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第103話 「交渉の結果」

「おえっ……えっ、おえ……!」


 控え室に戻った僕は、胃の中のものを吐き出していた。止まることのない吐き気、すでに胃の中は空っぽのようなのに、それでもなお込み上げてくるものがある。

 あんなに……あんなに気持ち悪いなんて。

 今でもこの手に感触が残っている。柔らかな肉にめり込む感触が、固い骨に当たった感触が、まだ手に残っている。

 人間の血の臭いが、頬に伝った感触が、まだ残っている。

 忘れようとしても忘れられない。

 そして、苦痛に歪んだリックさんの顔が。

 力なく倒れたリックさんが。

 僕の脳裏にこびりついて、気持ち悪さを助長させる。


「おえぇぇ……!」


 結構長い間、こうしていた気がする。

 この最悪な気分が永遠に続いているような感覚に苛まれ、控え室でのたうち回っていると、


「ユイ、見事な勝利だったな」


 アストさんが何やら大きな袋を持って、控え室にはいってきた。

 けど僕はそんなことがどうでもよくて、地面に向かって嗚咽を漏らし続ける。


「お、おいお前、どうした!?」


 慌てて駆け寄ってくるアストさん。地面に向かって胃液を垂らす僕の背中をさすってくれて、何度も声をかけ続けてくれる。


「大丈夫か!? 腹か、腹が痛いのか!? さっきのダメージが残っているのか!?」


 心配してくれるアストさんの声で、少しずつ頭がクリアになっていく。感触も臭いもまだ脳に残ってるけど、それを上書きするほどに、切実なアストさんの言葉が耳にはいってくる。

 数十秒ほどしてから、僕は息を整えて口を拭う。

 ゆっくりと顔をあげて、アストさんの顔を見る。


「大丈夫なのか?」


 心配そうな顔に安心しながら、申し訳なく思う。

 こんな僕を、卑怯で臆病な僕を心配させてしまっている。

 僕にはそんな価値はない。誰かのためにすら本気で人を殴れなかった。

 あのときリックさんを殴れたのは、なにも考えられなかったから。

 魔石の女という言葉を聞き、頭が真っ白になって、激情に駆られて腕が勝手に動いただけだ。なんて、醜いんだろう。

 こんなにも自分のことが嫌いになったことは一度もない。

 僕は不幸になるべきという考えを改め、幸せになりたいことを自覚した。

 一緒に幸せになろうとまで宣ったくせに、こんな僕に幸せになる資格があるなんて思えない。

 僕は僕が、大嫌いだ。


「すいません、アストさん。もう大丈夫です」


「そ、そうか、ならいいんだが。ユイ、お前はもう奴隷じゃない。何か辛いことがあれば遠慮なく俺に言いつければいい。なんなら今から病院に連れていくが」


「いえ、大丈夫です」


 実際、傷自体は全く問題ない。

 リックさんの攻撃をお腹にもろに食らったけど、大事に至るほどではない。あの人の実力はだいたい、学園国家の序列10000位程度だ。かつてのライムさんといい勝負ができそうな、そんなレベルの相手の攻撃は、痛くはあるけど尾を引くものではない。

 僕は今、精神的に問題があるだけ。この世界の病院で、精神科なんてものは存在しないだろうし、行くだけ無駄だ。


「まあ、お前がいいならそれでいいが……ユイ、お前の取り分を持ってきた。奴隷解放に必要な分の15枚を抜いた、485枚が入っている。慎ましく暮らせば、一生暮らせるほどの額だ」


 アストさんは大きな袋をジャラジャラと鳴らしながら僕に言う。

 そのお金を見て、僕は自分の目的を思い出す。


「アストさん……あの子の飼い主のところに、連れていってくれますか?」


「あの子って……あれのことか。別に今でなくてもいいだろう。明日以降に……」


「お願いします。一日でも早く、解放したいんです」


 あの子は、僕の目的だから。

 自分に対する嫌悪感も、傷つけた苦しさも、全部忘れる。

 せめて最初の目的をすぐにでも達成しようとしなければ、僕はさらに自分が嫌いになる。

 それに、あの子を解放したい。今もあの拷問のような時間の中にいるなら、何とかしなければいけない。

 今の僕の苦しみなんか比べ物にならないほどの苦痛を受けているあの子を、助けないと。


「わかった。だが、連れていくのはいいがそこで吐くのはやめろよ。奴隷でなくなったとしても身分は違う。下手をすれば生涯奴隷、もしくは死刑なんてこともありえるからな」


「し、死刑ですか」


「ああ、冗談ではない。まあ身分を考えればという話だけで、これから会う方は気性の荒い人ではない。本当に驚くほど馬鹿みたいなことをしなければ、滅多なことにはならん」


 そう言われ、少し安心した。

 優しい、とまではいわなくても、気難しい人でなければ交渉にもいくらか芽が出る。


     *


「ついたぞ、ここだ」


 アストさんに連れられた場所には、大きなお屋敷が建っていた。

 セウルお嬢様の家と比べると少し小さいけど。


「話は事前に通してある。俺は側についてはいるが、基本的に会話をするのはお前だ。心しておけよ」


「はい」


 まだ気分は優れない。あの感触を思い出そうとすれば吐くこともできる。

 けどこれからすることは、僕にとっての最重要事項だ。

 あんな気持ち悪いことをしたことに意味があるかどうかが、ここで決まる。


 屋敷の門を潜り、大きな扉を開く。お嬢様の家のように何か罠があるのかとも警戒したが、さすがにあんなことをしているのはお嬢様やアニスさんくらいのようで、この家には危険な感じが微塵もしない。

 目的の人の部屋までなんの問題もなくたどり着けた。


「ここだ。まずは俺の後ろについてこい。適当な距離で膝まづくから、お前も真似をしろ」


「はい」


 アストさんが扉を開けて入った部屋は、広大な面積のある部屋だった。

 床には深紅の絨毯が張られ、天井には豪華な飾りのついた宝石が散りばめられ、目映い光を放っている。

 そしてその豪華な部屋にひとつ置いてあるこれまた豪華なイスに、一人の女性が腰かけている。


「いらっしゃい、あなたがアストの言っていた奴隷ね。いえ、ここに来たということは、もう奴隷じゃないのよね」


 女性は上品な笑みを浮かべながら僕を見る。

 その女性は、一言で言えば、かなり盛っている、という印象だ。

 イヤリングにネックレス、ティアラ、さらには宝石の散りばめられた仮面を被りと、盛りに盛られている。

 宝石だらけで素顔もわからない顔で、僕に視線を向けている。


「はっ、この者はユイ・イチホシ、先刻の勝負により奴隷から解放された、この国の市民であります」


 アストさんは膝まづいて述べる。僕もそれにならって膝をつき、頭を垂れる。


「あらあら、アスト、別にそんな畏まらなくてもいいのよ?」


「いえ、私は奴隷ですので」


「名ばかりの奴隷なのに」


 名ばかり?

 アストさんの立場は気になるところがあったけど、どういうことだろう?


「それよりも、本日は時間を作ってくださり感謝いたします。ユイ、用件を述べろ」


「あ、はい」


 話を振られ、僕は頭を整理する。

 僕の用件、したいこと、そしてその目的達成のための言葉を。


「あなたにお願いしたいことがあります」


「なにかしら? ああその前に、まだ名前を名乗ってなかったわよね? 私はアイリ・クスノキ、よろしくね」


「はい、よろしくお願いします。それでお願いなのですが、僕に奴隷を、地下にいる魔石の一族の女の子を、売ってください」


 奴隷の売買、これ自体は普通のことだ、この世界では。

 問題は魔石の一族がどれ程の価値があるか、願わくば僕が手に入れたお金が相場であればいいのだが。


「却下ね」


 アイリさんは考える間もなく、断った。


「……なぜ、でしょう?」


「あの子は金銭目的で売る気はないってことよ。そもそもの目的が、稼ぐことではないからね」


「なら、何を目的で彼女を傷つけるのでしょうか?」


「魔石の一族、それだけで理由になるのよ」


「その理由を明確に教えてくれれば、それに代替するものを提示します」


「憎悪の発散よ。この国には魔石の一族に恨みを持つものが数多くいる。その憎悪を、私はみんなに発散させてあげることを目的にあれを飼ってるの。なにものも代替品にはなりえないわ」


「憎悪を金銭による満足で満たすことはできないですか?」


「人の命を奪った罪を、お金でどうにかしようというの?」


「……確かに、お金を払うだけで罪がなくなるなんてあってはいけません。お金で解決できない問題があることもわかります。でも……」


「でも?」


「あの子は、誰も殺したことがないと言っていました」


「信じるに値する言葉なの? 彼女はあらゆる暴力を甘んじて受け入れている。自身の罪を自覚しているからではないの?」


「違い……ます」


 叫び否定しようとしたところで、無理矢理冷静にする。

 感情的になれば終わりだ。なんとか説得するためにも、落ち着かなければ。


「彼女はそうすることで、耐えられるようにしているだけです」


「どういうこと?」


「避けることのできない暴力を、仕方ないことなんだと思い込むことによって耐えてるだけなんです。自分が罪を犯していないけど、一族が罪を犯したから責任がある。本当は思ってもないのに、思い込んで正気を保ってるだけなんです」


「それを証明できる?」


 それは、できない。

 彼女の言葉が、僕と同じものだから理解できただけのことだ。

 この世界の人間じゃなく、同じく自己防衛をして来た僕だから、わかってあげられた。

 普通の人に言っても、異常者扱いされるのは僕だ。


「証明は、できません。けど、彼女自身がやったかどうかわからないじゃないですか」


「それは水掛け論ね。やったやってないなんて誰にもわからない。それに、たとえやってなかったとしても魔石の一族という理由だけで悪よ」


「そんな……」


「あなたは外部の島から来た奴隷なのよね? この島についてなにも知らないからあれに同情なんかできるのよ」


「どういうことですか?」


「この島はかつて魔石の一族の集落があった島、つまり、世界のどこよりもあの一族に恨みを持つ島なのよ。この島の、特にこの国にいる人間は、半分以上が家族を殺されてるわ」


「……そんなこと、彼女に関係ありません」


「本当にそう言いきれる?」


「当然です。魔石の一族がかつて非道を行ったのはわかります。この国の人が恨みを持つのは当然のことです。けど、誰も殺してない彼女に罰を与えるなんて絶対に間違ってます」


「あなたはなぜ、あれを助けようなんて思うの? 魔石の一族よ?」


「関係ないです。誰かが傷つくことを可哀想に思うことの、なにがおかしいんですか?」


「子供ね。結局ただの感情論じゃない」


「そっちだって彼女を傷つけるのは感情論じゃないですか」


「確かにね。けど殺された恨みという感情よ。被害者も可哀想だと思うけど」


「でも彼女は加害者じゃありません」


「……これ以上は何を話しても無駄ね。あなたは折れるつもりはないみたいだし」


「なら、どうしますか?」


「とりあえずそうね、金貨を10000枚持ってきなさい」


「い、10000……!」


「当然でしょう。こちらは売るつもりのない、この世にただひとつのものを差し出すのよ? 1000や2000なら片手間で稼ぐことができる。私がそれなりに労力を割いて手に入れられるものを要求するのは不思議でないはずよ」


「けど、10000なんて……」


「これ以上の譲歩は認めない。10000持ってくれば、あなたの話を聞いてあげるわ」


 ……本当に最低限のラインなんだろう。

 これ以上粘っても、この話が完全に反故になるか、求められるものが増えるだけ。もとより主導権は向こうにある。

 受け入れるしかない。


「わかりました。金貨10000枚、お持ちします」


「ええ、楽しみにしてるわ」


 話は終わった。僕はこれから、金貨500枚近くを元手に、10000にまで増やさなければいけない。どれだけかかるだろうか。

 わからないけど、いずれあの子を解放できる可能性が浮上したことは僥倖以外の何者でもない。


「話を聞いてくださりありがとうございました」


「どういたしまして」


 僕は立ち上がり、この屋敷から出ていく。

 早く考えないと、手っ取り早くお金を稼ぐ手段を。


     *


「ねえアスト」


「なんだ、アイリ」


「あら、あのユイって子がいなくなったらタメ語?」


「問題ないだろ。お前も話し方を戻したらどうだ?」


「そうね…………あぁぁ、あの子なに? なんであれに同情できんの?」


「優しいやつなんだよ。あれに食事を持っていったり、なにかと世話を焼いてな」


「は、マジ?」


「マジだ。特に不都合もないので許してある」


「不都合ないって……魔石の一族なんか、クズ中のクズよ。あれが誰も殺してないのは知ってるけど、魔石の一族って時点で悪なのよ」


「それを、お前が言うのだな」


「私だから言えんのよ」


「ならどうする? ユイとの約束は無視か?」


「あたりまえよ。魔石の一族は1人たりとも生かしてはおけない。もしあれが解放されれば子を作る可能性がある。そうなればまた、クズが蔓延る世界になる。そんなの絶対に許さない」


「……そうか」

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