第89話 「再びの奴隷」
海に揺られながら、意識を失ったはずだった。
あんなところから生きて帰るなんて不可能な話で、僕は死ぬものだと思っていた。
ゆっくりと意識がなくなっていくからか、不思議と怖いとは思わなかった。
ああ、僕は死ぬんだ、そんな諦観を抱いていた。
だから僕は、生きたまま目を覚ましたことに驚きを隠せなかった。
「ここは……?」
目を覚ました僕はベッドに上で横たわっていた。
何日も飲まず食わずだったせいか体がうまく動かないが、意識だけははっきりしている。
僕は間違いなく、生きている。
と、生きている実感を確かめていると、横から声を掛けられる。
「目が覚めたか。体調はどうだ?」
声のした方に目を向けると、体中傷だらけの、上半身裸の男性が椅子に座っていた。
「あなたが、僕を助けてくれたんですか?」
「助けた……と言えばいいのか。まあ命を救ったという意味ではそうだ」
どこか歯切れの悪い物言いで男性は言う。
「それで、体調はどうだ?」
「あ……と……お腹が、好いてます」
体調を問われ、思わず何も考えずに言葉を発してしまった。
思った以上に体が食事を欲しているようだ。
「うむ、見たところ何日も食べていなかったようだからな。いきなり普通の食事は体に悪いだろう、まずは温かいスープ位を口にするといい。すぐに持ってくる」
そう言って、男性は部屋から出ていき、数分後にスープの入ったお皿を持ってきた。
「ほれ、具は入っていないが我慢しろ。今のお前に固形物は毒だ」
「あ、ありがとうございます」
僕は手渡されたお皿を受け取り、少しずつスープを口に運ぶ。
その間、なぜか男性は僕の行動をじっと見ていた。
そしてスープが飲み終わり、僕はお皿を置く。
「あの、ホントにありがとうございました。あなたのおかげで、僕は今こうして生きていられます」
心からの感謝の言葉を述べる。極限状態でいたせいか、見知らぬ人との会話でもそこまでの恐怖を感じてはいない。
目線を合わせることは少し難しいけど、会話をするくらいなら問題ない。
「気にするな。この借りは最悪の形で返してもらうからな」
と、不吉な言葉を口にする。
「さ、最悪な形って……」
「お前は今日からここの奴隷だ」
突如、口に出された奴隷という単語。
その言葉に僕は……身近なものと感じた。
思えば、奴隷って単語はこの世界に来てから頻繁に聞いた気がする。
そのせいで、奴隷という言葉にそこまでの忌避感を感じていないのかもしれない。
けど、そんな僕の心を壊したいのか、男は続けて話す。
「具体的に何をさせるかは決まっていないが、最悪の場合は、1年も持たずに死ぬことになるだろう」
「し、死ぬ……!」
その言葉に僕は戦慄した。
そうか、奴隷って言うのは、普通そうだ。
お嬢様が特別であり、あの学園のスレイブに対する扱いも、他の者が研鑽を続けるストイックさを持つことから虐げられることは比較的少なかった。
僕の見てきた奴隷は、かなりマシなものだったんだ。
この人の言う通り、1年もすればボロボロになる、本来の奴隷の扱いを想像した僕は身震いする。
「……ああ、すまない、脅しすぎたな。まあ最悪の場合の話だ。おそらくお前はその最悪にはならん。比較的マシな扱いを受けるだろうから、安心して体力の回復に努めろ」
脅しすぎたと反省したのか、男性は申し訳なさそうに僕に言ってくれた。
少なくともこの人は、善悪で考えれば善よりの人間らしい。
「では俺は仕事があるから失礼する。奴隷続きの人生には同情を禁じ得ないが、頑張ることだ。生きてさえいればなんとでもなる」
そう言って、男性はこの部屋から出て行った。
奴隷続きの人生……そうか、僕には首輪がついている。これを見て、僕が前の主人から逃げ出したか捨てられたかの奴隷だと思ったのか。
……確かに、僕はずっと奴隷みたいなものか。
前の世界ではもちろん、この世界でも、友達はできはしたが、僕の身分が奴隷であることに変わりはない。
他者の気まぐれによって簡単に崩壊する脆弱な人生、これほど心もとないこともあるまい。
でも……生きてさえいれば、なんとでもなる、か。
確かに、苦しいだけの人生だったけど、マシと思えることも全然あった。
悲観だけの人生に、生きていたから、ほんの少しの光がさしてくれた。
ここで拾われた僕は奴隷という身分から逃れることはできないだろうけど、きっと、生き続けて頑張りさえすれば、もしかしたら何かいいことがあるかもしれない。
そんなか細い希望を抱いて、僕はベッドで眠りについた。




