第116話「ナイト クルージング」
管理人からるぅさの言伝てをいただいてから、
もう零度目の介助へるぅさのお部屋を訪問していた。
るぅさはその間、一度たりとも風の事件について尋ねる事はなかった。
かといってよそよそしい空気が流れる訳でもなく、
今まで通りに風へと接してくれている。
今日の仕事は、るぅさのお部屋の掃除だった。
るぅさが風を介助者として使っていい時間には制限があり、
最大で零時間が限界となっている。
風は生まれた時から零と一だけで表す数語が当たり前だから、
当たり前として使っているけれど、
歴史と国語と数学の教師によれば、
大昔は零から九まで使った数語が一般的だったらしい。
だが「自然科学融合装置」が発明され、
アップデートを重ねて行く内に、
零と一だけのシンプルな数語へと変遷を辿った様だ。
つまり母音の「あいうえお」を「01010」とし、
「あ(0)」「い(1)」「う(0)」「え(1)」「お(0)」とする。
あとは「自然科学融合装置」で、
他の五十音の音程や音階などを調節し対応させていけば、
平語を覚えるのはさほど難しくはない。
しかし発声が肝なのでV-lessへの旅行者や移住者が
思い悩むとすれば、多分そこだろう。
時間を表す数語にしても基本は「0101010101」で、
零から九に対応しているが、時間の表現方法は平語表現より、
さらに難しいので、掃除に集中する為に、風はそれを考える事をやめた。
るぅさがキレイ好きである事はよく片付けられたお部屋でよく分かる。
るぅさは歩こうと思えば歩けるのだが、長距離は難しいし、
屈んでお部屋の隅を掃除するのは、相当の苦労が必要になる。
そこで風がお手伝いをさせていただくんです。
るぅさが介護用ベッドで横になっている間に、風は勝手知ったる、
ひとつ屋根の炎家のお部屋を隅々にキレイにしようと奮闘している時に、
るぅさのお部屋に来客を知らせる鐘が鳴り響いた。
るぅさには横になったままでいて欲しかったから、風が出ると……、
「おう、あんたもいたのか。こりゃいいや。お邪魔します」
理・0111先輩がるぅさを訪ねてきた。
「理・0111先輩……、どうしてここが?」
「あんた、失礼なヤツだな。あんた達とJ-D-Vで会った時に、
あたい達は連絡先の交換をしてたんだよ。あんたにも一応送ったが、
拒否されて戻ってきた。まぁ事件での察しはつくから、
腹も立たなかったけどさ。今日はるぅしぃ・さりぃのお見舞いだよ。
花も飾ってあったろ?」
あ…………あの花瓶の花は……理・0111先輩のものだったんだ。
るぅさによく確かめもせず、プロの介護師のご配慮だと、
決めつけてしまっていた。
「あたいとるぅしぃは友だちだ。介助者がいる間に、
友だちが来てはいけないなんて決まりはないだろ?
ここはるぅしぃのお家で、あんたの家じゃない。
るぅしぃ? あたいだよ。上がらせていただきます」
そう声音を玄関からるぅさの居るお部屋に向かって、
理・0111先輩が細く穿つと、
「あらぁ♪ 理ちゃん、また来てくれたの?
嬉しいわぁ♪ どうぞ上がって頂戴♪」
………………
…………
……
掃除を終えたら、るぅさと先輩と風は、しばらく会話をした。
先輩と風は主に聞き役で、るぅさの日々感じている喜怒哀楽の
感情を吐き出してもらっていた。その中のひとつに、
学校は今更無理でも、
優秀な家庭教師に、
この惑星の無数の知識を学びたいという思いを吐露したので、
風はつい口を滑らせた。
「るぅさ知っているかい? この街の最高の家庭教師は、
月に一億ルクサもして、最低の家庭教師はなんと、
月に一ルクサで雇えてしまうんだ。信じられる?」
「風ちゃんホントなのそれ!? あとでJ-D-Vで見てみるわ」
「ちょっときな臭い話ね。あたいもチェックしておくわ」
長居は禁物なので、潮時を見計らって、
風が今日の仕事を終えて帰る事を伝えると、
理・0111先輩も、「あたいもそろそろ」、と席を立った。
すると……、
「風ちゃん? おまじないは?」
そうるぅさがやや鋭く問い詰めてきたので、
「おまじないは風らだけの秘密だよ」と、
半分本気で半分照れて答えてから、今日はるぅさと別れた。
………………
…………
……
るぅさのお部屋から無人の広いエレベーターに乗って
一階に下りるまでに理・0111先輩が口を開いた。
「あたいはるぅしぃを認めてるし、あんたも認めてる。
純粋にるぅしぃのお見舞いもあるが、
あんたともう一度話してみたいとも思っていた」
その言葉から先輩の方を向くと、
先輩は首につけた簡素な黒いチョーカーを左手の指先で、
上下に往復させながらなぞっていた。
先輩が在学中にも何度か見た光景だ。
先輩は風からみてもオシャレな人だが、
チョーカーは在学中の時から黒のままだ。
余程大切なもので、肌身離さず愛用しているのだろう。
首筋をなぞるのは先輩の持つ癖のひとつなのかもしれない。
癖というものは、自分自身には案外分かりにくものだろうし。
「風に話……ですか?」
「あたいは仕事以外でまわりくどい事をするのが性に合わないから、
単刀直入に言うが、あんたは命を賭けた事があるよな?」
「……何故……そんな事を……?」
「あたいの未来を変える為の、真剣な質問だ。
あんたにそれを話す大きなリスクがないなら、
あたいに力を貸して欲しい」
「…………、先輩の未来……ですか。
分かりました。その未来に風を巻き込まないでいただけるなら、
お話します」
それから先輩が首を横に振ると、エレベーターが一階へと着いた。
真剣な話と言われてしまっては、先輩の頼みだし無下にはできない。
彩雪が漂う大空を一緒に歩き始めた。
「いいかい、風・1100?
あんたはもうこれまで以上の自由では、生きていけないんだよ。
「灰空を割る者」は反体制的な人間が多いからね。
今の時点にだって、街が本気になればあたい達は共謀罪に問われかねない。
「灰空を割る者」になっちまった以上、あんたの意思とは無関係に、
もう「こちら側」の人間なのさ」
「…………先輩の仰る意味が……よく分からないんですが……?」
「今は分からなくていい。あたいが聞きたいのは、
あんたが命を賭ける事でどれ程の「超現実」を手にしたかだけだ。
あたいだって現時点で危ない橋を渡ってる。
実入りがなければ割損だ」
…………そんな事を一方的に言われたって……。
底にあると思っていた人生を、さらに突き落とされた気分だった。
絶望は底なし沼だ。自分が危険に晒されているのに、
他人の心配などしていられるはずもない。
風はるぅさの存在で生き返る事ができたのに、
ふたたび命を落とそうとしていた。
風が失意に陥り足を止めたままでいると、
風達の背中に出し抜けに声が掛けられる。
「今日はその坊やを死なせる気かい? 「氷崖の死」」
風が呆けたままのそのそと振り返ると、
そこには薄汚れた衣服でガリガリに骨ばった、
両眼が異様に落ち窪んだ男が立っていた。
その容姿が強烈で、呆けた風の意識の気付けになった程だ。
「またあんたか。何度も言ったはずだよ。
あんたとの取引はお断りだって、精々薬でボロボロの心身を養生しな」
「そんな事言わねぇで「氷茶」売ってくれよ?
持ち歩いてんだろ? 金ならあるんだ、へへ」
ぴりっと感じた剣呑な空気で、風は一旦失意から完全に目覚める。
これは……風の独自の「自然科学融合装置」を行使すべき時かもしれない。
意識を集中させて装置を立ち上げておく。
……装置を立ち上げる……
……I understand……
……対象の危険はどれくらい?……
……Signal Yellow……
……分かったよ……
……「NSFD」闘いに備える……
……“転ばぬ先の杖”……
……I understand……Just a second……
……対象は武器を持ってる?……
……almost-certain……
……分かった……
……“急速硬化”……
……I understand……
集中して風がプログラムを組んだ「自然科学融合装置」を
立ち上げている間にも空気はますます険悪なものへと進んでいた。
「あたいはお金が欲しくてこんな仕事をしているんじゃない。
言ってみりゃ必要悪の為に悪を担っているだけだ。
あんたと話せば、まだ手遅れじゃない事は分かる。
それでも、ここから先に進めば氷崖に落ちて、あんたを死なせる事になる。
警告でもあり忠告だ。もう薬からは手を引きな」
「なんだとぉ? こっちは客で金もある。
なにがいけないってんだ。大人しくブツを渡しな?
さもないと……」
そこから男は懐に忍ばせたナイフを、
街行く人へなるべく目立たない様に取り出した。
初めての実戦になるかもしれない相手が得物を持っているとは、
風もよくよくついていないが、
見た感じごくありふれたナイフに安堵する。
これなら怪我も避けられるし、相手も優位に立っている余裕から、
油断も生じているだろう。
「そんなもんでこのあたいが怖気付くとでも思ったかい?
殺れるもんなら殺ってみな!」
男は先輩の威勢に、一瞬たじろぐが、ナイフを出してしまった以上、
収まりがつかなかったのだろう。
「おまえらが人の人生を滅茶苦茶にしたんだろぅがっ!!!!」
そう言葉に怒気を込めて、先輩にナイフを向けて勢いよく踏み込んできた。
そこに風は割って入り、風の腹部へナイフが突き立てられたが、
風の腹部にナイフは突き刺さらず、
ギィィィンと耳に不快な音色が入ってきた、でもそれに躊躇はしていられない。
我が目を疑っている静止状態のままの男の、
ナイフを持つ右手を上方に流し男の右腕を取り、腰と軸を意識する。
側背に入身して背後から男の首を左手で制し、転換しつつ男を
導き崩し、その反動で起き上がった男の頭を風の右肩口に引き寄せ、
下方から大きく円を描くように差し上げて斬りおろし、
男に重い怪我を負わせない様にできるだけゆっくり仰向けに倒した。
下空がいくら柔らかいといっても受身も取らずに倒れては、
やはり衝撃は免れない。男も背中を打って、
横隔膜が麻痺した為か、声こそなかったが苦悶させてしまった。
すぐに右腕を引っ張られたので何事かと振り向くと、
「風・1100、走るよ!」
理・0111先輩の掛け声で、
否応なく風らは走ってその場から逃げた。
………………
…………
……
街の裏通りの暗い路地まで走ると、風達は息を切らしながら、
お互いを見合った。
「……ふぅ、
てっきりあんたの事をクラッキングだけの変人だと思っていたよ。
腹は大丈夫なのかい?」
「風のディバイスは、少しカスタマイズしてあるんです。
そこらで売られている刃物では、この身体には傷一つ付きません」
「は、やっぱりギークだ」
風達は初めて親睦らしきものを交わした。
「それに武道もやってるんだな。技の名前とか教えてくれよ?
見事なもんだ」
「“合気道”の“入身投げ”と言います。
しかし見事なんてとんでもないです」
「そうか、憶えとくわ。でも謙虚謙遜は時に嫌味だぜ?」
「合気道は武術ですが、理念の形容として、
「争わない武道」とも呼ばれています。技を通して相手との対立を解消し、
自然宇宙との「和合」や「万有愛護」の境地へ至る事が理想です。
風はあの人を苦しめてしまいました……まだまだ未熟です……」
「あたいにゃ難しくてよくわかんねぇが、
なんともあんたらしいぬるい武道だな。
殺らなきゃ殺られる、それが戦いってもんだろ?」
「上を目指せばそういった世界に直面するかもしれませんが、
風の現在の暮らしでは、必要最低限に護身できれば構いません」
「それについては言いたい事は分かるよ」
会話がそこで一旦終着した様なので、今度は風が質問をする。
「理・0111先輩? その……「氷茶」ってなんですか?」
いつも歯切れがいい先輩がしばらく沈黙してしまう。
無理に知りたい訳でもないので、話しを変えようか迷っていると、
先輩は首に付けたチョーカーの辺りを左手で何度も上下に往復させながら、
風に告げた。
「……ぅん……そうだな、これは街の抱える社会悪で、
どうせあんたも避けては通れなくなる。
それなら……早い方がいい……か。
「氷茶」をJ-D-Vで検索すればすぐに分かっちまうしな」
彼女は暗い路地でも分かる程、真剣な眼差しで風を射抜いた。
あの男のナイフと対峙した時よりも、数段緊張する。
「「氷茶」……アイスティーってのは隠語というヤツだ。
あんたの心に悪影響を与えたくはないが、
「氷茶」は現在街中を騒がせている、
所謂、覚醒剤の事だよ」
「っ!? ……それじゃあ理・0111先輩は……?」
「そうさ……、」
先輩からわずかに逡巡を感じたが、次の言葉は、
それを掻き消す様な、はっきりとした声音だった。
「あたいはその運び屋なんだ」
この言葉が風の人生への警告の汽笛信号となった。
今日の街の大空は気が付けば灰明から黒夜へと変わっていて、
風はこれから「灰空を割る者」として、理・0111先輩と、
黒い夜道をゆく。
だれのせいでもないさ
かみのほうようをしんらいせよ
あとのことはおまかせ
歌 フィッシュマンズ 作詞・作曲 佐藤伸治