第一話 『神と血と異能』
東京異能特区の夜は、科学の光で満ちている。
だが、その光が届かない地下数百メートル――特区の最暗部にある非公式の実験施設『第七研究所』には、鉄錆と血の臭いだけが立ち込めていた。
「被験体ナンバー〇四二。心拍、急速に低下。……脳波、異常生命反応を検知。拒絶反応が止まりません!」
「構わん、次を注入しろ。超能力者の因子を後天的に定着させるんだ。これが成功すれば、我が組織は『人工の神』を手に入れることになる」
ガラス越しの冷酷な会話が、薄れゆく意識の奥で聞こえる。
拘束台に縛り付けられた少年――神代 漣は、声すら出せずにのたうち回っていた。
漣は元々、異能すら開花しない『無能力者』だった。
人間の脳で科学現象を再現する『異能』。北海道、東京、大阪の三つの特区で日々研究されるそれは、かつて人間が神から与えられた素養の再現だという。だが、漣にはその演算能力が皆無だった。
だからこそ、使い捨ての実験体として拉致された。人間を超えた選ばれし血筋――『超能力』を、後天的に植え付けるための苗床として。
だが、実験は失敗した。
異能の回路を持たない人間の肉体に、神話の化け物の血を流し込んだ結果、回路は融解し、バグを起こした。
「だめです! 細胞が壊死……いや、変質していく! これは超能力でも異能でもない、何か悍ましい――」
――バキンッ。
頑丈な炭素繊維の拘束具が、内側からの暴力的な力によって引きちぎられた。
ガラスの向こうの白衣の男たちが、目を見開く。
「ガ、あ、あああああああッ!!」
漣は床に四つん這いになり、喉を掻きむしった。
痛い。熱い。そして何よりも。
(腹が、減る――)
内臓を激しい酸で灼かれているような、猛烈な飢餓感。
脳が叫んでいた。目の前にある「肉」を喰えと。
「化け物め、処分しろ! 警備班!」
部屋の扉が開き、銃を手にした三人の男たちが飛び込んでくる。彼らは特区の治安維持にも使われる、Bレートの異能者たちだ。
「発火!」
「空気弾!」
男たちの脳内演算によって、虚空から炎と圧縮空気の塊が放たれる。人間の力を超えた科学現象の暴力。
それが、漣の肉体に直撃した。
ドガァンッ!
爆煙が晴れる。だが、漣は死んでいなかった。
肌は焼け焦げ、肉は抉れている。だが、その傷口から、黒い粘液のようなものが触手のように蠢き、急速に肉を修復していく。
「な……再生能力!? そんな異能の申請は受けてないぞ!」
「ひ、人が死なないレベルの傷じゃない、あいつ、人間か……!?」
怯む男たちに向けて、漣はただ本能のままに跳躍した。
弾丸のような速度。異能の演算など介していない、ただの純粋な身体能力の暴力。
「がぁッ!?」
先頭の男の首筋に、漣は牙を立てた。
バリリ、と肉を引きちぎり、 咀嚼する。
血の味はひどく生臭く、嘔吐感を催すはずだった。しかし、今の漣の脳にとっては、何よりも甘美な栄養素だった。
「あぐ、あ、あま、い――」
男の肉が胃に落ちた瞬間。
漣の脳内に、濁流のような「数式」が流れ込んできた。
『──熱量の固定、酸素分子の結合、点火点の設定──』
「これは……!」
喰った男が持っていた、Bレート異能『発火』の脳内演算式。それが、漣の脳に無理やり書き込まれていく。
脳が焼き切れるような激痛。他人の記憶と技術が頭の中に泥足で踏み込んでくる感覚に、漣は悲鳴を上げた。
「がはっ、あ、頭が、割れる……!」
ご都合主義のように、手に入れた力をすぐに完璧に使いこなせるわけではない。あまりの過負荷に視界が血に染まり、吐血する。
それでも、残った二人の異能者が恐怖に顔を歪めて銃口を向けてくるのが見えた。
「死ね、化け物ッ!」
生きるために、今取り込んだ数式を、拒絶反応に耐えながら無理やり脳内で起動させる。
「……『発火』」
ボッ、と漣の指先から炎が上がる。しかし、それは喰った男のものよりも遥かに小さく、不安定な火花だった。だが、それで十分だった。漣は火花を男の足元の配線に向けて放つ。
ショートした火花が施設の検知器に触れ、スプリンクラーから大量の水が噴き出した。
「しまっ――」
視界が遮られた一瞬の隙を突き、漣は壁を蹴って残りの男たちを肉弾戦で叩き伏せた。首の骨が折れる鈍い音が響く。
これ以上、他人の肉を喰えば、脳が狂って死ぬ。本能がそう警告していた。
漣は朦朧とする意識の中、ガラスの向こうで腰を抜かしている研究員を一瞥し、破壊された隔壁の隙間から、雨の降る地上へと這い出していった。
――異能と超能力。
かつて神が作り、今や科学としてシステム化されたこの世界で。
神の血を浴び、人間を喰らうグール(喰種)となった少年は、冷たい雨に打たれながら夜の街へと消えていく。
それは世界の理に牙を剥く、泥泥の生存競争の始まりだった。




