第94話 「発散場」
ここで働き始めてはや三か月、さすがにもう慣れてきた。
毎日毎日野菜の皮むき、それ以外でも月に一度、給料日の日にアストさんの手伝いをするのが通例となっている。
夜は9時に寝て、朝は5時に起きる。
前の世界、こちらの世界、どちらの世界でも睡眠は削るものと考えてきた僕にとっては、最初は戸惑うものではあったが、今まで以上に体の調子が上がっていくのが肌で感じられた。
時おり魔法の練習をするときも、アニスさんやセウルお嬢様に鍛えられてた時には劣るけど、苦も無く効率よく強くなっていくのがわかるので、むしろ楽しいとすら思える。
対人恐怖症は相変わらずだけど。
「最後に誰かと目を合わせたのは、いつだったかな」
野菜の皮をむきながら、そんなことを考える。
この平穏な生活がいつまでも続けばいい、そう思う反面、何かの拍子で壊れてしまうのではないか、そんな不安を感じつつある。
そのもっともあり得る事柄とすれば、人間関係によるいじめだ。
僕のように人とコミュニケーションをとらない人間を快く思わない人間がいるのではないか、その時のために誰かと仲良くなっておいた方がいいのではないか、そう思っているのだが、どうしても人が怖い。
何かの拍子で不快にさせたらどうしよう、ならば何も関わらないのが一番ではないか、そう自分で考え、この生活がいつまでも続くことを祈り続ける。
どうか、どうか誰も僕を傷つけることがありませんように。
後ろ向きにもほどがあることを考えながら野菜の皮をむいていると、
「ユイ君、ちょっといい?」
不意に、同じ仕事をする女性が話しかけてきた。
僕はちょっとビクッとしながらも、手を止めて女性の話に耳を傾ける。
もちろん目線は外して。
「はい、なんですか?」
「ちょっとお願いがあるんだけどさ、清掃の子が何人か体調不良で休んで、人手が足りなくなっちゃったみたいなの。よかったらそっちを手伝ってあげられないかな」
なんだ、そんな話か。
僕はほっと胸をなでおろして答える。
「もちろんいいですよ。どこに行けばいいですか?」
「ありがとう。場所はこの施設の一番下の階よ。階段を一番下まで降りれば扉が一つしかないから、すぐにわかるはずだよ。こっちの仕事はやっておくから、もう行っていいよ」
「はい、わかりました」
僕はやっていた仕事を女性に任せて、厨房から出ていく。
清掃の仕事、奴隷とはいえ女性はあまりやりたがらないのかな?
僕は人と関わること以外であれば、特に苦手なことはない。
要領はいい方だと思うから、こういう頼まれごとも特に嫌とは思わない。
……そう、嫌ではなかった。
施設の一番下、そこには一度も立ち入ったことがなかった。部屋と仕事場を行き来する、特にこの場所を探検しようなんて気もなかったから、この施設について僕は何も知らない。
もう何か月も経つけど、多少入り組んだ道を通れば迷子になる自信もある。
だからこの場所のことも、何も知らなかった。
ある程度の予測はつく。
ダストシュートは下の方へ向かっているのだから、この部屋には施設内のほとんどのゴミが集められていることが。
汚い空間ゆえにあまりやりたがらないんだろうと、そんな楽観的な思考だったが。
扉を開けてみると、
「うっ……」
嫌な臭いが僕の鼻に飛び込んできた。
生ごみのような、臭いにおい。
ただそこまでひどいってほどでもない。臭いに思わず顔をゆがめてしまったけど、かつての世界じゃもっと臭いものを嗅がされていたし、ちょっと嫌だな、そんな程度の感想で済んだ。
「ん、誰か来たのか」
部屋に入った僕に、男性の声で話しかけられた。
聞き覚えがある声に振り向いてみると、そこにはアストさんが座っている。
「あ、アストさん、お疲れ様です。清掃に来ました」
「ああそうか、ではたの……ユイ!?」
アストさんは驚いたように僕を見つめ、その顔は徐々に険しくなっていく。
「なぜお前がここに……」
「えっと、清掃の人がお休みみたいなので、その代わりに……」
「くっ、その可能性は考慮していなかった。ユイ、ここは大丈夫だ、他のところを……」
アストさんが言い終わる前に、部屋の隅から、声が聞こえてくる。
「うう……」
「ああ……」
それは、人のうめき声だった。
部屋の中は薄暗く、あまり見通しがよくない。
誰か怪我でもしているのかと心配に思い、目を凝らしてみると、
「なっ……!?」
ボロボロになっている人たちが、横たわっていた。
その数は30人は超えていて、そのすべての人が傷ついている。
中には瀕死のようにも見え、その凄惨な状況に、吐き気を催す。
「うっ……おえ……」
胃の中のものをすべて吐き出しそうになるも、なんとかそれを堪える。
涎を垂らしながらうずくまり、目の前の光景を何とか整理しようと試みる。
「……はあ、だからお前には、この場所を教えなかったんだよ」
ため息をつきながらアストさんはつぶやく。
「ここは奴隷用の発散場だ」
「発散場?」
「文字通り、奴隷が日々抱え込んだストレスを発散するための場所だ」
そんな、そんなものがこの施設にはあったのか。
じゃあ、ここにいる人たちは、
「こいつらは普通の仕事では使い物にならん奴らでな、使い道のない奴隷はここでサンドバッグとなり、日銭を稼ぐんだ」
「……日銭を?」
「そうだ。10分の使用で銀貨1枚、解放のために必要な金貨は最低でも30枚、つまり3000回もの間、無抵抗で殴られてやっと解放される、哀れな奴らだよ」
なんだ、なんだそれ。
今この人たちがどれくらい殴られているのかはわからない。けど、すでにこんなにボロボロになってて、これから先耐えられるわけがない。
3000回、一度で10分なら3万分、500時間もサンドバッグになるのを耐えなければいけない。無理だそんなの。
「これ……僕もなる可能性が、あったんですか?」
以前アストさんは言っていた。
ここで奴隷になったら、最悪の場合1年も持たずに死ぬと。
僕もろくな仕事ができなければここに送られていたんだ。
その事実に寒気が止まらない。
「まあ、そうだな。だが安心しろ。お前の仕事ぶりは聞いている。今の段階ならそれで十分だし、何よりお前は能力がある。ここにいる無能どもとは違い、様々なところで働ける可能性はある」
……けど、その可能性がなくなったとき、この場所に送られる。
この場所での奴隷への破格の扱いに、自分の立場を勘違いしそうになっていた。
けど、僕は奴隷なんだ。人権を持たない、ただの奴隷。
そのことを再認識させられた。
「あー、一応説明しておく。さっきも言ったが10分の使用で銀貨1枚、好きなだけここの奴隷を殴れる。だが部屋を使用できる人数は一度に20人まで、後に控えている人間がいれば連続の使用は30分までとなっている。予約も可能だが……やるか?」
「……いえ、大丈夫……です。それで、ここを掃除、すればいいんですよね」
「ああ、それで来たんだったな。ここの清掃はあそこのゴミだまりだが、今日のところはもう休め。俺がやっていく」
そう言われゴミが溜まっている方を見ると、そこには野菜の皮や使わなかった部位が散乱していた。
ああ、やはりこの場所に、ダストシュートはつながっていたんだ。
ゴミを廃棄するため、ではなく、ここにいる奴隷たちへの食糧として。
その証拠に、食い散らかされた後もある。
「ほれ、肩を貸してやる。もうここには近づくんじゃないぞ」
アストさんの肩を借りて、僕はよろよろと立ち上がり、この場を後にする。
ぬぐい切れない吐き気を残して。




