退魔士・綾香
月明かりが窓から差し込む。
暗かった教室内が明るくなり、目の前にいるものがはっきりと見えるようになる。
教室に常識では考えられないものがいた。
獣だ。一見すれば大型犬。
実際は約二メートルはあろう大きい獣である。
獣と対峙する綺堂綾香は相手の存在感に高貴なものを感じた。
獣はただ静かに綾香を見下ろす。
月明かりに照らされたダークブルーの毛並は気高い雰囲気を漂せていた。
「人間の娘よ。我に何のようだ?」
獣は人語で綾香に話しかける。
人間の娘と呼ばれた綾香は獣に対して驚くこともなく当然のように答えた。
「ここ最近、南境町周辺で霊力の強い人が何者かに襲われる事件が立て続けに起きてるの。
わたしはその犯人を追っているわ」
澄んだ声が教室内に響く。
安心感を与えるようなそんな雰囲気を与える感じだったが、獣には関係のない事だ。
月明かりが綾香の顔を照らし、陰になっていた素顔が月明かりで明らかになる。
優しそうな瞳に、高い鼻、唇は厚過ぎず丁度良く瑞々しい。
わずかに幼い雰囲気が残すが、美人の部類に入るだろう。
腰まで届く黒髪のロングヘアー、白いブラウスに水色のストールを羽織り、黒いロングスカートという到底、獣と対峙するような格好ではなかった。
「ふむ。それが我だと言いたいわけだな」
「違うならいいんだけど、どうなの?」
獣は綾香の問いに鼻で笑うと、何かを唱え出した。
すると空気が一瞬凍りついたようになるが次の瞬間、周りは特に何も変化はない。
「これは結界!?」
一瞬の変化に何が起きたのか、綾香は理解していた。
「空間分離結界だ。何、驚くことは無かろう?」
「どうして結界なんて張る必要があるの」
張られた結界は空間分離を行う結界。
結界には三種類のものがある。
一つは人払いの結界。
これは単純に人やその他の生物に対して、近づき難い雰囲気を出すものだ。
要は何となく嫌な雰囲気というもの。
大抵はこの結界で自分たち以外を近づけないようにすることが出来る。
ただし明確に結界と認識して意思を強くすれば入れてしまう。
次に認知障害結界。
この結界は人払いの結界と比べて人は近づくことは出来るが、名前の通り認知出来ないのである。
目の前で人がいるのに、見えているにも関わらずそこに人はいないというようになるのだ。
この結界になると霊力を感じる事の出来るものでないと認識出来ない。
認知障害結界は強いものになると霊力もある程度遮断することも可能であり、そうそう検知出来ない。
最後に空間分離結界。
これは空間そのものを指定範囲分離する。
言って見れば空間を複製して、その空間に相手を閉じ込めたり戦闘時に周りに被害を出さないために使用する。
高度な結界でもある。
綾香が狼狽えた理由は、目の前にいる獣が相当力のある霊獣であるのが分かったからだ。
獣は綾香の問いに答える。
「何。ちょっとした余興だと思えば良いのだ。我の仕業かどうか、己の力で確かめてみよ!」
獣は口を開くと、超高圧の水が綾香に襲い掛かる。
狼狽えることなく綾香は手をクロスさせると窓を突き破って外へと逃げた。
ガラスの割れる耳をつく音が辺りに響き渡った。
綾香がいた教室は三階だったが、まるでそんな恐怖を感じさせない。
月明かりに照らされ、黒いロングスカートを靡かせながら、まるで天女が降り立つように華麗に着地をする。
「ほう、この高さから綺麗に降り立つとは、お主なかなかの者だの」
「褒めてくれて、ありがとう」
相手の言葉に礼を述べつつ、緊張感を解かずに相手の出方を伺う。
獣も外に出てくると、迎え撃つ綾香に仕掛けた。
「次はどうかの? 風牙!」
鋭い風の牙だ。
牙と言うよりは、風の刃に近い。
「風も使えるのね!」
綾香は驚く暇もなく、風の刃を紙一重に避けていく。
とても人間業ではない。何故なら肉眼では見えないのだ。風術は。
風の刃を避けていくが、スカートが裂け、ストールも風の刃に引き裂かれた。
ブラウスの袖は所々、裂けて薄らと血が滲んでいる。
まさに紙一重、致命傷になるような風は全て避け切った。
「ほう。風をこうも紙一重に」
獣は相手の身のこなしに、感心した。
例え術を扱える人間であっても、体術だけで風をかわし切るのはほぼ不可能に近いからだ。
「今度はこちらの番よ。四精よ、汝らの力で我を守れ。四精陣!」
薄いガラスのようなものが綾香の周りを覆う。
結界型障壁の術、四精陣。
四精とは精霊を意味する。すなわち、四大元素の火、風、水、土だ。
四大元素の力すべてに適応させた障壁の中では上位障壁術。
普通はこれらの一元素だけでも十分なのだが、綾香はその四精霊のすべての要素を使用した。
「四精陣とは……。汝を少々見くびっておったわ」
「驚くのはまだ早いわよ。”全ての精霊たちよ……”」
闇が生まれた。
暗く、深く、そして何もない黒く絶望を生み出すような闇だ。
「まさか四精暗滅撃だと!」
獣は驚きと共に、人間でいえば笑みを浮かべるような喜びが湧いていた。
ここまで強力な術を行使する人間と出会ったのは久しぶりだったからだ。
獣も綾香と同系統の術の詠唱を始める。
「”全ての精霊たちよ。相括する力を持って無の力、円陣となしあらゆる者を守る盾となれ!” 四精暗滅障壁!」
「”相剋する力を持って彼の者を撃て!” 四精暗滅撃!」
綾香の詠唱と獣の詠唱が終わるのはほぼ同じだった。
綾香の闇は球となり辺りのものを吸い込みながら高速で獣を撃つ。
獣は生み出した闇で辺りを覆い、その全ての脅威を遮断する。
闇の球と闇の盾がぶつかり合うと、一瞬にしてその双方が消滅した。
この術は相反する力同士が消滅する力を使うものだ。
消滅境界に発生する力で全てのものを吸い込む、いわばマイクロブラックホール。
全てが消えて静寂が辺りを包む。
獣と綾香の間に緊張が支配したが、その空気を破ったのは獣の方だった。
「お主。なかなかやるな。
我が名は源次郎。人の名を貰いし人と共に道を歩む聖獣よ。
これでも三百年生きている」
人間で言えば微笑みを向けているような雰囲気を出す。
源次郎と名乗った、聖獣の言葉に綾香も緊張を解いた。
「聖獣様だったなんて。今日は失礼しました。
わたしの名前は綺堂綾香。退魔士綺堂家が長女です」
「ほう、あの綺堂家のか。道理であのような強力な術を行使出来るわけよの。
さて、お主の答えは分かったかの?」
「あなたではありませんね。疑ってごめんなさい」
綾香は素直に非を認めると頭を下げる。
ここで自分の非を認めないのは心根が弱い人間である証だ。
強い人間だけが非を認められる。
「何、気になどしていない。久しぶりに緊張感がある戦いが出来て楽しかったぞ」
「そう言って貰えると助かるわ」
「我はこれで去らせて貰うことにする。汝は不穏な輩では無かったからの」
源次郎と名乗った聖獣犬は大きな体で学校の敷地内から霧のように消えていった。
同時に空間分離結界が解除されるのを綾香は感じる。
「まさか聖獣だったなんてね。わたしもまだまだ修行が足りないみたいだわ。
でも、そうなると……また一から探さないとならないわね」
綾香は小さい溜息と共に空を見上げた。
月の光が空に浮かんでいるのを見て、少しだけ心が安らぐのを感じるのだった。