君になる
5.
小宮山さんの語ったプランによって、彼女が学園祭当日、単身逃亡を図るつもりだったことが判明した。しかも旧人類が統治する北海道へ向かう予定だったことからそれは政治的亡命に他ならない。
「海底トンネルは北海道とサハリンに繋がってるわ。〈超人〉政策をめぐって日本が分断される前、ロシアと行った経済協力で造られたの」
不勉強で知らなかったが、僕たちの送られた島は北日本にできた旧人類側の政府に接収されることを拒み、京都を首都とする南日本の領土に組み込まれた経緯がある。
「トンネルの検問は島の地下に設けられてる。裏を返すと、そこさえ突破すれば非武装地帯を通過して旧人類側の領土にたどりつけるわ」
小宮山さんいわく、二つの種族は終わりなき戦争の最中、互いのあり方を攻撃し合っており、旧人類が亡命者を歓迎するのは確実とのことだった。
問題は逃亡に使う車両をどうやって手に入れるかだけど、小宮山さんの頭のなかには当日とるべき行動が隙間無くつまっていたのだった。
「まず、私の部屋に向かって」
僕は体の不自由な彼女をおぶりながら、指示されたとおりに移動を行った。
「化粧台の引出しにナイフが入ってるわ」
彼女の話によると、それが用意した唯一の武器だという。引出しから取り出してみると、それは食器用のナイフで、殺傷力を高めるべく毎日レンガで研いでいたらしい。
「島の廃村に崩れたレンガ造りの家があったわ。そこから調達したの」
手にしたナイフで試しに切れ味を確かめてみることにしたが、刃をあてただけで彼女のメモ用紙がスパッと両断される。包丁にも負けない鋭さだ。
「相当念入りに研いだんだね」
僕は恐ろしい武器と化した食器用ナイフに感心し、そこに彼女の生存へ向けた執念を読みとる。
「私のプランでは、そのナイフを君に使って貰う別の選択肢もあったのよ」
再び体を預けながら、小宮山さんが不穏なことを言った。
「別の選択肢って何?」
「学園祭当日、ハムレットが叔父である現王を殺すでしょ。そのとき本物のナイフを使って役者を殺して貰おうと考えてたわ。学園中の注意をそこへ引きつければ、逃走は楽になると考えたわけ」
随分用意周到だな、と思う一方、彼女のプランに僕は不可欠な駒だったようだ。
「そこまで僕を信用した理由は何なの?」
率直に尋ねると小宮山さんは、熱い吐息を僕の首筋に吐きかけた。
「合理的な理由はないわ。交換の相手以外に、私が信用できる人は存在しないもの」
「たまたま僕だったってわけか」
小宮山さんが急にハムレット役を押しつけたことを思い出し、交換以後の日々を冷静に振り返る。偶然の要素が多いけど、それでも手札が揃うのを彼女は願ったわけだ。そこには僕が人間並みの共感を示すことも含まれていた。
どれ一つ欠いてもプランは流れた。その意味で小宮山さんは強運を引き当てたと言える。とはいえ命を懸けた大博打だったからこそ、神に選ばれる資格を手に入れたのだろう。
僕はナイフをしまい込み、彼女の部屋を出て、指示されたとおりのルートを進む。
「次は車両を奪うために、来賓を連れてきた運転手の休憩所へ向かうわ」
プランの難易度がここから急激にあがる。もし彼女が一人で逃亡を図ったとしたら、無事やり仰せたのだろうかと、疑問がよぎる。
「君が高いサイコパシーの持ち主であることは紅谷先生から聞いてたわ。その特殊な体をフルに活用すれば、数人倒す程度難なくこなすと思ったの。くわえて君は運転免許を持ってる」
僕の問いかけに応じて、小宮山さんが物騒な返事をよこした。
「ひょっとして僕が犯した罪も、君は最初から理解してたの?」
「ええ。危険人物ということで、紅谷先生からひと通りレクチャーを受けてたわ」
なるほど、だから僕の告発を淡々と受け流せたわけか。
「でもそうすると、君は人間並みのサイコパシーしか持っていないのに、僕みたいなやつと平然と関わってたんだね」
ぽつりとこぼしたのは、感嘆の言葉だった。運頼みの要素はあったけど、小宮山さんの意志が強靭でなければ、そもそもリスクは冒せない。
意志の力が弱くて自制心が効かず、容易く周囲に流される弱者というのが僕の人間観だった。けれどその考えは間違っていたのではないか。小宮山さんがそうであるように人間はもっと奥深いし、想像より逞しい。
その証拠にサイコパス適性値が10ptを下まわっても僕と彼女の体は一体化し、差し迫った困難に怖じ気づく様子も全くないのだった。
***
小宮山さんのリサーチは正確で、僕は彼女が教えた場所へ向かい、そこで煙草を吸っている運転手を一人気絶させ、上着のポケットから車両の鍵を奪えばよかった。
「変装用の服も必要だわ」
「そうだね」
僕たちはまるで窃盗犯のようだったけど、彼女のプランと僕の実行力が噛み合うことによって障害は次々と乗り越えられていく。
二人めの運転手を襲った後、僕たちは休憩室の女子用トイレでスーツに着替え、脱ぎ捨てた制服をボストンバッグに詰めて駐車場へ向かう。
「地下へ降りる階段を探して」
彼女は相変わらず僕におぶさったままだったが、学級委員になることで得た学園の情報を駆使して僕を目的地へと誘う。
恐らく地下に通じる部分は普段閉鎖されているのだろう。それが学園祭という特別な行事に際して関係者が通過できるよう配慮がなされている。
おかげで僕たちは地下二階にあるフロアに出て、運転手から奪った通行証を読み取り機にあてがい、何台もの車両が並ぶ空間に出た。
「通行証は一元管理されてると思うわ。国境を抜ける際もそれを使えば通過できそう」
さすがに小宮山さんにも知らない部分はあったようで、語り口に憶測が含まれた。
「これくらいの台数なら、すぐに目的の車は見つかるね」
僕は希望的観測をこぼしたが、事実車両の鍵を順繰りにかざしていくと、一台のアウディが小気味よい電子音を立て解錠された。
僕は助手席のドアを開け、小宮山さんを押し込んだ。
「君が苦しそうにしてると検問に引っかかる。できるだけ平然としてくれないと」
運転席に体を滑り込ませ、僕は彼女に言った。実際検問の通過は、演技力が求められるだろう。
「検問には国境警備隊が配置されてるわ」
小宮山さんが荒い息をしながら言った。とはいえ僕はハムレットの台詞を丸暗記したくらいだから、それっぽい嘘をつくのは慣れている。
穏やかな口調でそう言うと小宮山さんは小さく頷いた。僕は検問を騙すという重責を担った形だが、むしろ気をよくして軽快に車のエンジンをかける。本当なら一刻も早くこの場を去りたいところだが、今は目立たないことが大事だ。
駐車場をゆっくり進むと二車線の通路が現れた。これが例の海底トンネルだと思われる。
「検問はどのくらいであるの?」
「ごめんなさい。そこまで分からなかったわ」
小宮山さんは申し訳なさそうに言ったが、僕は自分の体が震えはじめていることに気づいた。
武者震いだろうか。危険のまっただ中に踏み込んだことで、唐突に不安が忍び寄ってくる。
「検問が見えてきたね。対応は僕がやるから」
なりゆき上、小宮山さんに無理はさせられない。僕は通行証を取り出し、二人の警備隊員が見える距離まで車両を近づける。
もしこれが自分の体なら、危険な状況になればなるほど、僕は冷静になれる。だが小宮山さんの体はとても敏感で、不安はやがて明らかな心拍の上昇をともなった。
隊員が僕たちの若さを不審に思い、念入りに調べはじめたらどうしよう。体の影響をもろに受け、僕の心は柔らかい青草のように靡いた。
封鎖された門は二股に分かれていて、片方の道路標示には「ユジノサハリンスク」と、もう片方には旧人類の国家名が記されていた。当然、後者のほうが警戒は厳重だ。
僕はブレーキを踏み、検問の前でアウディを止めた。すかさず警備隊員が駆け寄ってくる。
「通行証を出せ」
ウィンドウを開き、パスポートを兼ねた銀色のプレートを渡す。心臓が異様な速度で脈を打つ。
「そこの男は何だ?」
ドア越しに警備隊員が呼びかけてくる。妥当な理由をでっちあげることにした。
「来賓である御方の御曹司だ。ドライブに行きたいとせがまれた」
「北海道は他国の領土だぞ。わざわざ遊びに行くような場所ではない」
不審を抱かれたわけではないが、べつな理由で渋られた。自己主張の強い〈超人〉は素朴に向き合うと衝突を起こす。ゆえに立場の上下で優先順位を決めることが多い。
「来賓の御方は要人だぞ。お前たち警備隊員ごときが口を出す筋合いはない」
僕はわざと低めた声で威厳を醸しだした。しかしこのとき僕は咄嗟に思い出す。人間も含めた動物には恐怖をかき立てるボタンがある。危険を察知すると勝手にスイッチが入り、アドレナリンを急激に分泌させるのだ。
「そんなこと知るか。二人とも車外へ出ろ」
北海道へ向かうというだけで相手の警戒心をかき立てるのは最悪の展開に近い。体内をめぐるホルモンは喉の渇きをもたらし、次第に汗をかいてくる。
僕はやむなくドアを解錠し、検査を受け入れることにした。もちろんスーツの上着には小宮山さんのナイフを忍ばせてある。
「早くしろ!」
助手席側のドアをもう一人の警備隊員が開け、小宮山さんを無理やり引きずり出した。ただでさえ不適応で疲弊した彼女は、顔つきこそ冷静さを保っていたが、体は力なくアスファルトの地面に倒れ込んだ。
「随分若いな。まさか学生じゃないだろうな」
警備隊員の猜疑心に火がつき、赤々と燃え広がる景色が脳裏に思い浮かぶ。殺るならいまだ。
「グハッ!?」
取り出したナイフを一閃させ、僕は運転席のウィンドウから警備隊員の眼球を刺し貫いた。
僕は度重なる殺人を通じて、人体の弱点を知り抜いている。力の強弱をべつにすれば、そこに男女の違いは存在しない。
殺さなくてもいい。足止めさえできれば。
すかさず車外へ出て、ボンネットの上を転がり、もう一人の警備隊員を思いきり蹴飛ばす。手応えはかなりあったから、その勢いで組み伏せた。そして再びナイフを構え、片目を抉り取る。
この間、二秒とかかっていない。あっという間に検問を制圧したことに小宮山さんは驚いている。
「君はまるで化物ね」
悪気はなかったのだろう。しかしそのひと言は僕の胸を鷲掴みにした。
【13・245pt】
端末に映じられた数値が跳ね上がっている。何が起きているかは一目瞭然だ。
不適応。一度下がった適性値が僕の魂に引き寄せられている。
【28・458pt】
どうしてこうなった。命を削るような危機を僕の本能が嗅ぎ取ったとでもいうのか。
片目を潰された警備隊員が立ちあがってくる。待機要員などに連絡を取られたらまずいことになる。
僕は自分のなかにある制限を解除した。確実に止めねば先へ進めない。
ろくな反撃能力がない相手を嬲るような真似は避けたかったのに、恐ろしい速度で心の重荷が軽くなる。人殺しへの躊躇が雲散していく証拠だ。
【36・431pt】
ナイフを水平に滑らし、喉元に集中した血管を引き裂く。
【47・978pt】
通信機器を取り出そうとした警備隊員二人を無慈悲に屠る。僕は完全に殺人鬼に戻っていた。
【55・254pt】
自分が何者であったかを猛烈な速度で思い出す。覚醒した人間らしさなど瞬く間に上書きした。
【62・748pt】
ただ、そんな自分を小宮山さんに見られていることには多少抵抗感があった。どうしても謝りたくなって彼女を見下ろし、息をのむ。だから僕は、事態の変化に一瞬立ち遅れてしまう。
「よう、白哉次郎」
そんな声が背後から聞こえた。振り向きざま、空気を圧縮したような音が地下空間に響く。
「……てめぇ!!」
背中に激痛を感じたと同時に、叫び声をあげた。半ば悲鳴、もう半分は突如火のついた怒り。
眼前に紅谷がいた。片手にはサイレンサー付きの拳銃。弾丸は僕の右肺部を貫いた。
【72・247pt】
適性値は完全に手術前の数字に回復した。僕は自分の体で小宮山さんを庇いながら、大声で指示を出す。
「君は車の中に戻って!」
「ふうん。これがお前の決断ってわけかい?」
紅谷の声と重なった瞬間、小宮山さんが立ち上がり、助手席のドアを開けたのが見えた。これで人質を取られるような状況は消えた。僕は紅谷を無力化することに全力を尽くさんと感情を氷のように凍てつかせる。
【81・378pt】
ついに数値は自己ベストを更新した。〈超人〉は恐怖を呼び起こすスイッチをオフにすることができる存在で、僕は常にその恩恵を受けてきた。ピンチになればなるほど冷静さを発揮し、獲物を狩る蜘蛛のように迷いなく直線的に動きだす。そこに流れる血液は氷よりも冷たいという。
だが問題は、紅谷も僕と同類である可能性があることだ。その予感は、やつの圧倒的な余裕ぶりから推し量ることができた。
「白哉次郎。見たところ、数値が人間並みになって小宮山を助けようとしたはいいが、元どおりになっちまって殺意が溢れ出した様子だな。まあどのみちここに来るとは思ってたし、それくらいじゃねぇとおいちゃんは倒せないがな」
僕はナイフ。紅谷は銃。武器の差でいえば、圧倒的に僕の不利だ。
しかも紅谷が僕と同等のサイコパシーを有していれば、弾丸は的確に急所を砕き、痛みも苦しみもない死をもたらすだろう。そうした結末を僕は鮮明に思い浮かべることができた。
けれどなぜだろう。死にたいする恐れは微塵も感じなかった。これでも命は惜しいと常々考えてきたし、僕は死にたがりではない。なのにこの一線を守りきらねばという意志が僕を奮い立たせる。
気づけば、車体の上に飛び乗り、銃の射線を避けていた。殆ど無意識のうちに体が動く。
「素早い動作だな。さすが学園一のサイコパスだ」
相変わらず軽薄な言い回しで、紅谷が僕のことを賞賛する。
「お前が死のうが生きようが、残留した魂をコピーすれば実験の成果は得られるからな。ひょっとしたら半殺しで済むと考えなかった判断は褒めてやるぜ」
射線を回避したことで殺しあぐねたのか、紅谷は口笛でも吹くような声で朗らかに言った。
とはいえこのままではこう着状態だ。僕が優位を得られるとしたら、次の一撃に全霊を懸けること以外ない。そんな冷ややかな熱情に頭が冴え渡っていく。
【93・792pt】
サイコパス適性値の上限は100pt。前人未踏の領域に僕は踏み込みつつある。
「みっともねぇな、白哉。頭抜けた〈超人〉のお前が隠れんぼか?」
うわははと笑い声をあげ、紅谷がボンネットに片脚をかけた。僕を追いつめる気なのだ。
逃げ場がない。盛大に舌打ちをした、万事休すだ。
そのときだった。突然、アウディが唸りをあげて急発進した。
「……クソッ!」
ボンネットに膝をついた紅谷の体がよろめく。その中途半端な姿勢は彼の命取りになった。
車両は彼を乗せたまま、検問所の壁に激突した。
体を強打した紅谷がアスファルトに放り出され、その胴体はぴくりとも動かない。僕は開放されたままのウィンドウに向かって思わず声を出した。
「運転できたの?」
「違うわ。君の運転を見て、どこがアクセルとブレーキかだけ理解したの」
計算に入れていなかった小宮山さんが誇らしげに言う。「最高のサポートだったよ」と僕は心から感謝をした。そしてコンクリートに降り立ち、紅谷のほうへ向かう。
相当な勢いでぶつかったから、彼は銃を放り出していた。僕はそれを拾いあげ、照準を定める。
【95・158pt】
興奮も心拍数の高まりもない。湖面に降り立った気分だが、水面は少しも揺れなかった。
「国家に叛逆したのはまだ許してやる。だが実験の成果を持ち逃げするのは許さねぇ。お前の体はもうお前だけのものじゃねぇんだ。公共物であり、〈超人〉社会存続の切り札なんだ」
死が間近に迫っているのに紅谷は命乞いさえしない。
「お前たちの都合は知るか。僕の体は僕たちのものだ。小宮山さんの体もな」
ハムレットもこうやって王を殺したのだろう。引き金をひくと、乾いた音を残して紅谷の右頭部は砕け散り、周囲に血しぶきを撒いた。
僕が振り返ると、小宮山さんが運転席から姿を現した。二人とも血まみれだ。
「……制服に着替えようか」
ジャケットを脱ぎながら呼びかけると、彼女は安堵したように仄かな微笑を浮かべた。
***
それから一年後。
私は車いすでの移動を余儀なくされ、病院の外へ出た。秋も深まり、レンガ敷の地面にはたくさんの落ち葉が積もっているという。たぶん下を見れば、茶褐色の世界だ。抜けるような青空がひときわ鮮やかに見えるだろう。
政治的亡命はうまくいった。ある意味拍子抜けするほどに。
旧人類は戦争で劣勢に立っているから、第三国の支持をどれだけ得られるかに意識を向け、懸命に失地挽回を図っていた。だから私たちの存在は〈超人〉社会が行う非道な人体実験の一部と見なされ、彼らの統治がどれほど倫理を冒涜したものであるかを証明する材料となったようだ。
おかげで望ましき医療支援は十分に受けられ、最先端の施設で治療も行われた。けれど私の体内に巣くった腫瘍は増殖を食い止めたり、薬で痛みを抑えるのが精々で、生命を蝕み続けている事実に変わりはない。
「ほら、着いたよ」
車いすが止まり、呼びかける声があった。私は腫瘍の影響で目が見えなくなっているから、介護をしてくれる彼の言葉を頼りに世界を思い描く。レンガに落ち葉、澄み渡った青空。それらに気持ちを昂らせ、何もない画布に彩りを与える。
そのとき、冷たい風が私の頬を撫でた。すかさず彼がマフラーを巻いてくれる。そのマフラーは、私が島にいるとき編んだものだ。
外出の時間は、かつて無自覚に得ていた自由を思い起こさせてくれる。いまの私は生命を維持するのが精一杯で、食事すら制限がある。日がなラジオを聞き、退屈を紛らわせている。
彼と過ごすわずかな時間が、私にとって数少ない救いだ。なぜそこまで彼に没頭するのかを私はもうあまり思い出すことができない。記憶は古いものから順に剥落していき、つい一年前のことさえ想起するのが難しい。
これが不適応の結果であることはかろうじて分かる。私は小宮山透子の体に取り込まれ、残留していた彼女の魂と結びついてしまった。同じことが彼にも起きている。
そう。僕は君になった。
喉から溢れそうになった言葉は、吐息となって儚く消えた。私はもうその現実を受けとめて久しい。
「白哉くん、空がとても綺麗だよ」
「そうみたいね。眩しさで分かるわ」
いずれ白哉次郎の魂は、小宮山透子の体と一つになり消えていく。交換実験は、魂より体のほうが優位であるという発見を残して。
「小宮山さん。病院の外まで行きたいわ」
私は薄れていく「僕」の意識を上書きし、せがむように我がままを言った。
「体調次第だけど、まあいっか」
にこりともしない様子の彼に車いすを押された。私は車輪から伝わる振動を感じとりながら、まるで自分が草原のうえに立っているかのような錯覚に陥る。
やがて日差しが遮られたことで、大きな樹の下にたどり着いたことを知る。そこは私のお気に入りの場所だ。吹き抜ける風がやさしく頬を撫で、清々しさが心を包み込む場所。
私はあと何年生きられるのだろう。そしてあと何年、白哉次郎だった記憶を失わずにいられるだろう。それらが尽きたとき、私は何者になるのだろう。
「お腹が空いたわ。お昼ご飯は何かしら?」
「君の好きな卵焼きとハンバーグを持ってきたよ。お弁当に詰めてね」
その答えを聞き、私はなんて愛されているんだろうと、胸の高鳴りを抑えた。
【0・071pt】
私はいま、孤独ではない。最期の瞬間まで人間として生きていく。