ハムレット
2.
殺人の様子を溢れ返るほど記した手帳を、僕は肌身離さず所持している。底知れぬ悪意が湧きあがりそうになるたび、何度も見返しては邪な気持ちを鎮めるためだ。
十一月三日
県内にある繁華街で、岩瀬瑞希という女と待ち合わせをする。
年齢は十八。僕と同い年だ。
彼女とはネットを通じて知り合った。サイコパス適性値を教えると僕に興味を持ったようで、一度会ってみたいと持ちかけたところ、話はあっという間にまとまった。
当日。ワンピースにカジュアルなジャケットをはおった彼女はとてもお洒落に見える。
彼女は本物の僕を見るなり「想像より若いね」と言ったが、それ以上詮索せず、郊外の心霊スポットへ二人で出かけることにした。
〈超人〉はスリルを好むため、僕はこの手法ですでに五人の女を殺していた。交通手段には自動車を使い、市の境を三つ乗り越えた後、最後は徒歩で目的地に着く。
そこは閉鎖され、廃屋となったラブホテル。
入口を閉ざした鎖を持参した器具で切断し、僕たちは建物の内部へ易々と侵入することができた。まだ昼間だというのに屋内は薄暗く、屋根の破れめから雨水が洩れている。
さすがに不気味さを感じたのか、彼女は僕の体にしがみつく。次第に興奮を隠せなくなるが、そのたびに心拍数が低下し、いくつもの部屋を物色した結果、破損の少ないベッドを見つける。
そして彼女が背中を見せた隙を逃さず、持参したハンマーを後頭部めがけて振り下ろす。
何度もくり返すと、彼女はベッドに倒れ、動かなくなった。割れたクルミのような頭蓋骨を見下ろした僕は、胸騒ぎに心踊らせながら、夥しい鮮血を目に焼きつける。
………
「そのとき撮った写真をプリントしたのがこれ」
殺人の様子を綴った手帳を読みあげた僕は、同じ手帳に挟んだ写真を小宮山さんに手渡した。
ゆっくり一瞥し、彼女は少しだけ眉をひそめたが、動揺したそぶりはなく、実に落ち着いている。「なぜ殺したの?」といった疑問も発しない。殺戮衝動を制御し損ねたに過ぎないと豊富な知識によって理解している顔だ。
「どうやら嘘ではないようね」
突き返された写真を受け取り、僕は肩をすくめた。彼女はそれに追い打ちをかけるように言った。
「いったい何人殺したの?」
「数えきれないくらい」
「ふうん。実験のリスクと釣り合うだけの理由ね。君の本気が知れて嬉しく思うわ」
小宮山さんの発言に僕は頷き返す。
たった七日間の実験に付き合えば極刑が減じるのだ。僕が無頓着なだけで交換は決して安全性が確立された手術ではない。
同意書にサインする際、担当する医師から開示を受けた。交換には体と魂の不適応がありえること。それは本来、適性値が変動すべきときに突然数値が反転することを指す。その度合いにより、僕たちは元に戻れないかもしれない。最悪の場合、魂が消滅する恐れがあると言われた。
僕はそれらのリスクを織り込み、罪を減じる可能性に賭けている。
だとすれば、彼女はいったい何を賭けたのだろう?
「さあ、約束どおり、小宮山さんの罪を教えてよ」
すでに述べたとおり、交換のリスクは小さくない。いくら〈超人〉が精神的にタフだからといえど命を張った代償は相当なものであるはずだ。
僕は倫理にもとる興味をかき立てられ、胸を高鳴らせていた。しかしそうした期待は呆気なく裏切られる。
「君のような人と一緒にしないでくれる? 犯した罪なんてないわ。私はさっきも言ったけど純粋な動機でこの実験に参加したの」
首を小さく傾げた小宮山さんは、僕のことを穴が空くほど見つめる。このとき特に根拠はないけど、彼女が嘘をついていると感じた。
それを直接口に出すと、小宮山さんは婉然とした所作でトレイに載った乳酸菌飲料を取りあげた。
「もしそうだとして君は実験を辞められない」
傲慢な態度で言い、容器の蓋を開け、小さな吸い口に唇をつける。
僕は反論もできず、屈辱的な敗北感をあじわった。この実験における上下関係が否応なく決まってしまった感覚。世界の歯車が欠けるような音を聴き、僕は静かに瞼を閉じた。
***
今さら悔しがっても遅いが、警戒心を三ランク以上あげておくべきだった。彼女に主導権を握られたかもしれないという予感はすぐに実証された。
「君との交換は私がリードするから」
一方的に言った小宮山さんとともに、僕はクラスに顔を出した。すでに担任の紅谷が控えており、情報は隈無く行き渡っていた。
彼女はそれを補足するように僕たちが置かれた状況を穏やかな声で告げる。
「みんなにご報告しておくわ。昨日白哉くんと交換して二人の体は入れ替わったの。私は彼の体となってしばらく過ごすけど、引き続き学級委員、及び学園祭実行委員として責務を尽くすからこの体を私だと思ってこれまでどおり接してください」
クラスメイトたちは、小宮山さんの予期せぬ発言に慌てまくると思いきや、きわめて冷静な態度を貫いた。それでも一部には、不満を抱く生徒がいることは確実に思えた。
僕は小宮山さんと一緒に壇上に立っていたから、その様子が手にとるように分かる。彼らの不満の原因は恐らく、クラスの中心人物たる小宮山透子と交換した生徒が、他ならぬ劣等生の僕である点にあっただろう。裏を返すとそのくらい僕はこのクラスに溶け込んでいない。
ゆえに彼女はそうした僕の立場を慮り、不満をやわらげる手段を講じていたのだと思う。
「白哉くんは決してクラスの活動に熱心ではなく、むしろ怠慢をくり返す問題児だった。私が彼の体と交換したことで『劣等生に命令されたくない』と感じる人が出てもおかしくない。なのでそうしたありうべき声にたいし、対応策を考えてきたわ」
僕の顔と声を持った小宮山さんが、クラス全体をぐるりと見渡す。僕は女子の体になった姿を公にさらしたことへの羞恥心を全く感じず、彼女の発言の先を慎重に追った。
「七日後に迫った学園祭で、我がクラスは『ハムレット』の演劇を披露することになっている。急な変更で申し訳ないけど、私は白哉くんにハムレット役を演じて貰いたいと思うの」
一瞬、聞き違いかと耳を疑った。けれど小宮山さんは持ち前の大胆さを赤裸々に示した。
「みんなもご承知のとおり、交換実験は共感の発現を目的にしている。私は白哉くんに大役を任せることによって心の殻を破り、共感へと近づいて貰いたいの。幸い白哉くんからの同意は得ているわ。あとはみんなが承認するだけ」
際どい発言をコンボで叩き込み、小宮山さんはひと息ついた。僕はあやうく「聞いてない」と言い出すところだったが、彼女の視線を頬に感じとり、無駄な抵抗を諦める。大人しく実験を続け、無事共感性を獲得するか、七日間経つのを待つかしないと僕は減刑を得られない。
「堀田くん。了承して貰えるかしら?」
小宮山さんが標的にしたのは、男子の学級委員でもあり、今回のハムレット役を演じる生徒だった。
僕はこのときようやく、交換当日に小宮山さんから『ハムレット』を読んでおけと言われた理由が腑に落ちる。あれは伏線で、全ては筋書きどおりだったのだ。
かくして堀田くんと呼ばれた生徒は首肯するどころか怒りをあらわにした。
「いくら小宮山さんの頼みでも納得できない。白哉は役者にも裏方にも参加せず、クラスで一人だけ不参加を決め込んだやつだぞ。そんなやつに主役は任せられない」
しかしこれまでの実績と、先ほど知った高いサイコパシーを勘案するなら、その程度の抵抗で小宮山さんが屈するとは思えなかった。
「大丈夫。白哉くんは記憶力がいいから台詞は一日で覚え込むわ。みんな彼のことを知らなさすぎ」
しまった、コンボがもう一つ残っていた。僕はさすがに閉口する。
「無理だね。白哉なんかにそんな真似ができるわけがない」
堀田くんはなおも食い下がる。だが彼の不用意なひと言は僕の闘志に火をつけた。
「なんかとは何だ。僕は本気を出せば台詞の丸暗記くらい楽勝だぞ」
反射的に声をあげていた。しかも自画自賛したくなるほど凛々しい声でだ。普段、僕のしゃべりを耳にする機会のないクラスメイトは明らかに態度を変えた。小宮山さんのごり押しに見えた推薦が、もしかすると正解かもしれないと風向きが変わったのだ。
「分かった。真偽のほどは後で確かめよう。明日までに台詞を全部叩き込んで来い。もしそれができたなら、ハムレットの役はお前にくれてやる。ただしできなかったときは土下座して謝れ」
堀田くんはこのクラスで小宮山さんに次ぐ実力者らしく、傲慢な言い回しで挑発をしてきた。僕はこのとき、彼を屈服させる意志を漲らせていたが、僕たち〈超人〉は窮地に追いつめられるほど心に余裕ができ、思考がクリアになる。だから逆上することなく、淡々と申し出を受けた。
「僕を見くびったことを後悔させてやる」
恐るべし小宮山透子。気づけば僕は彼女に容易く操られていた。
***
ハムレット役を押しつけるなら、事前に根回しをして欲しかったけど、そんな他人本意な考え方を〈超人〉はとらない。
小宮山さんがクラスメイトを掌握する方法を目の当たりにした僕は、結局睡眠時間を削って芝居の台詞を覚え込むはめになった。
そのうえ翌日はさっそく通し稽古だ。睡眠一時間の体に負担は軽くなかったけど、集中力を最大にすることで何とか乗り切った。僕が自分のサイコパシーを用いたのは、警察に逮捕されるまでの逃走劇以来のこと。裏を返せばそれくらい、今回のハムレット役は重荷であった。
しかもこの日の僕にはもう一つ面倒事が用意されている。それは交換実験を取り仕切る紅谷が、僕と小宮山さんの感情を高めるべく命じたある課題だ。
「よう、ハムレット。ご苦労さん。『生か、死か、それが問題だ』。いいねぇあの台詞。最初にしちゃ随分と様になってたぜ」
予定表の指示どおり屋上に向かうと、そこには紅谷が待ち構えていた。クラスの演劇を仕切るのは小宮山さんだが、一応担任として進捗を確かめていたようだ。
「無茶ぶりされたのもそうですけど、授業時間削ってまで学園祭に備える意味が分からないですよ」
紅谷が腰をおろしたベンチの横に座り込み、僕は不満を口にした。すると紅谷は唇を尖らし、口笛を吹くように言い訳をはじめた。
「この実験施設を造ったお偉いさんへのアピールに決まってるだろうが。被検体のマッチングを探りながら、計画が恙無く進んでることを直に知って貰う機会なのさ」
僕たち学園生を管理するのは教師だが、彼らの上には計画を取り仕切る責任者が存在するわけで、そこに考えを及ぼすと不快な感情が確かに湧いてくる。
とはいえ目下のところ、真の問題は小宮山さんだ。僕の首根っこを掴まえ、ハムレットという大役を押しつけた迷惑にして鬼畜な女。一旦定まった上下関係をどう覆してやろうか考えだしたとき、
「ところで白哉次郎。お前弁当は持ってきたんだろうな?」
紅谷はニタニタ笑いながら、僕の顔を覗き込む。
「持ってきましたよ。おかげで一時間しか眠れなかった」
そう、僕は小宮山さんのために昼食のお弁当を作ってきた。ただでさえ眠たい早朝に起きだして、必死にこしらえたのである。
「へぇ、見てくれはまともじゃん」
巾着袋に包まれた弁当箱を見て、紅谷が馬鹿にしたような口調で言った。僕は苛立ちついでに彼に嫌みを言ってやりたくなったが、その行動は直前で阻まれた。屋上の扉が開き、小宮山さんが入ってきたからだ。
「おっと、小宮山透子が来たぜ。おいちゃんは退散すっかな」
彼女と入れ違いに、僕たちの担任教師はそそくさと屋上から居なくなった。
「お弁当、ちゃんと作ってきたのね。君ならサボりかねないと思ってたのに」
隣のベンチに着席して、彼女は鞄から丁寧に包まれた物体を取り出す。それが何であるかは今さら問うまでもあるまい。
僕たちは紅谷がくれた予定表に従い、互いの弁当箱を交換する。それは清浄で厳かな儀式のようなものを感じさせた。
「あ、卵焼きがある。それにハンバーグも」
蓋を開けた瞬間、僕は歓喜にも似た声をうっかり洩らした。
「君の好物だけを詰めたわ」
小宮山さんはそう言って僕の作った弁当箱を開け、僕の反応とは対照的な声を出す。
「予想どおり、卵焼きとハンバーグが入ってるのね」
落胆したというほど大げさな物言いではなかったけど、普段に輪をかけて冷淡に見えた。その理由を捉え損なう僕にたいし、彼女は聖人のような佇まいで言った。
「紅谷先生は黙ってたけど、このお弁当作りは交換実験の一環なのよ。私たち〈超人〉は相手のことを思いやるのが苦手。お弁当一つとっても、相手の喜ぶものではなく、自分が美味しいと思うものを入れてしまう。それを先読みしたから、私は君の好物を選んだのよ」
澱みない説明をくれる小宮山さんは、「いただきます」と言ってから卵焼きを箸でつついた。
「でも、僕の好きなものがどうして分かったの?」
「君は好きな物を最後にとっておくでしょ。何となく直感でそう感じ、めざすべき献立のイメージが自然に湧いたわ」
手術前、紅谷が言っていた。交換してもなお体には、その人本来のクセのようなものが残るのだと。だから僕は思っていた。ハムレットの台詞を丸暗記できたのは、僕自身の能力や努力にくわえ、小宮山透子という優等生の持つ抜群の記憶力が後押しした結果だと。
そして同じ理屈でもって、彼女は僕の好みを当てたのだと思えた。もしそうだとすれば、僕たちは知らず知らずのうちに共感へ近づいている。
「ねぇ、小宮山さん。今のサイコパス適性値は何ポイント?」
冷めても美味しいハンバーグを咀嚼しながら、僕は視線を向ける。
「君の数値も教えて。ハムレットの台詞を覚えられたのは私の影響もあると思うの。どの程度変化したか気になるわ」
はからずも同じ結論に到っていたわけか。僕は小さく息を吐き、端末に表示された数値を読みあげた。
【70・249pt】
【69・137pt】
どちらともなく口に出した数値は、ほんのわずかだが低下が見られた。
「結構高いんだね?」
僕は小宮山さんの適性値を初めて知ったふうに言ったけど、彼女は動じず冷めた返事をよこした。
「あまり変動はないわ。変わっていくとしたらこれからよ。紅谷先生も言ってた。魂が体に定着していくにつれ、相手の気持ちの感じ方に同調できるようになる。私たちは他人の痛みや喜びを自分のことのように感じることができないけど、私は君の、君は私の感じ方を体の交換で模倣しはじめる。そうして得た体験は、サイコパス適性値の低下としてきっと現れるわ。私たちは〈超人〉を凌駕するさらに進歩した存在になるの」
小宮山さんの高尚な意気込みを聞くのは何度めだろう。僕はそこに嘘が紛れていると直感したけど、それは彼女の使命感に全く共感できないことが原因でもある。まだ交換二日め。あと五日経つあいだに顕著な変化は訪れるのだろうか。
「そういえば君は、堀田くんを見返してやったわりに彼に恥をかかすような真似をしなかったわね。その自制心はどこから来たの?」
弁当をすっかり食べ終え、乳酸菌飲料に手を伸ばした小宮山さんが僕の行動に疑問を呈する。
「堀田くんに吠え面をかかせて満足した」
つまらなそうに答えたのは、それが僕にとってすでに決着した問題だからだ。
「君は殺人犯なのでしょ。もっと人で無しかと思ってたわ」
「小宮山さんの善意が僕を穏やかにしたのかもしれない」
「なにそれ。魂の定着が進んでいけば、君の抱えた悪意も消えてなくなるのかしら」
「僕は早く七日間が過ぎて欲しい」
小宮山さんの焼いた卵焼きを最後に食べ終え、僕はお弁当の蓋を閉じた。午後からは二回めの通し稽古。他人と熱っぽく絡み合う煩わしい時間が待っている。
「こんなに頑張ってるんだから、共感の一つや二つ、発現して貰わないと釣り合わないね」
僕が嫌みっぽく言い放つと、彼女は「大丈夫。きっと成果が出るわ」と力強い声で請け合った。