第159話「Get It By Your Hands」
「うん、風に油断はしていない様で、喜ぶべき事ですね」
「…………、風月先生には、ずいぶん余裕がおありの様ですね?」
「早水さん、フリをしているだけですよ。風だって懸命に生きています」
そう言い終えて、風月先生は、
左腕を真っ直ぐにあたしへと向けて伸ばした。
左手もそつなく五本の指を揃えて、
まるで何かをあたしに求める様に、手の平を夕空へと向けている。
お互いの間合いからすれば、その腕へ恐れを抱く距離には思えませんが、
先程の、柔らかい爆風を覚えれば、心が自然に身を構えさせる……。
それから――、
「貴女へ提案があります」
あたしはきょとん、
「ど……どの様なご提案でしょうか?」
「はい、風は、風自身のこの構えから、
これより一時間、一歩も動きません。
その間に、貴女が、風に一度でも触れられたら、
風は、図書館と貴女から預かっている、
本の続きについて、なんでもお答え致します」
あたしは一瞬カッとなる。
おじいちゃんの能力を、バカにされた気がして。
しかし、これは心理戦だと一度深呼吸をする。
「ふぅ…………はぁ、……あたしが、……先生に触れなければ?」
「はい、その時はひとつだけ、
どの様な質問へも、正直にお答え致します」
…………風月先生への謎は尽きません。
ですが、元々、風月先生はあたしに、
話したくなければ話さなくても、別にその必要はありません。
……それに、たったひとつで、あたしには充分な答えとなる質問がある。
今後の学園生活で、風月先生にお会いできるのならば、あたしに、
「……承知致しました」
損はないと断言できる提案です。
「それでは、貴女がその手に掴み取るものを見届けます」
………………
…………
……
先ず、風月先生へ触れる為には、
前進、間合いを詰めるしかありません。
そこで、一歩を踏み出します。
すると、風月先生は左手の平をくるりと裏に返されて、
――途端にあたしは後方へやんわりと転んだ――、
ぇっ!? な……んで?
芝生が柔らかいから良かったとはいえ、
コンクリートだったとしたら、お尻に痛みを感じたかもしれない……。
すぐに八百万倶楽部のご法度を思い出し、
あたしはきるくの「障壁」に頼ろうとする――が、
「いけません早水さん。障壁は展開しないでください」
風月先生から、すかさず制止のお声が掛かる。
「あたしは怪我をする訳にはいかないんですっ」
「風ももちろん解っています。
しかし、痛みがなければ、得るものもわずかです。
この結界と、貴女の能力があれば、
後は、落ち着いてさえもらえれば、
こちらからも、貴女に怪我を負わせる様な真似は致しません。
これよりの一時間は、
貴女に、受身の術理を学んでいただく為にあります。
風に触れるすべがなければ、
抗わず、自然にされるがままでお願い致します」
その……お言葉を信じて、承知の頷きを返してから、
………………
…………
……
あたしは、およそ五十分余りの間、
受身の会得の為に、フルドライヴのまま、
あらゆる形で投げ飛ばされ、吹き飛ばされた。
「ふぅっ――はぁっ、ふぅっ――はぁっ」
息はさすがに乱れてしまってる。
「うん、早水さんの能力は確かなものですね。
驚くべき程の吸収力を備えています。
貴女は、負ける事、人前で恥をさらす事を、
善しとできる人格の持ち主のようです。
貴女と出会えて、風は喜びを感じております」
受身の稽古をつけていただく内に、
フルドライヴのお陰で、
風月先生のお力のからくりも、少しずつみえてきました。
……おそらく風月先生は、
やはり“空気”を練り、行使していらっしゃる……。
まるで空気が無数の、風月先生ご自身のお体の様に……。
とはいえ、あたしは、まだ賭けを諦めてはいない。
これから残された時間が、正念場になる。
先ずは呼吸を整えて、重心を崩さない様に努める。
……フルドライヴ?……
……今日のあたしに蓄積した経験から……
……風月先生に通せる、一手の可能性を求める……
……捧華のオーバードライヴを必須条件として……
……幸福を用いれば……あるいはの可能性……
……それでも……確率は高くはない……
……おじいちゃん、有難う……承知しました……
……解った捧華……では自身に許可し……限界を突破せよ……
さぁ……、
次の言の葉を紡ぐ時……、
あたしの覚える世界は……、
一体、何を見せつけて来るのでしょうか……、
今はただ、恐れずに、静謐と共に……、
ゆこう、
「“オーバードライヴ”」
………………
…………
……
あたしの身体は一旦ガクンと痙攣を覚え、
それから、すぅっと軽やかに。
そして、視界が膨大に広がり、
瞬く間に、
周辺に存在するものへの、“気”の流れを覚えられる様になる。
風月先生がお使いになる“空気”に対する、
通り抜けられる確かな道筋も覚えられます。
へぇ……、こういう流れになっていて、そうか、うん、
風月先生は、文字通りあたしを試していらっしゃるんだ……、
まずこの流れを把握できなければ、風月先生には辿り着けない仕掛け、
そして意図的にそこまでの道筋は開放されている……、
しかし、それがフェイクだとしたら……、
いや――、風月先生は学園の先生です。
フェイクだとしても、それは何らかの教えに繋がっているはず……、
この空気の流れの道筋を辿ってみる事は、
おそらくあたしにとって有益だろう。
時間の感覚が非常に希薄になっている……、
しかし、まだ一秒は経っていないはずです。
風月先生との賭けに対する気負いも、消失してゆくようです。
時の流れが止まってしまっているみたいに……、
静かだ…………、ここは。
あたしは歩いていたのか、
あるいは走っていたのかも正確に分からない内に、
風月先生との間合いを、もう手が届く程に詰めていた。
魂や心が、身体をひとりでに、最適な解に導いたかの様に……。
風月先生の開いて下さっている空気の回廊を抜けて……、
これなら触れる、
そう思ったが、次の手、その次の手と、思考は止めない。
……全て流転に任せる。
約束通り、一歩も動かない風月先生に伸ばした手は、
まるで、そこが虚空かの様に、先生自体をすり抜けた。
次の手に移ろう、そう思った途端に、
オーバードライヴにより取捨選択された解が降りてくる。
もしも先生が空気そのものになれるとしたら?
空と一を足しても、この場にはあたししか残らない。
でしたら、
一旦、先生との間合いをとる。
そして思い出す、今日図書館で拝読した護身術と格闘術の様々な頁を。
今は風月先生の能力を確実に断定する事はできませんが、
空気による合気道という仮定に固定しておくしか有用な情報がない。
合気道も図書館で拝読はした、
端的にまとめるのであれば、合気道とは、
“合理的な体の運用によって体格体力によらず相手を制する武道”、
といったところか……。
これまで風月先生により制される内に、
覚えられた技もあるにはありますが、
風月先生と同じ土俵の技が通用するとはとても思えません……し、
ある気付きが降りる……、
多分、風月先生は、
こんなにごちゃごちゃとした思考には縛られていらっしゃらない……。
自然、なんだ。本当に……。
それこそ人が空気を吸い込んで吐き出すくらい……。
そして、あたしは、決意する。
……幸福……お願い……
……解ったニャン……
風月先生の“空気”は、“気”を合わせれば、
現時点では脅威とはならない事が、体感としてあたしには解る。
その問題が取り除かれた今、あたしがすべき事は、
空と、あたしの位置との重ね合わせ。
先生と対峙し、繋がる気のやりとりをし続ける。
今はどう足掻いてもあたしは格下。
優位性を気のやりとりから見出す事は難しいですし、
オーバードライヴの限界が、
あと何十秒後、何分後に訪れるかもまだ不確かです。
屈託なく、胸をお借りする。それが正しいと信じられます。
仕掛けよう……。
そう思った瞬間に空気の回廊を抜け、風月先生は眼前に、
ここでひとつ試してみる、
……幸福……“仲良く喧嘩しな”……“000010000”……
瞬時にあたしは九つに分身し先生の周りを円状に取り囲む。
本体は当然一体しかない、
夕空があたしの本体の影を伸ばすのも考慮し、一瞬で先生の背後に回る。
たとえ効果があったとしても所詮は目くらまし以上にはなりえない。
ここからは、本当に賭けです。
風月先生に繋がれるのは、同じ幸福のみと信じて。
制限時間は十秒。でも大丈夫。今は思える、まだ十秒もある、と。
早水 捧華、参ります。
……幸福……“自我消失”……
っ――!? 発動した瞬間から、
とてつもない程の安らぎと苦しみに襲われ、せめぎ合う。
何この感覚、これがゼロになってゆくという事なの。
まだゼロになり始めてから一秒さえ経たない内に、
あたしの自我が無意識に溶け込んでゆく……。
……あたし、今、……何ができる……、確かにこれは危険です……。
もう一撃しか残せる余力がない……、せめて悔いのない一打を……。
…………飾り気のない……簡素なものでいい…………。
……ただただ真誠に……。
……拙くとも振り絞り気を練る……。
…………理解は遠く及ばずとも、腹は実を極め、心は虚を極めること……。
……半歩進み、想いを突き通す……。
…………これがあたしを表現できる全ての一打…………。
…………あたしの愛、そして他者と交差しながら進む“道”…………!i
はいしゃはつねにあやまちをおかしています
わたしたちのさいだいのえいこうは
しっぱいしないことではなく そこからたちあがることです
楽曲 Hiroshi Watanabe