第117話「In Bloom」
理・0111先輩と、男から逃げて路地裏で話した後、
まだ話す事があるから場所を変えようと言われ、
風もこのまま中途半端な知識で生活を続けていく事は、
自身の為にも好ましくないと判断し、承知した。
とはいえ、まだるぅさの介助報告を管理人へしていなかった為、
その場所への移動中に、「自然科学融合装置」で報告を簡単に済ませた。
そして街を十分程歩く内に、数多夜の地、
【泡小波町】へと、
生まれて初めて足を踏み入れる事になる。
「その様子だとここは初めてかい?
気持ちは分からないでもないけど、
ここは腐ってもあたいを育ててくれた町だ。
悪くは言わないでおくれ?」
余りにもすっと言葉が入って来た為に、
そのまま流してしまいそうになったが、
風の泡小波町へのわずかな知識が、
先輩の言葉と当て嵌まり、風は思わず……、
「……では、理・0111先輩は……?」
「そうさ、あたいは成人が来たら、
ここで娼婦として働く事になっている」
泡小波町を表す言葉のひとつに、こんな言葉がある。
「泡小波で生まれた者は泡小波で死ぬ」
風は生まれてこの方るぅさと出会うまで、
ほとんど徹底して、なるべく外の世界を切り離して生きてきたから、
一般常識に欠けるところがあるし、
馴れ馴れしい他人とのスキンシップにはうんざりだから、
娼婦という職業を知った時の衝撃は今でも忘れられない。
今の風は現実という、
一歩間違えば命を落としかねない刃の切っ先を、
喉元に静かにあてられている様な感覚を、
目の前の理・0111という女性から受けていた。
風は二の句が継げないまま、重い足取りで、
先輩の後ろをとぼとぼと歩く。
早く喫茶店かなにかにでも入って、
温かいミルクでも飲みたいと思っていると……、
「さ、着いたよ。ここならある程度安全に話せる」
そこは……そのビルには、人の手が届く範囲にならどこにでも、
壁面中に紙のポスターが貼られていた。
先輩は迷いもなく地下への階段を下り始めてしまっていたが、
風はここが何処か知る為に、数あるポスターの一つを眺めて、
自分の現在地を確認した。……ここはライヴハウス、
【赤い夜の唇】。
………………
…………
……
目的地の名前と地下にある事が分かっているのだから、
先輩を急いで追いかけはせずに、注意深く一歩一歩下りていく。
【赤い夜の唇】は地下三階にあり、先輩は店の入口で待ってくれていた。
ここまで来ると入口の扉が閉められていても、
さすがはライヴハウス、低音がよく響いて来ていた。
「さっきの礼もあるし、あんたには聞きたい事もある。
ここの支払いはあたいがするよ。
といっても入場料にワンドリンクぐらいだけどな」
そう言われて「有難う御座居ます」と感謝だけは伝えた、
感謝はタダだし、風の生活はお世辞にも裕福ではないからだ。
微妙な広さの店内に入るとよくもまぁこれ程の人波の中で、
皆騒いでいられるものだと、風にはないバイタリティを持つ人達に、
呆れと感心を抱いた。
風も音楽は好きな方で部屋では気分転換によく聴くが、
ライヴに出掛けた事は今まで一度もない。
なぜなら余程メジャーシーンのアーティストなら、
そんな事はないのかもしれないが、
ミュージックプレイヤーで聴いた方が様々な音色が楽しめて、
なおかつ、音の厚みもあるに決まっていると考えるからだ。
少ない生活費から高いお金を支払って、
ミュージックプレイヤーにはあったはずの音色がなかったり、
バンドなのにサポートメンバーがいたりしたら、
個人的にはがっかりする以外にない。
そしてふと、街の粗大ゴミの中から拾ってきて一所懸命に修理した、
風の白いアコースティックギター、「薔薇」の事を、
思い出して……しまった。ローズに責任は無い。
ただ風が人一倍打たれ弱いヘタレ野郎だというだけの事だ……、
忘れよう。入口で先輩が店員の人と話しをつけてくれた様で、
風は素通りできた。しかし何処で話をするのか考えあぐねていると、
「あたいについておいで」
そう言われるままに腰巾着になってしまった、
それでもその状態は長くは続かず、
「Suite」と、
扉に銘打たれた部屋に通されて先に座らせてもらうと、
「ドリンク何にする?」
と先輩に聞かれたので、
「もしあれば、温かい母乳で
黒糖を一欠片お願いします」
するとほんのわずか間が空いたあと先輩は、
「あたい達案外気が合うのかもね」
そう言ってから室内通話で注文し、ドリンクが来るまで、
お互いに当たり障りのないるぅさについての会話をしていると、
店員の人がトレイから赤い唇のロゴと店名がプリントされた、
温かいマグカップを置いてくれた時に謎が解けた。
先輩は猫舌なのかふぅふぅと冷ましてから、こくんと飲ると、
「あたいもこの組み合わせが一番なんだよね」
浮かれた声音ではなかったが、風は理・0111という人と、
出会ってから初めて、こんな事を思ってしまっていた。
可愛いところもある人なんだな、と。
………………
…………
……
「それじゃあ本題に入ろう。あたいはデスペラードを卒業して、
もうすぐ成人になる。
現在あたいには、娼婦になるという敷かれたレールしかない。
あんたも通っているから言わずもがなだが、
あたいとあんたと決定的に違う点は、
あんたは一人暮らしができるだけの財産の様なものがあるんだろうが、
あたいには、
バブル・リプルそのものに育まれたという恩と確かな負い目がある」
「……恩は分かりますが負い目とはなんでしょう……?」
「この町はあたいを育ててくれた。
衣服も食事も住居もな?
だがそれは町のシステムの為に行われてしかるべきもので、
それを知っていれば恩すら感じる必要は本当はない。
幼い頃からあたいがそれなりの玉で、
成人まで育てれば元が取れるという打算は確実に存在しているんだからな」
だが……、と先輩は間を置いてから、
「この町じゃあたい以下の境遇の人間がいくらでもいる。
学校が嗤えるくらい、
ここの方が余程、無法者の町だ。
あたいによくしてくれた女性達が、
男に金に薬に闇にボロボロにされていくのを、
死にたくなる程見てきた。だからこその本題だ」
…………そうか……推測でしかないけれど、先輩? おそらくそれは……、
「風・1100?
命を賭けた「超現実」の状態なら、
J-D-VからV-lessの門を、
一時的にでも破壊する事ができるかどうかを、あたいは知りたい」
「できる限りお力にはなりたいですが、それは無理でしょう」
「…………、そうか、だが何故かは知っておきたい」
「風が命を賭けた事は確かです。その中で警察と反体制の勢力も、
何処かでは癒着しているデータも風の中を通り過ぎて行きました。
風ははっきりとした「社会的処遇」を受けてしまいましたが、
今先輩のお話を聞いていく中で、それはあまり大した状態ではない、
そう感じて来ました」
「ま、癒着という表現も当て嵌るのかもしれないが、
要はずっと上に向かえば、トップ同士の話し合いや付き合いはあるだろうな。
続けてくれ」
「はい。風は先輩程その件についても割り切れていませんが、
「超現実」の状態ならば、V-lessの最大の門の手前まで行く事は、
容易くはないですが不可能とは言いません。
ですが風が気を失う寸前に微かに得た最後の門の解錠条件のひとつが、
風に無理だと言わせます」
言い終えると先輩が間近に迫ってきて、何事かと驚いた。
先輩は「ウォールズ・ハブ・イアズ」と囁いたので、
風はお互いの身の上を思い出し、言葉を選ぶ為に、
一度深く呼吸して、先輩のいくつものピアスの付いた耳へ、
重要な情報を最も信頼の置ける肉声を用いて、ささめかせた。
先輩は風の伝えた情報をすぐに理解してから、
苦虫を噛み潰したような表情で……、
「……なるほどな、ケッ!」
………………
…………
……
今度は風が質問する番だったが、
「氷茶」に対する説明を先輩に求めると、
「あんたは今ここで演奏しているバンドの歌詞が理解できるかい?」
そんな事を言われたので、風は話しをはぐらかされているのかと、
ほんの少し苛立った。しかし先輩は先輩だ、
「いえ、ですが三人とは思えない程の、
迫力が伝わってくる演奏です。
ライヴというものへの価値観を改める必要がありますね。ですが、何故?」
「まぁ聞いてくれ。これも「氷茶」への理解を滑らかにする為のものだ。
バンドってのはその時代を歌と音にのせて、
聴いているヤツら、
聴衆をぶん殴るのが所謂ロックだとあたいは考えている。
今演ってるバンドの歌詞が理解できていないなら、
そりゃあんたが童貞で、
思春期真っ盛りのガキだって事だよ。
世界が自分を中心に回っていて、自分のひとつひとつの行為に、
なんの疑問も感じていない。そうだな……、言葉にするなら、
「あ~ぁ、やれやれ、だ」」
風の感情を逆なでされた気分になったが、
沈黙して、さらに耳を澄ます事に集中する。
「若いヤツらは歌の意味なんて深く考えてないのさ。
ホントには人の言う事なんて聞きゃしない。
ドラッグはそういう思考停止しちまってるヤツらの脳を、
ぶん殴る必要悪の一面がある」
「それでは先輩は自身の行いに対して正義があるとでも言うつもりですか?」
「必要悪だと言ったろ? あくまで悪は悪だよ。
それ以上でもそれ以下でもない。
……「氷茶」には強い依存性がある。
その事はあんたもメディアから社会から学校から、
覚醒剤の知識としては知っているだろうが、
それらはどれも、本当の事が伝えられる様にはつくられていない。
今歌ってるバンドに群がるおめでたい連中と同じだ。
社会が学校が、友だちという馴れ合いが、
もうすでに落とし穴なんだよ」
そこで一旦先輩は「母乳」を一口含んだ。
「思想誘導をするメディアが、
友だちがいると思わせる学校が、
家まで招いた友人が、病気を感染させていくのさ。
この音楽最高にイカすぜとやって来て、
大人になる頃歌詞の意味を理解したら、
家庭という鎖に縛られて、社会に従わざるを得なくなるヤツもいるだろう。
薬物もそんなもんさ。
気分が軽くなるよとか、凄く幸せな気分になれるよとか、
したり顔で暗闇を連れてくる。
もしもあんたが薬物に手を染めたとしても、
初めはどうって事はないと思うだろう。
多幸感に包まれてウキウキとトんでる気分を味わうだろう。
だがこの世は天国じゃない。トんだらオチるのさ。
高くトべばトぶ程、物凄い衝撃で地面へと叩きつけられる。
大きな多幸はより大きな不幸を生む。
一瞬の快楽が長い拷問へと変わる瞬間だ」
風も緊張し喉がカラカラになり、マグカップに手を伸ばし、
何処か冷えた部分を温める。
「あたいが思うに幸せにはおおざっぱに二種類ある。
ひとつは強烈な快楽がもたらす多幸と、
もうひとつは自然や人の温もりがもたらす穏やかなものだ。
強烈な多幸は冷めた時に虚無感に襲われ、回復が難しい。
穏やかな温もりは、与えられるものはわずかだが、
長持ちするし、失うものが少ない。
それが分かっていても、
あたいは今の社会には薬が必要な人間がいると信じて、
割り切ってこの仕事をしている」
それから先輩は自嘲気味に、
「あたいにしたって、この町と街にがんじがらめなのさ。
薬物を一時的にやめる事は、おそらく誰にでもできるが、
やめ続ける事は、孤独を抱えている人間にはまず不可能だろう。
孤独なヤツには歯止めをかけてくれる相手がいないからな。
かといって薬物依存者に対して他者から親身になられても、
その人の温もりと薬物依存の板挟みで、
これもまぁ一種の拷問に近い。
責任を追求していけば、
薬物を取り締まれない街の責任だと勘違いするヤツも出てくるがな、
これにだってそれなりに理由がある。
全ての薬物を厳重に取り締まってしまえば、
例えば病院関係者、
つまりは真っ当な人生を生きてきたかもしれない患者の薬物治療にまで、
深刻な影響が出てくるからだ。
法的に灰色の薬物にしたって、単に化学構造を変えて、
合法か違法かをいたちごっこしているだけだからね。
だからあんたが思う通り、
全ての組織のトップは繋がっていると考えて動くのは、
まぁ妥当な考えではある。
しかしそこまで辿り着いてしまえば、あんたも分かるだろう?
この街に「自由」なんてないのさ。
息を殺して身動きさえとれない、ここが奴隷街V-lessだよ」
今までの話しで何かあるかいと言う様な、
先輩の眼が問いかけてきていたので、
「つまり先輩はV-lessから出たい訳ですよね?」
「「自由」って言葉があるなら、それを拝んでみたいからね。
あんたに薬物に嵌って欲しくないから、
最後に表裏一体の世界の話をしてやる。
まず最初でドラッグの強烈な多幸感を骨の髄まで植え付ける。
その時点でそいつは組織のリストに名前が載る。
必ず依存心に負けて二度目につながる。
薬は高価過ぎても安価過ぎても社会のバランスが崩れるから、
大人だけが買えて、
なおかつ子供には容易に手を出せない金額が時代ごとに設定される。
常習者になるとより強烈な多幸を求めるから色々なところに顔を出す様になる。
店によっては警察や麻取と繋がっているところもあるから、
天国と地獄のロシアンルーレットをしている事に気付けたら、
少しはブレーキにもなるが、かなり自制心を持った人間にしか、
そんな真似はできないだろうから、続けて嵌ってゆくうちに、
警察に裏を取られて逮捕されたら、万が一不起訴でも
もう社会的に死んだ事には変わりない。
底辺をうごめくイモムシからチョウの様に飛ぶ事は永久にできなくなる」
風は何も言えなくなり、薬物の恐ろしさだけは、
なんとなく覚えられた。色々まだ尋ねたい事があったけれど、
頭が真っ白になってしまっていた。
そんな空白に室内通話機から音声が流れ始める。
「理・0111、警察が入ってきた。
解錠したから壁から抜けろ」
「おうサンキュー。ほら? あんたも逃げるよ」
「……逃げるたって何処へ?」
ここは密室、逃げるところなんてないと思っていたが、
「あたいについておいで」
そう先輩が、方角も定かでない壁面に歩いて突っ込んで行くと、
そのまま壁を通り抜けてしまった。
つまり裏社会で生きている人間の為の、
隠扉というものか。
風も通り抜けて、しばらく……十分程歩くと階段があり、
何処へ出るのかと思っていると、バブル・リプルから抜けて、
V-lessの一般区画に通じていた。
辺りはもうすっかり黒夜が降りていて、
こんな時間まで部屋の外にいる事は滅多にないので、
ふと黒夜の空を見上げると、
満天の星空が鮮やかに僕の心身に覚えられた。
やはり室内でする天体観測と生では一味違うものだ。
「まぁ今日はこんなところだな。
風よ? これからしばらくは、
あたいは風の力に頼らせてもらう事になる。
あたいは犯罪者だが風はそうじゃない。
だからここで選んでくれ。
あたいと共に行くなら、あたいを理と呼んでいい。
「自由」に興味がないなら、
あたい達はここで、
これから単なる情報をやりとりするだけの、
先輩と後輩としてお別れだ」
「自由」…………先輩と風の共通点のひとつの名前、
風は犯罪の片棒を担ぐのは絶対にごめんだ。
それでも現時点の話しを聞いた限り、
先輩も街に苦しめられている被害者の一人だとは思う。
それに詳しく聞く事ができなかったが、
風はすでに「先輩側」の人間の様だ。
先輩がしばらくというなら、風もしばらくとしよう。
その前にひとつ……、
「……先輩……、
理はGSHSという人物を知っていますか?」
「ん? ……あぁ、おそらく【灰】の事だな。
正式には「GraySky HackerS」、別称が「灰」だ。
ヤツらを知ってるって事はお呼びでもかかったみたいだな?
あたいと共に歩いて行く内に関わってゆく事になるかもしれないね?」
風のこれまでの人生はほとんど受動的なものだったが、
能動的に物事を試していく事にしてみる。
「自由」という希望を夢見るのもそれこそ「自由」だ。ダメで元々。
理の成人はもうすぐらしいが、
風にはまだ未成年でいられる時間がある。
時に卑怯と言われても、これからの為にも強かさを覚えるんだ。
風が理へ両眼で意志を伝えると、
どちらからともなく手を差し出しあって、
理の風よりも小さく温かい手を握り、
風はこれから街と対峙して生きていく事を決意した。
なぜなら、
冒険が許されるのは…………、
「思春期」の特権だろうから。
りょうやくはくちににがし
とうすいする
なにがおきたのかもわからぬまま
Song Nirvana Lyrics Kurt Cobain Music Nirvana