国境の長いトンネルを抜けると――
トンネルを抜けると、そこは包囲網であった。暁の空の下、青と白の軍服を着た、何十人もの兵士たちが、健司を包囲していたのだ。
「香取信明! あなたは包囲されています。無駄な抵抗はやめなさい」
そういいながら、軍服に身を包んだ少女が、健司の目の前に立ちはだかった。髪は、黒のショートカット。少しきつめな印象を与える、細いフレームの眼鏡をかけた美人であった。
「ちょっと待ってくれ。俺は香取信明なんかじゃない。尾張健司だ」
健司は、軍服の少女に人違いだと訴えるものの、彼女は聞く耳を持たない。
「あらそう、でもね。仮にあなたが香取じゃないにしても。荒野から徒歩で出てくること自体、怪しすぎるのよ」
「う……それは、そうだけど……」
健司が後ずさると、彼女はもう一歩踏み出してくる。
「香取信明、あなたに同行を命じます。同行を認めた場合、国王からの恩赦を得られるでしょう。抵抗する場合は、あなたを拘束し、恩赦はないものと思いなさい」
眼鏡の奥の、少女の瞳は真剣そのものだ。健司は、逃れられないということを悟り、同行を認めた。少女に連れられて、健司は自動車らしき乗り物の前に立つ。
(……これ、どうみても自動車だよな?)
「おい、止まるな! 早く駆動車に乗れ!」
健司が、自動車をまじまじと眺めていると、後ろから兵士に押されるように駆動車の中に入れられた。
(これ、駆動車っていうのか)
などと、能天気なことを考えているうちに、駆動車は猛烈なスチーム音を上げた。これもまた蒸気機関で動いているのだ。
そのこともあり、駆動車の乗り心地は非常に悪い。おそらく、サスペンションなどの贅沢なものはないのだろう。路面の悪さが乗り心地に直結している。健司は、顔を真っ青にして、隣に座る少女に訴えるような視線を送った。
「車酔いのふりをして降りて逃げようと思ったって、そうはいかないわ」
残念ながら、その訴えは却下された。依然、少女は健司のことを「香取信明」だと思い込んでいるらしい。
(はぁ……おわってんな、おい)
これは弁明しても無駄だと判断した健司は、車に揺られるがままに詰所へと連れていかれた。
健司は、少女の監視のもと、詰所に設置された小さな留置所へ連行された。壁は一面青いペンキで塗られており、いかにも頑丈そうな鉄格子が、健司をいやおうなしに嫌な気分にさせる。
少女は、鍵を取り出して牢屋の扉を開けると、そこに入るように促した。
(抵抗しても、無駄なんだろうな)
健司は特に抵抗することもなく、体をかがめて牢屋の中へと入る。幸い、牢屋内には毛布が用意されている。
「今日の10時からあなたの取り調べが始まります。それまで大人しく待機しておくように」
一通りの職業台詞を並べた彼女は、健司に一瞥もせずに留置所を出ていった。健司自分の弁明が全く聞き受けられなかったことに、少し腹を立て、そして少し惨めさを感じながら、毛布にくるまった。この世界についてから一睡もしていなかったこともあり、瞬く間に睡眠の世界へと落ちていた。
§
何に起こされるわけでもなく、健司はひとりでに目が覚めた。格子窓から差し込む日光を見るに、寝てからそんな時間はたっていないはずだ。しかし、人体の神秘というべきか、いやにすっきりとした目覚めだ。健司は、大きく欠伸をして、背筋を伸ばす。背骨がボキボキとなり、いくらか疲れも癒えた気がした。
「気楽なもんだな。お前」
不意に声を掛けられ、健司はその方向に顔を向けた。ちょうど自分の対面の牢に、自分と同じくらいの年齢の青年がいた。青年は、やけに落ち着いた様子で牢屋の中で胡坐をかいている。
「俺からしてみれば、お前の方が気楽に見える」
「そうかい?」
青年は立ち上がり、鉄格子のすぐそばまで寄った。健司もそれに合わせて、鉄格子に寄る。二人の距離は、鉄格子越しに通路を挟んで1m、少し遠いが、静かな留置所で話す分には問題なかった。
「お前、名前は?」
先に口を開いたのは、青年の方だった。
「尾張健司。お前は」
「オレは、ウェイド=ジョー=ウー。しかし、お前ついてなかったな」
「何がだ?」
ここに来てからの、いろんな「ついてない出来事」が健司の頭をよぎる。飢えと渇きの中で荒野を散歩、人肉スープを飲まされ、生贄にされかける。健司じゃなくても、終わってると思うだろう。
「どうせ、プロメセティからウェリスに入ろうとしたんだろ」
「まあな。普段からこんな感じなのか?」
ウェイドという青年は、いやいや、と首を横に振る。
「普段はおおらかな所なんだけどな。いまは、あの国境。あのトンネルの出口が国境なんだが。そこに検問が敷かれてるんだよ」
「検問?」
「何でも、指名手配犯の逮捕のために、つい最近始まったらしくてな」
「検問ねぇ」
もはや、あの包囲は検問なんて生易しものとは思えないが、それほどの凶悪犯罪者があの荒野から来るのだろうか? まして、自分がその凶悪犯罪者と思われたことに、健司は不快感を抱いた。
「……そういえば、お前はなんで、ここに?」
過ぎたことをグチグチ言っても意味がないと考えた健司は、さっさと話題を変えた。
「俺か? 俺は、そんなことがあるとは露知らずに入った闇商人、もとい冒険者だよ。いつもなら素通りで来たってのに、積み荷の中調べられて、今こうして檻の中ってわけ、お前はなんでプロメセティから来たんだ」
「……あまり、聞いても面白いもんじゃないぞ」
「いいっていいって、話してみろ」
ウェイドはカラカラ笑いながら、健司の話を促した。嫌な奴ではなさそうだ、と健司は思った。
「人食い人種から命からがら逃げてきたら、なぜか人違いで逮捕された。まじで、終わってる」
ウェイドは、一瞬固まった後、「お、おう……」と声を漏らした。すごい気の毒そうな視線をこちらに向けている。
(そんな目で俺を見るな!)
健司の願いが通じたのか、ウェイドはふたたび調子を取り戻した。
「ま、まあ。そいつは災難だったな。ってことは、お前も行商人かなんかか?」
「うーん、まあそういうもんじゃないんだけど……」
その時、留置所の扉があき、一人の兵士が入ってきた。30代ぐらいの男だ。
「ウェイド=J=W。取り調べだ。同行してもらう。拒否権はない。知っていることはすべて話すように」
ウェイドは、兵士の命令に応え、「へいへい」とめんどくさそうに腰を上げた。
「じゃあな、健司。また話そうぜ」
「無駄口を叩くな!」
「痛っ! 蹴るこたねぇだろ!」
ウェイドが、やんややんや騒ぎながら留置所を後にすると、再び静寂が訪れた。物音ひとつしない留置所に、自分の呼吸音だけが聞こえる。日光は、目覚めた時と変わらず、青いタイルを静かに照らしているだけだ。格子窓の外を見ても、そこから見える木の枝は少しも動かない。当然、風の音が聞こえるはずもない。
急に健司は、自分が世界の中で一人ぼっちになってしまったような孤独感に襲われた。依然、何の音も何の色彩もない、この留置所に、健司は一人たたずむばかりだ。
健司は、ようやく今になって自分がどのような状況に置かれているかを正確に認識し始めた。自分は、どうしようもなくひどい世界に来てしまったようだ。
自殺なんかしなければよかった。
健司の胸の中に、後悔の念がふつふつと沸き起こる。就活失敗がなんだ。こんな世界に来るぐらいなら、まだ元の世界で――たとえ自分の思い通りの人生じゃないにせよ――平和に暮らしているべきだった。もっと、平和というものの尊さを享受すべきだった。
誰もいない牢屋の中で、健司の思いは次々と浮かび、そして後悔の念へと変わっていく。健司の眼尻には、大粒の涙が一つ。それは、頬に筋を描いて、牢屋の地面へと零れ落ちた。
健司が、こらえようとすればするほど、涙があふれ出る。健司は、肩で息をしながら、牢屋の壁に寄り掛かった。
(また、死ねばいいのか?)
健司の脳内に、こんなセリフが思い浮かぶ。そうだ、自殺することで別の世界に行けるのならば、早くこんな世界からはおさらばしてしまえばいい。だが、健司にはできなかった。
自殺した次の世界はもっとひどいのかもしれない、そして何より、
(いやだ、死にたくねぇよ……!)
健司は死を恐れるようになったのだ。自殺する勇気も、生き延びる強さも持たぬまま、健司は「異世界」という大嵐の中へとほうり込まれたのだ。
その時、ようやく、健司の待ち望んだ「音」が聞こえた。留置所の扉を開ける音だ。健司の方向に歩いてくるのは、例の少女であった。
「香取信明、取り調べよ。直ちに――って、あなた泣いてるの!?」
少女は、急に取り乱して健司の様子を見る。
「だいじょうぶ、大丈夫だから」
健司は、涙声になりながら立ち上がる。
「……どこか、怪我があるわけじゃないのね?」
「平気だ。目にゴミが入っただけだから」
健司は精一杯の強がりで、少女に背を向け、涙をぬぐった。牢屋の中の囚人にさえ、彼女は心配そうにしている。これが、この少女の素なのだろうか。
たとえその認識が、勘違いだとしても、そう思うことによって健司は幾分か救われた気がした。
「そう……、えっと、香取信明。あなたには、私、シズレ=オースティンによる取り調べを受けてもらいます。拒否権はありません。知っていることはすべて話すように」
シズレと名乗った少女は、また仕事の顔に戻り、健司を牢の外に連れ出した。静寂に満たされた留置所に、鉄格子の開く音はよく響いた。