第95話 「世界にただ一人の」
あの部屋を見てから、1か月の時が過ぎた。
ボロボロの姿の奴隷が、脳にこびりついて離れてくれない。苦しそうなうめき声が、耳から離れてくれない。
忘れようと思っても、あの時の映像がどうしても忘れられない。
もし万が一、あの場所に送られたらどうしよう。
ただ傷つけられるだけ、それ以外に何の意味もない、正真正銘ただのサンドバッグ。
かつていじめられていたころと同じか、それ以上の苦しみを味わうことになる。
嫌だ、絶対に嫌だ。
そんな気持ちで、日々の仕事にも多少の影響が出てしまう。
今までは楽しいと思えていた単純作業も緊張感のせいか一切楽しく思えず、手が震えるせいで指を切ってしまうこともある。
流れ落ちる血を見ると恐怖が増し、心臓の鼓動が早くなる。
そして、なにより、
「わ、大丈夫ユイ君? はい、絆創膏」
血を流す僕を心配して絆創膏を渡してくれる女性。
何の変哲もない、優しさゆえの行動、今までなら純粋な気持ちで感謝していたかもしれない。
けど今は、怖くてたまらない。
もしかしたらこの人も、あの場所で奴隷を殴っているのかもしれない。
日々の憂さ晴らしのためにあの場所を利用しているのかもしれない。
この人だけじゃない。この場にいる全員が、この施設にいる全員が、他者を傷つけることによってストレスを発散させているのかもしれないと思うだけで、恐怖に包まれる。
何かの拍子でその矛先が僕に向かう可能性もある。僕があの場所に落ちれば、問答無用で傷つける。
あらゆる可能性が僕の脳内を支配し、正常な思考ができないでいる。
あんなにも奴隷に対して優しい施設だと思っていたのに、あんなにも理想的な生活だと思っていたのに、今はここから離れたくて仕方がない。
恐怖に支配されている僕は、仕事が終わり部屋に戻っても、不安で堪らない。
最近はよく眠ることもできない。睡眠時間自体は以前よりも多いはずなのに、質の悪い睡眠のせいか体の疲れは取れず、目の下にクマもできている。
こんなんじゃろくに仕事ができない、なんとか睡眠をとらないと。
僕は布団を頭からかぶって眠りにつこうと試みる。
けど寝ようとすればするほど目がさえてきて、どんどんと時が経っていく。
すると突然、扉が開く。
「ふーっ、今日も疲れた疲れた。いい汗かいたなっと」
この部屋のもう一人の住人、カルトさんが入ってくる。
清々しそうな声が、妙に怖く聞こえる。
以前の会話から、カルトさんはあの奴隷を虐げる施設を好んで使用していることがわかる。
今もそこから帰ってきたのかも、なんて考えが頭をよぎり、寝たふりでやり過ごそうと思うが。
「ユイ君、もう寝た?」
僕へとむけられた声で、一瞬だけど体がびくついてしまった。
きっと起きていることを悟られただろう、そう思って起き上がり、カルトさんの方に体を向ける。
「いえ、寝ようと思ったんですけど、なかなか寝付けなくて」
「ユイ君って寝る時間早いよなぁ。いつも早めに寝るし、給料日にはアストさんに駆り出されちゃうしで、中々一緒になれる時間が取れないのは悲しいもんだぜ。てことでさ、遊びに行かね?」
扉の外を指さして僕を誘うカルトさん。
その誘いに、僕は嫌な予感がする。
「遊びにって、どこにですか?」
「そりゃあもちろん、地下室さ。俺ら以下の奴隷たちをぶんなぐって楽しもうぜ」
悪い予感は的中し、あの場所への動向を求められた。
いやだ、あんな場所にはいきたくない。
あんな、人を痛めつけるためだけの最低で最悪な場所になんか、死んでも行きたくない。
まして行くだけじゃなく奴隷たちを殴るなんて、したくない。
人を傷つけるなんて、まともな人間のすることじゃない。あんな狂気の沙汰、僕には耐えられる自信がない。
……けど、ここで断れば、カルトさんの心証を損ねるかもしれない。
ノリの悪い奴、偽善者、いけ好かない奴、そんなレッテルを張られ、暴力の矛先が僕に向けられるのが怖い。
だから僕は、断れない。
「は、い……いいですよ」
精一杯の愛想笑いを浮かべて、僕はカルトさんとともに地下室へと赴く。
*
地下室の扉を開け、生ごみと血のにおいが混じった部屋へと足を踏み入れる。
そこにはすでに先客がいて、10人ほどが奴隷を囲んで殴る蹴るを行っていた。
「おーおー。やってるな。ほいじゃアストさん、予約通り、今日は奥の部屋を使わせてもらうよ」
「わかった、受け取れ」
そういって、アストさんはカルトさんにカギを投げ渡した。
奥の部屋? こことは違うのかな。
「ん? ユイもいたのか」
「そーそー、今日はユイ君と一緒に遊ぼうと思ってさ」
「あの部屋は一人専用だぞ」
「わかってますって。とりま最初は一緒にここで遊んで、最後にお楽しみであいつをボコろうかなって思ってさ」
「なんだ、最初から使わんのか。ならカギは返せ、無くされでもしたらかなわん」
「アストさんは心配性だな。大丈夫ですよ、なくしませんから」
「……無くしたら、金貨1枚だぞ?」
「ほいっと。んじゃ、遊びますかね」
鍵を受け取ったカルトさんはウキウキ気分で奴隷たちのもとへと歩み寄る。
僕も重い足取りでついていくが、そんな僕にアストさんが耳打ちする。
「大丈夫か? 無理に付き合わされているのなら、理由をつけて連れ出すが」
その優しさにあふれた言葉を聞いて、少し心が軽くなった。
是非お言葉に甘えて抜け出させてもらおうと思ったのだけど、
「ほらユイ君、早くこっち来なって。時間も無限じゃないんだし」
「あっ……」
カルトさんに手を引かれ、有無も言わさず奴隷たちのもとへと連れていかれる。
これから人を殴らなくてはいけない、その事実もそうだが、何よりも本当に楽しそうにしているカルトさんが怖い。
これは普通のことなんだろうか?
「ささ、1発ガツンといっちゃいなよ」
言われ、目の前には傷ついた奴隷の男性が横たわっている。
この人をこれ以上痛めつけろと?
僕は何とかやり過ごせないかと目線を動かす。すると、あるものが目に入った。
「あ、あれ……」
部屋の片隅に置かれていた、ひとつの機械。
それに見覚えがあり、単純に気になってしまった。
「ん? ああ、あの装置? 最近ここに送られてきたんだ。何かわかる? 説明しても信じらんないだろうけどさ、実はあれはね……」
楽しそうに話すカルトさんだが、僕はあれを知っている。
何であれがこんなところにあるんだ?
この場所にあることが理解できない、あの装置が。
「性別を変える装置なんだよ」
知ってる。
だってあれは僕が実験に付き合った装置なんだし。
「いや信じられないのはわかるよ。けどこれがホントでさ、かなり面白いんだよ。前にほかの奴隷で試したらさ、本当に性別が変わったんだよ」
それはわかる。この身をもって知っているから、その効果は痛いほど知っている。
「性別が変わるなんて、何の意味が?」
「意味? ああ、なんかね、使い道のない奴隷でも性別変えてやりゃ色々と使えるし、あとは男よりも女を殴りたい、その逆の奴もいたりするからみたいだよ。まあ俺は殴れりゃ男か女かなんか関係ないけど」
……聞いたら気分が悪くなってきた。
けど、ここにロイド先生の作った機械があるってことは、この国とロイド先生には何かつながりがあるということ。
アストさんあたりに頼めば手紙か何かを送れるかもだし、そうすればお嬢様やライムさんが迎えに来てくれるかもしれない。
ほんの少しの希望の光が差し込んだ瞬間、
「さ、ユイ君、おしゃべりはここまでにして、そろそろ行っとこう」
現実に引き戻される。
ここから逃れるすべはないのだろう。
僕は諦めつつも、少しずつ右手に力を籠める。
そして、腕を震わせながらも何とか殴ろうとするんだけど、最後の踏ん切りがどうしてもつかない。
人を殴る、文字にすればただそれだけのことが、どうしても……。
「ユイ君、もしかしてこういうの苦手だった?」
躊躇する僕に、カルトさんが申し訳なさそうに言った。
「いやごめん、そっか、確かにそうだね。ユイ君って優しそうだし、最下層の奴隷っつっても、同じ人間だもんね。ちょっと配慮が足りなかったかも。本当にごめん、自分が面白いからって、何も考えてなかった」
予想外の言葉が並べられ、僕は呆気にとられる。
人を殴ることを喜びとする人が、配慮が足りないと謝罪した?
あまりに理解が追い付かないために、言葉が出てこない。
「うーん、それじゃ……よし、ユイ君、ちょっと来て」
カルトさんは僕の手を引いて、部屋の奥へと連れていく。
「えっと、カルトさん、いったい何を?」
「人間殴るのが苦手なんでしょ? そんなユイ君にとっておきの娯楽があるんだよ」
そう言うカルトさんはさっき以上に楽しそうに、思いっきり顔を緩ませて歩みを続ける。
その顔を見て僕は少し安心した。
何とか人を殴ることは避けれそうだと。
「ここだよ。今カギ開けるから」
そこは、部屋の一番奥の場所にある、カギがかけられた最奥の部屋。
奴隷の部屋と隣り合わせの部屋にいったい何の娯楽があるのかと、疑問に思っていったが、楽しそうなカルトさんを見て不安はあまりなかった。
だがカギが開き、カルトさんがガチャっと音を立てて扉を開けて飛び込んできた光景に、息をのむ。
扉の先には鉄格子で隔てられた牢屋があり、その中に一人の、僕よりも少し年下に見える女の子が鎖で手をつながれていた。
「これは……」
唖然として立ち尽くす僕は、カルトさんの行動を見ているだけだ。
鉄格子のカギもあけ、中に入り込んでいく。
そして女の子の顔をつかんで、僕に見せつけてきた。
「こいつこいつ、こいつならユイ君も安心して殴れるっしょ」
何を、言っているんだ?
さっきの奴隷がよくて、この奴隷が大丈夫な理由、それはなんだ?
わからない、何一つわからない。
カルトさんはそんな僕の疑問にこたえるかのように、少女の顔を隠すほどに長い黒髪を掻き上げた。
あらわになった少女の顔には目を引くものがあり、その綺麗さに、目を奪われた。
「すごいっしょ。多分この世界にただ一人の、魔石の一族だよ」




