第78話 「知らない笑顔」
暗闇に落ちていく感覚に陥っている。
体中の力が抜け、まるで全身の生気がなくなり、魂が抜け落ちたかのような感覚。
眠っているようにも近い感覚を身に纏いながらも、ギリギリのところで意識は存在している。
ここはどこ?
僕は何をしていた?
何がどうなっている?
何もかもがわからない状態になっていて、思考すらおぼつかない。
物事を深く考えようとしても頭が働かず、最終的にはこの暗闇で、思考を完全に中断させようかとも思ったとき、
「ユイ、起きなさい! ユイ!」
僕を呼ぶ声が聞こえた。
その声には聞き覚えがある。ずっと小さなころから聞いていた、懐かしい声。
声の正体が知りたいと思ったとき、暗闇だった世界は一変し、明るさを取り戻した。
「やっと起きた。もう、朝食はできてるから、早く着替えてきなさい」
目の前で怒ったような顔をしながら、早く起きるようにと急かす女性。
見覚えがある……それどころの話ではなく、おそらくは僕が、人生で最も多く見てきた女性だ。
「……お母さん?」
僕に語り掛けているのは、正真正銘、僕のお母さんだ。
けど、わざわざ朝に僕のことを起こすお母さんなど記憶にない。それどころか、朝食ができている? そんなもの、お父さんが罪を犯すまでの、少しの間でしか記憶にない。
記憶とはまるで違う現実に、僕は呆けるしかなかった。
「まだ寝ぼけてるの? 早く支度しなさい、遅刻するわよ」
「遅刻?」
「もう8時よ。着替えて朝ごはん食べて、ダッシュで学校に行きなさい」
いまだぼやけていた頭だが、時間が経つにつれだんだんとクリアなものに変わっていく。
8時……学校……。
「え!? 遅刻するじゃないですか!?」
「だからそう言ってるでしょ。早く支度しなさい」
お母さんに促され、僕はベッドから起き上がって急いで制服の袖に腕を通す。
そうだ、僕はいったい何を寝ぼけていたんだ。
このままじゃ全力で学校に向かったとしても遅刻してしまうかもしれない。
僕は用意されていた朝食を急いで胃の中に流し込み、学校に向かう準備を完了させる。
「行ってきます!」
鞄片手に急いでドアを開けて、学校まで全力で走り出す。
……それにしても、僕はどうしたんだろう?
遅刻なんてしないようにいつも同じ時間に寝るようにしてるし、疲れだってそんなに溜まっているようには感じない。
なにより、頭の中に妙な記憶が混在しているように感じる。
今向かっている学校も、本当に僕が通っていた学校かどうかも、定かではない。
夢でも見ていたのだろうか?
「いや、考えてる場合じゃない。本当に遅刻しちゃう!」
遅刻かどうかの瀬戸際ゆえ、頭の中に浮かんでいる疑問はいったん片隅にしまい、一心不乱に学校までダッシュする。
*
何とかギリギリ、遅刻はせずに済んだ。
教室に入った僕は息を切らしながら自分の席に座り、鞄の中に入れていたペットボトルの水を流し込む。
水を勢いよく飲み干し、大きく息を吸ったり吐いたりしている僕に、隣の席の女性が話しかけてくる。
「どうしたのユイ? あなたがこんなギリギリの時間に投稿なんて珍しいわね。夜更かしでもしてた?」
話しかけてきた女性は、物珍しそうに僕を眺めている。
「特に夜更かししてたわけじゃないんですけど……すいません、名前はなんでしたっけ?」
話しかけてきた女性の名前が思い出せない。
いや、知ってはいる。顔を知っているし、名前だって確実に覚えていた。
なのに、なぜか脳内に名前は思い浮かばず、それどころか、この人がこの場にいるわけないという、謎の拒絶感を感じている。
「は、喧嘩売ってるの? 私の名前を忘れるとか、極刑ものよ」
「す、すいません。でも……ホントに、思い出せなくて」
「なにそれ? この天才美少女の名前を忘れるとか何様よ。まったく、セウルよ。私の名前はセウル・シュテル、次忘れたら本気で怒るわよ」
「セウル……さん、そう、ですよね」
そうだ、この女性の名前はセウル・シュテルだ。
僕の席の隣に位置する学生で、今年から同じクラスになって仲良くなったんだっけ。
……なんで僕は、この人のことを忘れていたんだろう?
はっきりと覚えている、この女性のことを。
セウルさんだけじゃない、この教室にいるクラスメイト……僕の友達も、なぜだか、思い出す工程が必要になる。
顔を見て、数秒考えて、やっと名前を思い出す。
奇妙な感覚だけど……
「おはようユイちゃん、こんな時間の登校なんて珍しいね」
「あ……アルちゃん、おはようございます」
名前を思い出して一度あいさつすると、その奇妙な感覚もすべて忘れる。
何もかもが自然なことのように感じられて、流れに身を任せるようになってくる。
セウルさんやアルちゃんと話して、他にも教室にいる友達と会話をして、そのあとは普通に授業を受ける。
何の変哲もないただの学生の行いだ。
友達と話すのが楽しい、授業を受けるのが楽しい。
一緒にお昼ご飯を食べるのが楽しい。掃除をするのが楽しい。
何をするにも周りの人は誰も僕を傷つけず、それどころか僕と一緒に笑いながら一緒に楽しそうにしてくれる。
楽しい。人生は、こんなにも楽しいものだったんだ。
人生は、苦しいことばかりだと思っていた。
苦しいことがたくさんあって、その中に楽しいことが少しだけある……もしくは、全くないものだと思っていたのに。
今は、苦しいことが何一つとして全くない。
やることがすべて楽しくて、こんな時間がずっと続けばいいと思っている。
僕は今日、ほとんどの時間を笑顔で過ごせていたかもしれない。
そして楽しい学校生活が終わって、僕はすごく満足した気持ちで、家に帰ってきた。
「ただいま」
家の扉を開けると、ふと違和感を覚えた。
玄関の靴置き場に、見慣れない靴が置いてある。
高そうな黒の革靴で、僕はこんなものを持ってた記憶はない。当然お母さんのものではないはずだし、いったい何だろうと不思議だった。
不思議な気持ちで僕はリビングの扉を開けると、そこには、
「おお、おかえり」
ソファに座りながら、僕の方に振り返りおかえりという男性がいた。
僕の家は母子家庭のはず、男の人なんか僕以外にはいないはず。
ならここにいる男性は……
「おとう……さん……」
かすかに覚えのある顔、奥底にある記憶を救い上げると、一致するのは僕のお父さんの顔だった。
なんで、どうしておお父さんがここに?
だって、お父さんは……。
「どうしたユイ、そんなに呆けて?」
「どうして、お父さんが……」
「ん? ああ、今日は仕事が早く終わったからな。いつもより早く帰ってきたんだよ」
違う、そうじゃない。
僕が言いたいのはそういうことでなく、そうじゃなくて……なんだ?
お父さんは家にいる。それに何の不思議がある?
だってこの家はお父さんの家で、何も問題はないことだ。
「お父さん、ただいま」
「ん、おかえり」
そこから、お父さんと何気ない会話を繰り広げた。
楽しいかどうかで言えばそんなに楽しい会話と言えなかったけど、どこか安らぎを感じる会話で、妙に心が穏やかになった。
そんな会話を10分ほど交わした後、
「二人とも、そろそろ夕飯の時間よ」
お母さんの声が聞こえてきた。
台所の方からはおいしそうな匂いがしてきて、さっきまではあまり感じていなかったのに、急に空腹感も感じ始めた。
「お、メシか」
お父さんは意気揚々と立ち上がって、食卓に向かう。
僕もついていき、料理が並べられた食卓につく。
思えば、自分でご飯の準備をしなかったのは久しぶりだ。
誰かの、お母さんの用意した料理の数々が、すごくおいしそうに見えた。
「さ、たくさん作ったから、いっぱい食べてね」
僕とお父さんに、お母さんは満面の笑顔でそう言った。
そう……笑顔で。
「……お母さん」
再び、奇妙な感覚に落ちいった。
何か腑に落ちない……いや、違和感とかそういうことではない。
これは確信だ。
「どうしたのユイ?」
そう尋ねるお母さんは、笑顔を崩さない。
優しそうな笑みを浮かべて僕に話しかけてくる。
その笑顔を見れば見るほど、込み上げてくる。
悲しみが。
「そう……か。これが、幻覚魔法、なんだね」
気づいてしまった。この世界が、偽りであるということに。
ああ、そうだ、セウルお嬢様も、アルちゃんも、他の学生もちゃんと知っている。
学校生活の楽しさも、ほんの少しだが知っている。
お父さんのことも、小さな時だけど知っている。
けど、僕は……
「ユイ、食べないの?」
お母さんの笑顔を知らない。
「絶対にありえないんです」
この世界が幻覚だとはっきりと理解してしまった。
意識が鮮明になっていき、霧が晴れるような感覚だ。
僕はアイラさんの魔法を打ち破った、そう考えてもいいのかもしれない。
だけど……涙が溢れてくる。
幻覚を破った理由が悲しすぎて。
こんな、誰もが知ってるはずの……母親の笑顔を知らなかったなんて。
「な、泣いてるの? 大丈夫ユイ?」
お母さんが心配そうに僕に尋ねる。
けど、そんなお母さんも、そばにいるお父さんも、その存在があいまいなものへと変わっていく。
現実に戻るんだろう。この世界のように楽しいだけじゃない、現実に。




