてくる。その低い声に体の奥が痺れるように震えた。
私なんかにこんなにドキドキしてくれる人が居るのかと驚いた。しかも、それが親友だった早乙女だ。
でも私だって早乙女にドキドキしているかと問われれば……まぁ、してる。くっ付けた体がいつもの知ってる早乙女じゃなく、男のものに思えたからだ。
だから別に私が暴れないのはまだ離れたくないからとかではない。緊張してるだけである。
……離れたくないからとかでは、ない!!
「……お、大人しいじゃん……まだ抱きしめても良いんかよ?」
「……っ……! し、知らない。気が済んだら、は、離して……」
「マジかよ!!……てか奥田、やっぱお前可愛いな」
「う、うるさいっっ!! 14点!!」
「ぶっは!ひでぇ!! 15点の癖に!!」
顔を隠そうと俯くと、早乙女の胸に顔が当たった。それに私はさらに顔を赤らめる。
……早乙女と恋人……わ、悪くはない。知らない人よりもよっぽどいい。
それに、私だって早乙女と居るのは楽しい。
「……じゃ、今日から俺が奥田の彼氏で、奥田が俺の彼女な。よろしくな奥田……じゃないわ、……さ、沙和。……ほら、俺も呼べって……」
促され、早乙女をチラリと見やる。
……下の名前で早乙女を呼ぶ日が来るなど、誰が思っただろうか?
自分の名を呼ばれ妙に恥ずかしくなりながらも、私は同じく恥ずかしそうな早乙女に口を開いた。
「…………がっ…………岳……」
「…………なぁ、キスしねぇ?」
「なっなななんなな何言ってんの!!! か、か、帰るっ!!!」
「おい嘘だってば!! 悪いって、沙和っ! ちょっとしか思ってねえって!!」
火事場の馬鹿力なのか、早乙女を力いっぱい突き飛ばす事に成功した私は己の唇を守る為、本気で駅まで走った。
ばっ、ばっ、バカじゃないのっっ!!? よくさっきまで親友だった私とキ、……ッッ!! あああああ!!!
――――こうして、私は早乙女と付き合う事になったのだった。
「――だから、俺は何で数学は“等しい”とかわざわざ難しい言い回しすんのかって思う訳だよ」
「それ思った。普通に“同じ”って書けば良いのに何でそんな難しく言うんだろうね?」
朝、早乙女……もとい、岳と恋人になってから初めての登校である。
告白前に岳と朝に登校する約束をしていたのを忘れ、今朝駅のホームにいつも通り降りると……岳が壁に背を預け、完全に忘れて今更顔を驚愕に染めた私に手を振った。
あの後なのでドギマギしつつ歩いていた私だったが、意外にも会話は付き合う前と何ら変わりない。いつもの数学の悪口だ。
……あれ? もしかして夢だったのかな? と思ったが、岳が私の事を沙和と呼ぶので夢ではないのだろう。
その話題も出しにくく、付き合ったからといってどうするのだという話なので黙って私はひたすら数学の話題を岳に投げかけた。
「え、ええと、数学って言えばよくさぁ……」
「なぁ、今度デートしようぜ」
そう私の数学への疑問を唐突に遮り、岳は私の右手を恋人繋ぎで握った。
…………コ、コイビトツナギ!!!
やはり夢ではなかった! と今更ながら頬が紅潮し始める!! わ、私……が、岳と手を……!!
私の心臓がゴリラのドラミングが如く激しく胸を打ち付ける!! こ、こいつ、手を繋ぐ事に慣れている!!
もしかして、土佐犬とも手を繋いだりしていたのだろうか……? と、チラリと繋がれた手を盗み見る。
……一応は付き合ってたし、そのくらいはしてるよね……。
若干モヤッとしない事も無いけれど、何だかそんな自分がバカらしくて、その感情を追い出すように軽く頭を振る。
「な、慣れてるね? 小柳さんとも、繋いでたの?」
「繋いでないからショック受けんなよ。キスすんぞ」
「なっ!! キ……って、ち、違うから!! ショックなんて受けてないし!!」
「嘘つけ。めっちゃ声震えて不安そうな顔しやがって」
指摘され顔が熱くなる。……そ、そんな顔してた? 声、震えてたっけ?
いや、そんな訳ないよね? だって、それじゃ、私まるで……岳に、恋してるみたいじゃないか。
――そう考えた瞬間、今までで1番心臓が大きな音を立てた。
まさか、と岳の顔を見ようと俯けていた顔を岳の方に向けると、思いのほか近くにあった顔に驚き後ろに下がる。
「え……っ、な……ど、どうしたの?」
真剣な目と見つめ合う。
……こんな目、された事ない。この顔だって、今まで知らなかった。
親友だったのに知らなかった。この顔は、親友に向けるような顔ではない。
なら、私は? 私は今……岳に、どういう顔を……向けてるんだろう?
「……今……凄い良い顔してんだけど、写真撮って良い?」
「は、えっ? しゃ、写真?……っていうか、どんな顔?」
スマホを取り出し私に向ける岳に瞬きをしながら訊ねる。……岳の言う良い顔って、碌な顔じゃないような気がする。
スマホ越しに私を見ていた岳は、私の質問に顔をスマホからひょっこり覗かせ、はにかんだ。
「俺を親友じゃなくて、男として見てる顔!」
顔が燃えた。
私は岳からスマホを奪い取り、削除を連打した。
「やっぱりーモテるからしょうがないっていうかぁ」
「そうなんだ」
「フッたら可哀想って思っちゃう優しい子じゃないですかぁ、私って」
「そうなんだ」
それから数日。どうしてかかなりの頻度で土佐犬が私の許へやって来るようになった。
理由は6股がバレ、キープの男全員にフラれ話し相手が私以外居なくなったからだ。
あれだけ罵倒しておいてどんな神経をしているのかと思わなくもないが……まぁこの年頃の子は話し相手が居ないと、この間みたいに爆発するものなのだろう。年上として一応優しくせねば。
「だから結果的に6股になっただけでぇー……あぁ、この辛さ……モテない先輩には分からないですよねー?」
「そうなんだ」
「相槌打てば良いと思うなよクソババアがッッ!!……ふえええんっっ!! イケメンの彼氏欲しいよぉ!!」
愛に狂った憐れな化け物である。
情緒のおかしい後輩の頭を撫でてあげる。意外にもその時は土佐犬も噛みつかない。
「はぁぁ……もう早乙女先輩とより、戻そうかなぁ……」
「それは無理だよ。今私と付き合ってるから」
「ふざけんなこのブスッッ!!! やっぱり男しか信用出来ない!! えーんっ! 誰か助けてよぅ! 先輩が茉由歌の事、虐めるのー!!」
私の手を思いきり払いのけ、土佐犬はそう言うと花壇を踏み荒らし去っていった。
…………土佐犬の名前、初めて知った。
結局、親友だった男子と付き合ったからといって関係が変わるとか、価値観の不一致とかいう事も無かった。
「早乙女、奥田。補習」
……当たり前だが、テストの点が上がるとかいう事も無かった。
まるで名前のように告げられた補習。一瞬補習って名前の生徒が居るのかと思った。
そして私と、親友であり彼氏である岳は、今日も数学の先生と教室に籠って補習を受けているのである。
「先生、平方根って何でしたっけ?」
「バカ、お前それゲームに出てきた敵の名前だろ? ほら、土管から無限に湧いてた」
「ああ、あれの事か。じゃあ平方根なんて奴、数学で出ないのか。やっぱ何でもないです先生」
「……先生、トイレに行ってくる……」
お腹を押さえて先生はそのまま私達の返事も聞かずに出て行ってしまった。お腹が緩いのだろうか?
最近先生は出て行く頻度が高くて困る……とその背中を見送っていると、先生が教室から出て行った瞬間、岳が椅子をズリズリと引きずって私の真横に移動した。
「…………何……」
「ん……み、見てるだけ……」
「見ないで」
近距離でガン見され顔を反対方向に背ける。何だ、見てるだけって。
それでも岳は止めず、私を呼ぶようにちょんちょんと指で肩を刺す。
「な、なあって……沙和。こっち向けって」
「何で……」
「……キスするから」
「しないから!!!」
やっぱりおかしい!! おかしいよ早乙女岳!!!
自分で言うのもアレだが、私には色気も無い。まだ土佐犬の方があった。
その私に何故岳はキスばかり迫って来るのか!? 体か!? 体目的の犯行か!?
意思表示するように机に突っ伏す。先生早く帰って来て……!!
「な……何でそんな嫌がんの? 気持ち悪い?」
「じゃ……な、ない、けど……は、ずかしいし…………っていうか、岳は、何でしたいの?」
自分で言って顔が熱を持つ。自分がそんなキスを迫られるような女だと思えず頭が混乱する。
そりゃ私だっていつかは……とは思っていたが……その相手が岳とは……何だか、知らない人とするよりも恥ずかしい……。
問う私の髪を、暇を持て余したように掬って撫でる岳。
それだけの事に、ゾワリと背筋に得も言えぬ感覚が駆け上がった。
「いや……好きだったら、したいだろ」
「……小柳さんにも、したかった?」
「何だよお前、可愛い奴だな!」
声を高くした岳にわしゃわしゃと頭を犬のように撫でられ、思わず顔を上げる。
ぼさぼさになった髪を手櫛で戻していると、私がまた机に突っ伏さないようにか、岳が伸びをするように私の机に上半身を伸ばした。
「思わなかったって。彼女が出来たって事には喜んだけど、小柳ちゃんと付き合えた事には……今思うと、喜んでなかったし」
悪い事したなぁ、と岳は苦笑した。
……だが、土佐犬も荷物持ちが欲しくて岳に声をかけたらしいので、あまり気にしなくても大丈夫だと思う。
「でも沙和は……何つーか、付き合う前からしたかった。あれ? 俺、沙和の事好きかも? って思った時からずっとしたかった」
「そ……それって、いつ……?」
「弓道部覗きに行った日の帰り道」
そう言われ、腕を掴まれた時の事を思い出し顔を俯ける。
……あ、あれ、もしかしてキス……さ、されそうだった、の?
可能性を感じ頬がこれ以上ない程に紅潮する。……が、どうして岳はわ、私なんかにキスしようと思えるのだろうか?
「な、何で……色気とか、無いのに……」
そう問うと、岳は顔を押さえて大きなため息を吐き出した。
そして獲物を見据えるような鋭い目が私を射貫く。
「バカか。やべぇわ色気が。クール気取ってるくせにすぐ赤くなりやがって……キスさせろや」
「っっ……!!」
――今まで、こんな事を言われた事が無い。
男女。魚人女。女は付けども、一度だって女として男子から見られた事など無かった。
ましてや……キスをしたいと、言われる日が来るなどと、誰だ思っただろうか?
それもこの間まで一緒にバカをしていた、早乙女に……だ。
熱っぽい視線が私の視線と絡み合う。
まるでそれに触発されるように、私は気づけば岳の言葉に小さく頷いていた。
それにしまった! と私の僅かに残っていた理性が待ったをかける。
……が、それよりも素早く岳のバスケが得意な大きな手が、私の後頭部を引き寄せた。
――瞬間。私の理性も空しく……私の抵抗は、岳の唇と自身のそれが重なった瞬間に、淡く消えた。
すぐに離れた熱に、妙な寂しさを覚える。
恥ずかしいと思わないといけないはずなのに……どうしてか、嬉しいと思ってしまった。
「……ど? 嫌だった? ちなみに俺は沙和が好きだからめっちゃ嬉しいけど!」
キラキラとした眩しい照れた笑みに見入る。
岳の答えは、私の今抱いている感情と同じだった。
「……嫌……じゃ、ない。け、けど…………恥ずかしい……」
たぶん、私は岳が好きなのだ。
親友だから、同じバカだから、ではなく人としてそもそも私は岳が好きなのだろう。
口付けた瞬間、相手が岳で良かったと思ったのは……きっと、そういう事だ。
それでも、私はすぐにそれを受け入れられない。……だって、これはおかしいのではないかと……そう、思ってしまう。
「お、おかしくない? だって、この間まで親友だったのに、す、好き……とか……」
この間まで一緒にバカな事を言って笑っていた親友だ。
その親友に、こんな邪な事を思って…………良いのだろうか?
「……何俺の事ディスってんだよ」
「っ!? えっ、いや岳の事は何も言ってないけど!?」
「言ってるじゃねーか。俺なんかお前が親友だと思ってる時から好きなのに」
じっとりと睨まれ口を閉ざす。……確かにこれは岳の話でもある。
何も言えず黙り込んだ私の頭を岳は撫でるように叩いた。
「それに、好きってそういうもんだろ。知り合わなきゃ始まらねーじゃんか。……俺らは、親友期間が長かったけどな」
笑いかけられ、高鳴る心臓に慌てて下を向く。
言われれば……確かにそうだ。
経験があまり無くて判らなかったが、確かに恋とはその人を知って初めて好きになるはずだ。一目惚ればかりが恋ではない。
――――じゃあ、これは良いのだろうか?
好きだと言われてから好きだと思うのも……ちゃんと、恋なのだろうか?
「す、好きって言われてから岳の事好きになっても……岳は、良いの?」
顔を見るのが怖くて、岳を見ずに言う。……もし、それは嫌だと言われれば……私は、どうすれば良いのだろうか?
また親友に戻るのかと考えて泣きたくなる私は、正しく今、岳に恋をしているのだろう。
「……え、何? 沙和……お、お、俺の事……すす、好きな訳?」
「…………うん」
改めて言われると、恥ずかしい。私は顔を両手で挟み冷やした。
何も言わない岳に不安が胸を占める。……やっぱり親友で居たいと言われたら、悲しい。
――と後悔が私を襲った次の瞬間。私は椅子ごと岳に羽交い絞めにされた!!
「おおおおっっ!!! 何だよお前可愛い事すんなよ!! ってか良いのって何だよ良いわ!! 逆に好きになれませんって言われたら死ぬわ!!」
そう言って岳は私の髪に顔を埋めるようにぐりぐりと擦り寄せる。その感覚にゾワゾワと名も知らぬ感覚が背筋を走った。
固まる私に頬擦りしながらひたすら何か叫んだあと、岳は大きなため息を吐き出した。
「はぁぁ……やっぱ、沙和と居る時が俺は1番幸せだわ」
「それは……大げさじゃない? もっと幸せな事いっぱいあるでしょ」
その言葉に笑うと、岳も笑った。……同じ事を思ったのは、内緒だ。
「……な、沙和。もっかい好きって言って」
席に椅子を戻し、私の真正面に座り直した岳に笑いかけられ、胸が切なく疼く。
愛おしいものを見るような視線に耳が熱を持つ。
私は問われるままに、何度も自覚したばかりのその言葉を繰り返した。
「す、好き……です……」
「もっかい」
「……好き……」
「名前も言って。んでもっかい」
「注文つけないで……何回言わせんの……」
睨んでも嬉しそうな顔を止めようともしない。それにしょうがないと思ってしまう私も、結構なバカなのだろう。
親友が恋人になるなんて、思ってもみなかった。
ましてや、私の事を好きだと言ってくれる人が現れるとも……思ってなかった。
思い返せば私は、初めて会った時から結構岳の事が好きだったのかも知れない。……本人には、絶対言わないけど。
私を見つめる黒目に、鏡で見ないような表情の自分の顔が映る。
やはり可愛くないと思いつつ、そんな私を好きだと言ってくれた岳に……私は柔らかく笑った。
「……好きだよ、岳「何やってんだお前ら…………」
――その瞬間、私達は弾かれるようにドアを振り返り顔を羞恥に染めた。
そこには、先程まで私達に数学を教えていた数学教師……山之内里治(36歳独身)が、額に大量の青筋を浮かべて佇んでいた。
「お前ら俺が腹痛で苦しんでる最中に恋愛楽しんで楽しかったか!!? お前らは恋愛より勉強しろ勉強!! 何だこの白紙のテスト用紙!! 俺をバカにしてんのか!! バカにしてんだろ!! ああああもうお前ら教えたくないんだよおおお!!! 転勤してえええええっっ!!!!」
……その次の日。先生はストレス性の胃腸炎で病院に入院となったらしい。
…………ごめんなさい。