量子論の嘘
量子論は嘘っぱちだ。
それを知っているのは、世界数多の学者の中でも、ほんの指折り数える程だ。
怠惰で受け身がちな学生時代を送ってきた殆どの理学生たちは、例え教授や研究員になっても、その巧妙に編み込まれた極微の誤りを明かすことができない。本当に学問を愛し、その裸体の余すことなく愛撫した者でない限り、量子論と言う偽りの姿を剥がすことは不可能なのだ。
量子論と言えば、シュレディンガーの猫やら、不確定性原理やらが有名だろうが、ここで量子論と言う謬説を挙げるに至った最大の要は「多世界解釈」である。
多世界解釈とは、読んで字の如く、『多世界』即ち幾多のパラレルワールドの存在を仮定して、宇宙を解釈する理論である。不確定性原理から繋がり、あらゆる粒子の位置を、または運動量を収束させた結果について、それが確率的に示されることは、私たちに、未来のあらゆる可能性を提示する。
世間の殆どの理学生はこの認識を正しいものだとしているし、また耳にかじっただけの一般人もこれを受け入れている。
この解釈は、実際には誤りだ。計算してみればわかる。数多並列される式の、たった一ヶ所だけが、間違っている。しかし、この誤謬は真に学問に精通したものでなくては見抜けない。当然だ。これは、ある種の芸術とも呼べる精妙さで、誰もが信じきってしまう量子力学という理論をこじつけているのだから。
私には分かった。天地が引っくり返る心地がしたが、なんとか堪え忍んで、次の学会に持ち出そうと思った。しかし、学会に予定を通達する段階で待ったがかかった。 早朝、私が自宅でぐっすり眠っていると、呼び鈴が鳴って、私は眠気まなこに玄関扉を開けた。そこに佇んでいたのは、柔和な笑みのスーツ男で「学会の件で話があります。ここでは話し辛いので、車内にて」と言い、私は訝しんだが、路傍のリムジンに理事長の姿が見えて渋々従った。
車内で男が始めて口にしたことは、私の発表が取り下げられたということだった。思わず激昂したが、理事長に宥められてその続きを聞く。
彼曰く、これには拠ん所ない理由があると。
ここからは私の語り口で話そう。
結論から言えば、量子論は嘘っぱちだ。しかし嘘は嘘なりにも、ちゃんとした理由がある。
17世紀前半、かの有名なアイザック・ニュートン氏は、今日の日常レベルの運動を記述する運動方程式や、リンゴのエピソードが有名の万有引力を発見した。稀代の天才である彼は、矢継ぎ早の発見の最中に、ふと信じがたい説に陥った。
実は未来はもう既に決定されているのではないか?
ラプラスの悪魔はこの世で起こる全ての事を知っていると言うが、まさにニュートンは、この物理法則を記述する式たちに、ラプラスの悪魔的予知力を見出だしたのである。
当時は、まだ物理法則の謎が多かったから、それは彼に気を揉ませるだけで済んだが、それから何百年と経って、いよいよそうもいかなくなった。
もし人々が、未来が決まっているということを知れば、彼らの心には常にただならぬ抑圧感を伴うことになる。あるいは、その事実に高揚して、著しい倫理の崩壊、即ち「これが運命だった」という言い訳の下、猟奇的な犯罪が横行しかねない。これは、世界の終焉に繋がる。
この世の秘密を暴く科学者および知識層には、これらの現実を回避する責任があった。故に、その事実を隠す必要がある。しかし、科学が教育課程の中で広まりつつある現実の中、その事実に感付いてしまう人間がいないはずがない。よって彼らは、今流布されている尤もな知識の上に、更に尤もらしい嘘を構築せねばならなかった。これが量子論の始まりである。
後に相対性理論を発表する天才アインシュタインは、光子説を出発点とした、虚論の構築策を提案する。対策委員会はこれを認可。およそ二十年の間、数々の高名な学者が集って、この虚構の構築に取り組んだ。
1905年、アインシュタイン光子説発表。それを皮切りに、物理学史史上最大の戯曲が始まる。量子論の発表。尤もらしい時期を挟みながら、数多くの理論、説を発表していく。ソルベー会議による大学者の集結や、敢えてアインシュタインが否定派に回り込むストーリーも仕立てて、より量子論の信憑性は高められていく。
そして、量子論発足の最大の要、エヴェレットの「多世界解釈」の発表である。これにより人々は既決の未来に怯える必要が無くなった。未来は無限に多岐であり、故に、彼等に秘められる可能性も無限だ。彼等は、明るい未来があるように思われた。その二つの瞳に、輝かしい未来の自分を映じさせた。
一応、これが発表された時点で、大体の仕事は終わりである。あとは、まだ明かされていない量子論の細部を埋め合わせていく作業だ。といっても、量子論は既に完成しているから、案ずることはない。いつ、誰が表沙汰に立ち、尤もらしく(嬉しそうに)発表するかが問題である。
もちろん、大まかなスケジュールは決定している。量子論の難解さを弁ずるため、革新的な発表はできるだけ時期を挟み、見るからに含蓄で聡明そうな老齢の学者が発表する事になっている。あのスーツ男が言うにも、時期に私もその任に着く事になるらしい。だから、できるだけ長生きしてほしいだとか。
それまでの余暇は、無意味で大規模な実験で時間と金を消費するに限る。いや、それは決して無意味などでは――――いや、やはり無意味だ。しかし、この「無意味」に込められる思いは、決して侮蔑的な要素を含まない。実際に、無意味なのだ。もはや有意義・無意味を定義することさえ愚かしい領域だ。全ては決まっているのだから、どうしてそれを「実験のしない世界」と対比し、人間的価値基準を下せるだろうか。
いずれにせよ私は――私たちは――できる限りこの安寧の世を長らく保たせるために(秩序崩壊の世を認めないために)、騙し続けなければならない。これは宇宙を暴き続ける科学者の義務であり、騙される事は、世界中の人々の『来たるべき未来を知らなくていい権利』である。
私は今日も、数多くの無垢な理学生たちの前で、あの有名な電子スリットの実験をやって見せた。壁に干渉縞が浮かび上がる現象に彼等は興奮し、早くも量子論の魅惑に取り憑かれている。今後の講義で、彼等はより顔を紅潮させることになるだろう。決まらない世界、曖昧な世界、自分たちの想像では決して及びようの無かった、計算上の世界。実際は、そんな漠然とした世界では無く、ミクロの世界が、古典力学を携えたまま複雑な入り組み方をしているだけなのに。罪な芸術だと、私は過去の偉人達に讃嘆する。そして、一筋でしか続かない時間軸についても、この際には感動を禁じえない。”運命”だったのだ、無垢な理学生たちがこの偉大なる芸術作品に巡り合うのは。
”運命”。なんと素晴らしい響きだろう。私達は過去の事象に、甚だ強く、因縁深く、遍く結束しているのだ。全てが自分に繋がっている。私(彼等)は宇宙の一部であり、宇宙は私(彼等)の一部なのだ。
そして、私は”運命”に願いたい。
この先、未来の一本道に、きっと世界が当惑することのないことを。
理論上、既に未来は決定されているが、いざそれを垣間見ようとなると、それを計算するコンピューターが間に合っていない。仮にできたとしても、私達、真の法則を知る者は、満場一致で行わないと退けている。それは、恐怖ゆえでもあるが、一抹に”運命”という極めて魅力的な言葉の効果が介在している事を忘れてはいけない。
そう、これは”運命”。
私達は、”運命”に支配されている。
だから怖くない。
”運命”なのだから、恐れるに値しない。
私達は、自らが決めた道を歩んでいれさえすればいいのだ。
人生とはそいういうものだ。
私達が無限の未来を想像する限り、平和な世界は、限り無く未来へ続いていくのだ。
読んでいただきありがとうございました。
ごめんなさい。




