第72話 「初めての怒り」
初めての感情だった。
人とは誰しもが自分よりも上の存在だと思い込み、こんな感情を誰かに対して抱くことなど、絶対にないと信じていた。
だけど、僕の中にも芽生えた一つの感情。
『怒り』
他者に対してこれほどまでに心がざわつき、いら立ったことなど記憶にない。
僕の根本的な性質なのか、環境によって形成された性質なのかはわからない。
けど僕は生まれてから一度も、怒りという感情を持った記憶がない。
いらだちを感じ、不安を感じ、焦りを感じ、様々な感情を抱いてきたが、それでも怒ったことは記憶に一度もない。
けど、僕は怒った。
本当に、心の底から人に対して怒りの感情を向けている。
僕の初めての友達を化け物呼ばわりされた。
アルちゃんは、本当にいい子だ。まだ出会って間もないけど、少しでも触れ合えば理解できる。
彼は本当にやさしい人なんだと。
誰に対しても恐怖を感じてしまう僕が唯一安心感を覚えた人を、あんな屈託のない純真な笑顔を見せる人を、化け物と呼び、悲しませた。
アイラさんががどんなに強い人だとしても関係ない。
誰からも愛される人と呼ばれていようと関係ない。
僕はあの人が嫌いで、あの人に対して怒っている。
たとえアルちゃんが望んでいないとしても、僕自身が、あの人のことを許せないから。
だから、絶対に謝らせてやりたいと思った。
そのためなら、人に対して恐怖を感じていようとも、人に暴力をふるうことが吐き気を催すほど嫌いだとしても。
なんとしてでも、謝らせたいと思った。
*
「一か月後に、アイラさんと戦うことになりました」
屋敷の台所で、アニスさんにそう報告をした。
特に伝える義務はなかったけど、序列2位位と戦うリスクを考えれば、一応の報告は必要だろう。
「……なんで?」
アニスさんのきょとんとした表情、とても珍しいものを見た。
その疑問ももっともだろう。
今朝、もう戦わなくていいと言われたのに。
僕自身はそのことに対して喜びを感じていたのに。
わざわざ戦うなど、バカのやることだ。
「どうしても、許せなかったんです」
歯噛みしながら伝える。
アイラさんのしたことが、どうしても許せなかったと。
あの人がやったことに対して、きちんとした謝罪をさせてやりたいと。
僕の中の感情を、できるだけわかりやすく伝えたつもりだ。
するとアニスさんはため息をついて、一言つぶやく。
「どれだけ優しいんですか」
優しい? 僕が?
そんなことがあるはずがない。
人に対して怒っている。そのための手段に暴力があることもわかっている。
なのに構わず、それを実行しようとしている。
こんな感情をもって行うことが優しさであるはずがない。
なにより、アルちゃんはこんなことを望んでいないんだ。
彼の気持ちよりも自分の気持ちを優先した身勝手な行動、こんなものが優しさなのだというのなら、世界中のほとんどの人が優しい人間だ。
「アニスさん、せっかく課題をなしにしてもらったのに申し訳ないですけど、アイラさんと戦うと決めたので」
「……別に、それは気にしませんよ。ユイ君のやりたいことなのだとしたら、よっぽどひどいことでない限り止めはしません……君がそれをやりたいと思っているかは疑問ですが」
「ありがとうございます。これは、僕の感情に従ったゆえの行動です。だから、きっと後悔はしません」
「まあ………無理だけはしないように」
アニスさんは料理を台車に乗せ、食卓へと運び始める。
僕のすることはアニスさんの目には、どう映っているんだろうか?
愚かな行動か、賢明な行動か、何も思っていないのか。
少し気になったけど、怖かったから僕は追及することはしなかった。
アニスさんと同じく食卓まで料理を運ぼうとする。
その時、
「……やりすぎて、後悔しないように」
アニスさんが、小さな声でつぶやく声が聞こえた。
「何か言いましたか?」
うまく聞き取れなかったので聞き返したが、アニスさんは何でもありませんと言い、仕事の続きを始めた。
この時の言葉をちゃんと聞いていれば、僕は、あんな思いをせずに済んだのだろうけど、それは怒りを持った僕には、想像できないことだった。




