口づけ
3.
紅谷が僕たちに送った実験予定表。そこに記されたイベントは二人の感情を高め、あわよくば共感の発現に到らせるためのものだが、どんな基準で選ばれたのか翌日明らかになった。
それはエモさというものだ。
「お前たちにはエモい体験をして貰うのさ。感情を揺さぶるような体験。エモいって言葉を考えだしたのは旧人類だが、やつらはまあ、こういう発想だけは豊かだったんだろうな」
紅谷はとってつけたような説明をしながらバーベキューコンロをセットしている。僕はこの日、ハムレット役の通し稽古をとにかくやり終え、個別練習の合間を縫ってクラスから抜け出してきた。
「そうなるとこのバーベキューはエモい催しなんですね……」
役の台詞はおろか芝居の振りを完璧に叩き込んだ僕は、防寒対策をしながら寒風吹きすさぶ草原において肉を焼くことの意義を根本から疑ってかかる。
「感情を高めるのが目的なら、べつのやり方もあるように思えますけど」
僕の首には、昨晩仕上げた編みたてのマフラーが巻かれている。元々自分用に編んだものだから、小宮山さんの体には少し派手に見えた。むろんそうしたお洒落に類することは、紅谷の視界には全く入らないようだ。
「べつのやり方って言うけどな、交換の難しいところは感情を高め過ぎてもいけない点にあるのさ。例えばお前、バーベキューの代わりは何が適当だと思う?」
「そうですね、セックスとか」
何の考えもなしに僕は思いつきを口にする。
「馬鹿野郎。最初にレクチャーしたじゃねぇか。セックスは厳禁なのよ、厳禁。お前たちがめざすべき場所は相手の心の働きをじわじわ感じることにあんの。一足飛びの快楽じゃねぇの」
バーベキューセットに炭を起こしつつ、同時に会話を繋ぐ器用な紅谷である。僕はなお食い下がりたい場面でもあったが、実際言葉に表したのはここまで我関せずの小宮山さんだった。
「でも先生、逆にいえばセックス以外なら良いってことよね?」
僕と紅谷が準備に精を出す傍ら、デッキチェアに横たわり彼女は文庫本を読んでいる。僕に貸してくれた『ハムレット』もそうだが、彼女は紙の本がお気に召すようだ。
「まあ、キスくらいならむしろ効果的かもしれんな」
紅谷が起こした火に僕は団扇で風を送り込む。ようやく準備が整った矢先、小宮山さんがクーラーボックスを開け、ラップをした容器と皿を僕に手渡してくる。それはすでに下処理を終えている肉と野菜たちであった。
「そういえばお前ら、あれからサイコパス適性値は変化なしか?」
ひと仕事片づけたとばかりに、紅谷が煙草を取り出し火をつけた。僕が鉄板の上に具材を並べはじめたので、小宮山さんが僕たちを代表して言う。
「若干の低下が見られたけど、まだ微小だわ。期限が七日間であることを考慮すると攻めに転じても良い気はするのだけど」
「ほう。攻めって何だい?」
「性交渉」
「馬鹿野郎。お前もエロいことしたがるのか。だめって言ってるだろうが」
紅谷は吸い殻を携帯灰皿に突っ込み、何度も「馬鹿野郎」をくり返す。そのやけに慣れた雰囲気は、彼が過去に何度か交換実験を見届けたのではないかという疑問を唐突に抱かせる。
「先生は僕たち以外にも実験を取り仕切ったことあるんですか?」
興味本位から、僕はそれを口に出していた。
「あるに決まってるだろうが。セックス禁止もそれらの積み重ねの結果として定められたのさ。清く正しくが目的じゃねぇの。第一お前らは罪人だろ、罪人」
飄々とした口調のわりにシビアな部分へ踏み込んできた。もっとも紅谷の軽薄さからすれば違和感を持つべき場面ではない。こうした無神経さも含めて彼らしいと言える。
だがそのおかげで僕は、小宮山さんの罪という個人的興味を再び想起した。
「先生、小宮山さんはどんな罪を?」
会話の流れに乗っかり、さも自然なふうを装って訊く。
「それはおいちゃんの口からは言えねぇな」
はたせるかな、残念な答えが返ってきた。そして紅谷はその台詞を合図に背伸びをし、「あとはよろしくやれよ」と言い残して、実験施設のほうへ歩み去ってしまった。
「君もお肉が焼けるまでリラックスすれば?」
紅谷の背中から視線を戻し、小宮山さんがもう一台のデッキチェアを指差す。
「焼きの真っ最中なんだから手伝ってよ」
僕が懇願すると、彼女はチェアの上に本を置き、炭火の明かりに吸い寄せられた。「暖かいわ」と短く言い、両手を鉄板の上にかざす。どちらにしろ、手伝う気はないらしい。
十分後。最初に載せた具材がいい案配に焼きあがった。
「この材料を揃えたのはだれなんだろうね?」
何気なく僕が言うと、小宮山さんは肉をつまみながら三白眼で見あげてきた。
「私と食堂のおばさんがやったわ。君の好きな食材をこっそり忍ばせてある」
「なるほど。だから椎茸」
野菜は色とりどりだが、中でも椎茸の比率が高かった。これは小宮山さんの配慮だったわけだ。
「僕に焼かせる一方で、鬼畜の所業だと思ってたけど、裏で仕事してたんだね」
昨日のお弁当と同じく、僕の好みを踏まえてくる。僕はまだ小宮山さんの体から、彼女独自の感じ方を見いだせない。どうやら交換の進度に差がついてきたようだ。
「小宮山さんはそろそろ僕に共感を抱いてきた?」
「どうかしら」
さりげなく訊いたが、彼女はバーベキューを楽しむことに没頭している。単純に空腹なのかもしれないけど、それ以上の感情が見えてこない。むしろ我先に肉を頬張る小宮山さんを注意し、自重を説きたくなってきた。しかし、一度定まった上下関係が邪魔をする。
僕は肉の奪い合いを棚上げにして、彼女との関係を変えたく思った。黙々と具材を焼きながら、いつの間にか衝動が形をなしてくる。
トングを手に、僕は小宮山さんをじっと見下ろす。しばらくしていると彼女と目が合った。一般に〈超人〉は極力視線を外しながら会話をする。目と目がぶつかるとトラブルの原因となるからだ。
なのに小宮山さんはそれを避けない。僕は彼女の流儀に合わせ、目で気持ちを訴える。
「どうしたの? 私の顔に何かついてるのかしら」
先に根負けしたのは小宮山さんだった。こんがり焼けた肉へと目を向け、僕の視線から逃げたのである。それはとても意外なことに映った。
「君がハムレット役を無事こなせてるのは良い傾向ね。たぶん、共感に近づくのは私より君のほうが早いと思うわ」
相変わらず僕の感情はフラットだけど、小宮山さんが話題を逸らしたことは理解した。〈超人〉は相手の感情に寄り添えない代わり、駆け引きにおける強弱は敏感に察知する。僕は彼女と張り合い、自分の陣地へ引きずり込もうとした。
「さっき紅谷は『キスくらいならむしろ効果的』って言ってたよね。僕たちの感情を高めるために実践してみない?」
そういう身体的接触こそがもっともエモいことなんだと思う。僕は平然とつけ加え、彼女の反応を待った。
共感をたぐり寄せる手段として性交渉を挙げたくらいだ、俄然乗り気になる小宮山さんの姿もありありと想像できた。肝心の結果は、彼女の返事で明確になった。
「性交渉ならともかく、キスは恥ずかしすぎるわ」
震えるような声、という表現がぴったりはまるほど小宮山さんの反応は弱々しく、一般常識からもかけ離れていた。
「キスのほうが簡単に思えるけど?」
「顔が間近で見られるぶん、何倍も恥ずかしいわよ。感情を高めるためとはいえ、できることとできないことがあるの」
「キスは無理ってこと?」
「そうよ。無茶ぶりにもほどがあるわ」
小宮山さんは今や、バーベキューコンロに隠れるほど縮こまり、僕の視界から消えている。まさかこんな反応が返ってくるとは。僕は共感実験の目的とはべつに、彼女より優位に立つことをめざしてさらに追い打ちをかける。
「小宮山さん。今食べてる肉は何の肉だろうね?」
「そんなこと知らないわ。食堂のおばさんに用意して貰ったものだから」
どうでもよさそうな質問にも、彼女は引き気味だ。僕はそれを見て嗜虐心を全開にする。
「豚のわりには赤みが強くて、牛肉にしては独特の香りがない。この島にいるシカの肉かもしれないけど、猟をする人はだれもいないはずだ。そうなるとこの肉は何の肉なんだろう?」
想像力を一つの場所に追い込むと、人は自由な発想を奪われる。そういう心の働きは、僕たち〈超人〉であっても変わらない。
ちらりと見える小宮山さんの表情は、気づけばすっかり青ざめていた。僕は彼女を苦しめていることに後ろめたさを感じず、だめ押しのひと言を口にした。
「僕は人殺しだったけど、同時にヒトの肉を食べたこともあるんだ。今しがた食した肉はそれに酷似してたよ」
存在しない嘘をつくと、背中をくの字に折った小宮山さんが、地面に倒れ込んで嘔吐をはじめる。
「あははは、冗談だよ。君がキスを拒むから意地悪がしたくなった」
僕は小宮山さんの体、つまり本来僕のものである体を抱き締め、ナプキンで吐瀉物を拭ってあげた。そして汚れた唇をきれいにすべく舌で念入りに舐めとる。念願の身体的接触だ。
「適性値はどのくらい変化した?」
【65・927pt】
放心した小宮山さんの絞り出した数値は、依然わずかな低下を示すのみだった。それにたいし僕の数値はといえば、
【52・418pt】
端末上に初めて顕著な急落が示された。その変動の意味を想像した瞬間、僕は唐突に罪悪感に襲われ、なぜかはっきりと後悔を覚える。
結果的に自分の適性値を僕は小宮山さんに偽って伝えた。
***
僕たち〈超人〉は他人と同じ気持ちになることができないからこそ、ともすれば弱い人を死に追いやるほど過酷な振る舞いに出られる。旧人類はそれをパワハラと呼び、〈超人〉から独立した国家を建設する理由付けの一つとなった。
あくる日の朝、僕は昨日の顛末を思い出しながら、小宮山さんに嫌がらせをしたことを悔いていた。僕がクラス活動を含めた対人関係に及び腰なのは人が怖いからではない。接触を深めると僕は相手を傷つけてしまうのだ。僕はトラブルが嫌いだから、必然的に他人と距離をとってきた。
もっとも小宮山さんも、一方的にやられるのを良しとせず、「次にああいうことをしたら実験辞めるから」と警告してきた。けれどその挙句実験を継続する辺り、簡単に引き下がれないほど多くの期待が実験それ自体にあると読みとれる。
いずれにしろ、僕は一旦定まった上下関係を自分優位な状態へ戻せたことで、本来勝ち誇って良い立場だった。なのに適性値はそれとは真逆のことを伝えてくる。
【42・875pt】
一晩かけて僕の数値は緩やかに低下し続けた。理由は二つ考えられる。僕の感情が激しく揺さぶられた結果か。あるいは小宮山さん本来の情動が繊細なものだったせいか。肝心の答えは出ないまま、数値の下落は今も止まることはない。
***
交換をはじめて以来、僕と小宮山さんは食事を共に摂ることを強制されている。それは互いの間にすきま風が吹いても義務として存在し、翌日の朝も僕たちは食堂で落ち合った。
「昨日はちょっとやり過ぎた。ごめん」
出会い頭に謝罪をすると、彼女は目を丸くして驚いた。
「君らしくないわね。いったい何があったというの?」
その疑問に僕は答えられない。実験を辞めるという台詞がはったりであると看破した今、逆転した優位性を確かにすべく傲慢な態度に出て良いはずだった。
「ひょっとして適性値が下がったの?」
反応を躊躇っていると、彼女が正解を口にした。それでも僕は首肯できない。適性値が低下したことで生じた部分は「正直になれ」と命じてくるが、元々の僕らしい部分は変化を拒んでいたからだ。
「数値はずっと同じだよ。僕は人の嘔吐を見るのが苦手なんだ。そのせいで反省したくなった」
僕の口から「反省」なる言葉が出た。これはもう異常事態だ。共感へ近づくとしたら小宮山さんのほうだという思いがあったのに、現実はそれを裏切っていく。
「実験には不適応があるのよ。もし体調が悪いなら我慢せず申告しなさい」
トレイに載せたどんぶりを持ちあげ、彼女は牛丼を行儀よく食べる。そこだけに着目すれば、小宮山さんは僕より遥かに正常だ。しかしこのとき僕は、彼女の顔色が昨日からずっとすぐれないことに気づいていた。それを変化と呼ぶなら、僕たちは共に不安定な状態にある。
「君のほうこそ変化はないの?」
適性値を確かめるようなことを言うと、彼女は咀嚼を終え、水を飲んでから答える。
【65・216pt】
その数字はバーベキューのときに聞いた値とほぼ変わらない。一昨日の僕なら、そこに何ら疑念を持つことはなかっただろう。けれど、すでに適性値の変化を目の当たりにした状況下で、自己申告の数値を鵜呑みにするほど僕は能天気ではない。答えは恐らく一つだ。僕がそうであるように、彼女もまた嘘をついている。
思えば彼女は、交換の動機も虚偽の匂いを漂わせていた。直接聞き出せないなら、紅谷から情報を得るべきかもしれない。
僕はどんぶりをトレイに載せたまま、熱々のうどんを箸で器用にたぐった。黙々と食事を摂る音を奏でる以外、僕たちは無音だった。そんな静まり返ったテーブルに突然異音が混ざり込んできた。
「白哉。俺はお前を許せない」
危うさを含んだ声に見上げると、そこには学級委員の堀田くんがいた。スパゲティを載せたトレイを置きながら、僕のことを刺すように見つめている。
彼はそのまま小宮山さんの隣に座り、なおも僕を睨んでくる。
「お前は小宮山さんのパートナーにふさわしくない。紅谷先生に言って実験を中止しろ」
怒りに駆られた〈超人〉は一方的な会話を平気で行う。物には順序があると旧人類は考えたようだが、僕たちはそれをすっ飛ばし、自分の意志を強硬に押しつけるのだ。
「君が腹を立てた理由が全く理解できないんだけど」
うどんをたぐるのを止め、堀田くんを直視する。
【38・261pt】
適性値が瞬く間に急落する。普段なら感じない武者震いを引き起こし、喉の渇きを覚えた。
「昨日、クラスメイトが見たんだ。お前が小宮山さんに無理やりキスをしたところを」
堀田くんは食事に手をつけない。代わりにあごをしゃくり、僕に行動を促した。今すぐここから居なくなれというメッセージであることは明白に思える。
「噂はすでに広まっている。ろくでもないやつだと分かってはいたが、お前には失望したよ。やはり適性値に異常を抱えていると自制心を無くすんだな。〈超人〉の風上にも置けない」
いずれこういうことが起きると思っていたと言い添え、堀田くんは露骨に手を振った。なぜか僕の適性値を知っている口ぶりだが、この場から退散しない限り納得しない様子である。
堀田くんを突き動かしたものを、僕は薄々理解できた。彼は小宮山さんに好意を寄せており、彼女を汚す真似をした僕を糾弾しているのだろう。
なかなか男らしい振る舞いではあるけど、あえて小宮山さんのいるときを見計らった辺り、下心が見え透いている。そこまでして彼女に好かれたいのだろうか。
視線を移すと、小宮山さんは相変わらず血色の悪い顔で牛丼をかき込むのをやめている。
本来なら彼女の思惑など無視して争いに全神経を集中すべき場面。けれど僕は彼女の心境を蔑ろにしてこの場は収まらないと感じた。
「堀田くんはこう言ってるけど実験を辞めたい?」
「いいえ。続けるわ」
「馬鹿なことを言うな!」
小宮山さんの返事を聞き、堀田くんが机を叩いた。もうすでに、自分の思いどおりにならないと済まない〈超人〉の悪い部分が見えている。
ここで彼が立ち去ってくれたら、火種は忽ち消えただろう。だが彼の執着心は僕が予想したよりも遥かに強いものであったらしい。
「白哉の適性値は学園で一番高いんだぞ。そんなやつに巻き込まれた君のことが心配だ」
堀田くんはついに、小宮山さん本人を懐柔する手段に出た。
僕はあくまで状況を高みから見下ろせばよかったはずだ。にもかかわらず、低下したサイコパシーは焦りの感情を生み、事態を静観する余裕を僕から奪った。
小宮山さんに一方通行な熱情を向けた堀田くん。その見苦しさに鉄槌を下すべく、僕はテーブルを跨いで彼の上に馬乗りになる。
「何の真似だ!」
慌てて抵抗を見せるが、僕の動作は反撃の余地がないほど素早い。堀田くんのトレイに載っていたスパゲティ用のフォークを手にして彼の眼球に突き立てる。正確には、突き立てようとした。
「ひいっ!?」
危うく片目を失うところだった彼は、僕の体重と迫力に負け、椅子ごと床に叩きつけられる。不毛な喧嘩を買った以上、白黒つけてやってもよかったが、なぜか衝動は収まった。
【30・052pt】
端末に映じられた適性値は一度に10pt近く下落している。
「何なんだよ」
僕は頭を振りながらフォークを捨て、堀田くんの上から体をどけた。そして、後ろを振り返った。驚くことに小宮山さんがうつ伏せになっている姿が目に入った。
「どうしたの?」
僕が訊いても、彼女は声ひとつ立てない。僕と堀田くんが醜く争ったせいで、幻滅したのではないかと最初は思った。しかしトラブルを起こしたことを詫びながら、何度揺すっても反応がない。僕はしばらくして、彼女の青ざめた顔を克明に思い出した。
「小宮山さん、具合が悪いの?」
重たい男性の体を抱き起こすと、彼女は両目を閉じ、鼻から血を流していた。