荒野をさまよっていたら、どんな民族に拾われたと思う?
本当にくだらない理由で自殺したんだな。
3月22日。尾張健司は、薄れゆく意識の中でそう思った。右手には包丁、左腕には、手首から肘にかけて、深々と包丁を刺した跡がある。左腕の紅い線は、次第に弱々しくなっていく鼓動と同時に、赤々とした血を吐き出し続けていた。
彼は、いわゆる優等生だった。劣等生はもちろん、ニートや引きこもりは徹底的に見下していた。
「自分は、何かをなす人間だ。何かで一番に成れる人間だ」
本気でそう思っていた。だが、就活失敗を機に、完璧だった彼の人生に、ひびが入った。そのひびから予想される、「完璧な」人生の崩壊に、健司は我慢ならなかった。
そう、まるで指先にできたささくれをはがすような気持ちで、彼は命を絶ったのだ。
§
一瞬のブラックアウトの後に、目を開けると、まず広い青空が見えた。濃い藍色を水で溶かしたようにどこまでもゆらゆらと広がる青空に、雲が貼って付けたように浮かんでいる。目線を下ろし、辺りを確認すると、そこは荒野であった。赤褐色の土に、ほぼ枯れかけの雑草が、点々と生えている。自分の足元には、ぼろぼろに錆びついた線路が続いていた。
視界が回復するにつれて、その他の感覚も研ぎ澄まされていく。健司は、自分が何かによっかかって座っていることに気付いた。振り返って確認すると、これまた何年も使われていないであろうトロッコだった。鉄の部分がさび付いているのは勿論、木もかなり朽ちている様子だ。朽ちた木材からは、まだそれなりに銀色の光を保っている螺子が顔をのぞかせている。
(どこだ、ここ?ていうか、俺死んだのか)
いまだ、夢心地のような気持ちで健司は立ち上がり、再び周囲を見回す。人の気配は全くない。
(そうか、死ねたのか。死んだのに生きてんのか。終わってんな、おい)
「終わってる」それが彼の口癖だ。彼は軽い気持ちで、よく「終わってる」とつぶやく。テストが難しかった時、電車が遅れた時、調子が悪いとき、終わってなどいないのに、彼はよく「終わってる」とつぶやいた。彼が自殺したのも、彼の人生が「終わった」からだ。しばらくのんきに、此処が天国かとぼんやりしていると、次第にのどの渇きと空腹感を覚えるようになった。
(何か食わないとな、でも死んでるし意味ないのか……でも、苦しいのはもっと嫌だしな)
彼は、のほほんとした、半分寝ているような頭で、線路に沿って歩き出した。ふと、生前の癖で、時間を確認するために左手首に目線を映す。その時、彼の目は一気に覚めた。
「……傷が、ない。というか、何だこの線?」
彼の左腕にあった傷は、きれいさっぱり塞がり、その傷跡に置き換わるように真っ黒な線がそこに伸びていた。ペイントでも管のようなものが移植されているわけでもない。ただ、肌の上に黒色の線が一筋浮かんでいるのだ。健司は、しばらくその線を凝視していたが、喉の渇きを思い出し、再び歩き出した。
(線路沿いに歩けば、人がいるとこに出るだろ……死後の世界が集団生活の場だったらだけど)
だが、いくら歩けども、見えてくるのは空と土と雑草のみ、どこまでもどこまでも、だだっ広い荒野が広がるばかりであった。もう、三時間は歩き続けている。太陽は傾きかけ、足は棒のようになり、喉は渇きのせいで痛みまで訴えだした。彼は、死ぬことこそ怖くなかったが、苦しいのはテンでダメだった。
(やばい、のど乾きすぎてやばい。どうする、そこらの草でも水分はあるよな……いや、食中毒とかあったら死ねるよな)
彼は、線路端に生えている、青々とした雑草に目を走らせる。
(いや、死ねるっていうか。もう死んでたんだ俺)
そう思うと、不思議と踏ん切りがつき、彼はしゃがみ込み、雑草に手を伸ばす。その時であった。
遠くから、キンキンキンと鐘の音が聞こえてくる。そちらの方に目をやると、全体から白い蒸気を噴き出している、乳白色の機関車のようなものが迫ってきた。健司は、突然のことに面くらいながらも、ぎりぎりで線路から離れる。機関車は、轟音を立てながら、健司の目の前を通過するように思われたが、その機関車は、健司の目の前で、白い蒸気を噴き出しながら急停車したのであった。
耳障りなスチーム噴出音の後に、機関車のドアが開き、何人かの男が出てくる。その男らは、皆、身長が高く体格も優れており、見るからに屈強そうだ。全員、褐色肌を持ち、下半身を荒い布で覆っている。顔は、覆われるほどに大きく威圧感のあるタトゥーが施されていた。誰がどう見ても、日本人ではない。
「カ オメ ドォ キエ?」
「……はい?」
だが、その大男たちが話す言語を、健司は全く理解できなかった。日本語でもなければ英語でもないのだ。
「あんたら一体?」
「ダ ア コイ」
(何語だよ、これ!)
健司が、右往左往しているうちに、大男たちはしびれを切らしたように「ダ コイ」といい、健司を担ぎ上げ列車の中に放り込んだ。健司は、そのまま勢い背中から列車の床にたたきつけられ、悶絶した。痛みに耐えながら、目を開けると、目の前には木箱が見える。ふと、木箱に張られたラベルを見つけると、健司はそれを読みだした。そう、読めたのだ。
(「ウェールランド産 小麦 ウェリス行き」か……まて、なんで日本語なんだ?!)
健司は、勢いよく立ち上がり、周りの大男をびっくりさせる。それに気づいた健司は逆に萎縮し、大男たちに連れられるがままに列車内を移動した。しかし、その間も、頭の中ではあのラベルの文字について考え続けていた。
§
ここは、列車内の居住区と言っていいのだろうか。いわゆる寝台特急のように、狭い廊下とそれに隣接する部屋が四つ並んでいる。大男たちは、その居住区の一番奥の部屋のドアを開け、そこに入るよう促した。健司は、言われるがままに、部屋の中へと入る。二段ベッドが二つ。机が一つに椅子が二つ、そして、外の景色がよく見えるように、大き目の窓が一つ存在感を示している。
「オメ マテ」
(マテ……? 「待て」ってことか?)
男たちは、そのまま後方車両の方にはけてしまったので、健司は命令通り(?)部屋の中で待つことにした。とりあえず、近くにあった椅子に座る。多少かび臭く、埃っぽくもあるが、あの荒野に比べれば比較的快適だった。
(とりあえず、喉が渇いた。なにか、水とかないのか)
いったん落ち着くと、ふたたび飢えと渇きを思い出し、部屋の中を物色する。するとその時、二段ベットの上から声がした。健司は、ビクリと体を震わせて、声のした方を見る。眼鏡をかけた、自分と同じくらいの年齢の男だった。
「おや、新人さんですか?」
「は、はい。そうで―――え?」
男が突然日本語をしゃべりだして、健司は腰が抜けるほど驚いた。同時に、初めてコミュニケーションの取れる人間を発見して、心の底から安堵した。
「驚くのも無理はない」
男はそういうと、二段ベッドからするすると降りて、健司の前でお辞儀した。見ると、かなり痩身な男だ。
「私は、セセーと言います。あなたは?」
「お、尾張健司です」
セセーと名乗った男は、にっこりと笑い健司の手を取った。外見は、黒い髪、黒い瞳、肌色の肌と、典型的な黄色人種。もっと言ってしまえば、完全に日本人なのに、名前だけは、なぜか日本人らしくない名前だ。
セセーは、値踏みするように健司を眺めた後、口を開いた。
「あなた、日本人ですよね?」
「はい! そうなんです。でも、ここはどこですか?」
「ああ、ここですか? たぶん、『異世界』かと思われます。実はね、私も元日本人なんですよ。あなたと同じようにね、健司さん」
「異世界!?」
健司は、あまりに突飛なセセーの発言に素っ頓狂な声を上げた。
「はい。私がここに来たのは、おおよそ6年前。まぁ、今だからこそ話せますが、私、元劇団員でして」
劇団員という言葉を聞いて、健司はセセーの演技くさい言動に軽く納得した。
「健司さんが、どのように来たかはお尋ねしません。しかし、私の場合――自殺でした」
「……」
「ああ、いえ。あなたを困らせる気はなかったんですよ。もう笑い話です。まあ、夢破れたりってやつですよ。そのまま勢いで自殺しちゃって、ほんとくだらない理由で、ねぇ」
健司は、心臓をわしづかみされたような気分で、セセーの話を聞いていた。「自殺」。その言葉は、いまの健司に最も関係のある言葉だった。「夢破れたり」というのも、当てはまらないわけではない。
健司は、しばらく沈黙し、一度深く息を吸い込むと、思い切り吐き出した。この話を長々と聞いてはやばいと、考えた。
「ま、まあ。セセーさん。その話は後にして、何か飲み物とかありませんかね? 実はこの……異世界、に来てから何も口に入れてなくて」
「ああ、そうですね。失礼しました。『セート』に取りに越させましょう」
そういうと、セセーは立ち上がり、ドアを開けて「セート!」と後方車両の方に呼びかけた。しばらくすると、例の大男がやってきた。
「セーセ ナニ イル?」
「水」
「リョカイ」
すると、大男は、欠けたマグカップになみなみの水を入れて持ってきた。セセーは、それを受け取ると、大男に部屋の外で待つように促した。
「はい、どうぞ。大丈夫です。煮沸消毒してありますから」
「ありがとうございます。あの、彼らの言葉が分かるんですか?」
健司の質問に、セセーは幾分機嫌がよさそうに答える
「勿論、だって私が教えたんですから」
「え!?」
「馴れ初めは省略させていただきますが、彼らに言葉と文字を教えたのは私です。だって、私の名前をよく聞いてごらんなさい、『セセー』は「先生」『セート』は「生徒」。基本的な動詞や名詞は全部日本語がなまっただけです」
健司は、口をあんぐりと開けたまま、固まってしまった。確かに、思い返せば「マテ」や「イル」などは、完全に日本語だ。
「……じゃあ、あの小麦の木箱に張ってあったラベルもあの大男たちが?」
「いえ、それは違うんですよね」
セセーは依然、ニコニコしたままだ。
「私の知る限りでは、この線路の先にあるウェリス王国。すくなくともそこでは、日本語が通じます。通じるというか、彼らの母国語もおそらく日本語です」
健司の胸にも希望の光が差し込んできた。彼は自分が自殺したことも忘れて、生き延びられそうな場所に行けることを喜んでいた。
「ちなみにそのウェリスというのは?」
「この地域で最も強大な王国ですよ。人口も娯楽もウェリスの都、メルレアンが最先端でしょうね」
「そこにはどうやって行けば?」
「しばらく、この列車に乗ってなさい。明日の夜明け前にはメルレアンの近くまで行けますよ。その時に、降ろせと言ってくれれば列車を止めましょう」
セセーの助言に、健司は心底感動し、頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございます」
「いえいえ。あと、この列車の住民にも仲良くしてあげなさい。男が4人に、女が7人の大家族です。小さな子供はまだいませんがね。彼らは確かに体格はいいですが、あなたのことを取って食ったりはしませんよ」
「ははは、それはちょっとブラックジョークが過ぎますよ」
「ふふ、そうかもしれませんね。あ、そうだ、案内役に一人つけましょう。この集落の一番若い娘です」
セセーは、再び立ち上がり大男に命令した。男が立ち去った後、何やら部屋の外で、甲高い少女の声が響いてきた。
「セセー ニケ キタ!」
勢い良く開けられたドアから、「ニケ」と名乗る少女が姿を現した。しかし、健司はニケの姿を見た瞬間思わず目をそらした。彼女もまた男と同じように上半身裸なのだ。健司は、なるべく胸を見ないようにして、ニケに挨拶する。
「よ、よろしく」
「ヨロシク!」
たしかに、簡単な日本語は通じるようだ。
「ニケ、健司さんに中を案内して」
セセーも、彼らが聞き取りやすいようにゆっくりとしゃべる。ニケは、しばらくセセーの言葉を咀嚼するように頭を巡らせたあと、大きく、ウン!と頭を縦に振った。ちなみに、その時に胸も揺れた。
「そ、それじゃあ。俺はこの辺で失礼します」
「ええ、お気をつけて」
健司は、ぎくしゃくした様子で立ち上がりドアの方に向かう。その時、ふと思うことがあって、セセーの方に振り向いた。
「そういえば、セセーって「先生」って意味なんですよね?」
「ええ、そうですよ」
「じゃあ、セセーさんの本名って――」
「――捨てました」
セセーは、急に神妙な顔になって、健司をまっすぐに見つめた。その視線に心底うすら寒い不気味な何かを感じて、健司は何も言わず、ニケと一緒に部屋を後にした。