第一章 勇者、腹痛に散る(物理)
昼下がりの数学の授業ほど、人を追い詰めるものはない。とりわけ——腹痛という刺客が突然襲来したときはなおさらだ。篠原ユウは、まさにその悲劇の真っ只中にいた。教壇では数学教師の田中が黒板に向かって、やけに楽しそうに立体図形の証明を書き連ねている。
「ここで三角柱ABC‐A'B'C'の側面積はでね〜」
(……ちがう……俺が知りたいのは側面積じゃない……トイレの場所……いや、トイレの存在そのもの……!)
ユウの額に汗が浮かび、背筋が震える。教室の時計を見ると、あと五分で昼休み。
(耐えろ俺……!負けるな……!ここでうっかり音とか出したら、この学校でもう生きられない……!!)
友達のタカが心配そうに小声で囁く。
「ユウ、お前顔真っ青だぞ」
「……しゃべると出そうだから黙ってくれ……」
「お前……今日、勇者みたいな顔してんぞ……」
(それはたぶん“覚悟を決めた死相”だよ……)
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴り終わる前に、ユウは席を弾け飛ぶように立ち上がった。
「よしッ!!!!!」
田中が驚く。
「し、篠原?そんなに数学が好きか?」
「違う!!!!!」
そのまま猛ダッシュで廊下を駆け抜ける。風圧で掲示物がバサバサ揺れ、生徒たちが振り返る。
「なんだあれ……?」
「すげー勢い……」
「必死すぎて逆に心配……」
ユウは叫びそうになるのを堪えつつ、最寄りのトイレへ飛び込んだ——。が。
「……え?」
トイレの個室が、ない。昨日まであったはずなのに。壁一面にはただ大きな、丸い光の穴がぽっかり開いているだけ。青白く淡く光っていて、まるで呼吸しているようだ。
「……いやいや、なんで!?いつ改装した!?今日!?てか穴!?普通に穴!?!?」
しかし腹痛は一秒でも待ってくれない。
(ダメだ……マジで限界……!)
光の穴の縁がじんわりと輝き、ふわ…と温風のようなものがユウの顔に当たる。
まるで——「こちらへどうぞ」と誘うように。
「……いや、違う。これは絶対ダメ。
絶対に入っちゃダメなやつ……!」
ドクン!!腹が悲鳴をあげる。
「うあああああ……!!!!もう知らん!!!!異世界でもなんでも飛ばされろ!!!」
やけくそで光の穴に飛び込む。
世界が白く弾けた。
---光が収まると、ユウは石造りの広間に立っていた。
天井は高く、壁には美しいタイル模様。中央には赤い絨毯……そして。王冠をかぶった猫が、玉座に座っていた。
「よくぞ来た、勇者よ」
猫なのに人間のような声で喋る。堂々として落ち着いたトーンだ。
(え、猫……?猫が王様?いやそれより……!)
「トイレ!!どこ!!」
王猫は微妙にきょとんとした顔をした。
「おお、勇者よ……なんと的確な問いだ。トイレはそこだ」
と、前足で巨大なトイレットペーパーを指した。
横には、魔法使い風の少女が立っていた。長い杖を持ち、青いローブをまとい、髪はふわふわの銀色。
少女は軽くお辞儀する。
「初めまして、勇者様。わたしはミリア。
あなたの排泄は、この世界を救います」
「その説明が怖いのよ!!」
しかし、腹の痛みはもう限界突破していた。
「……もうどうでもいい!案内してえええ!!」
ミリアは素早く歩き、ユウを神々しい雰囲気の部屋へ連れて行った。
そこには黄金の便座が光っていた。
(……なんかすごい……俺こんな厳かな気持ちでトイレ入るの、初めてなんだけど……)
王猫の声が部屋の外から響いた。
「勇者よ、安心するがよい。
この王国では“出す”ことは神聖な儀式なのだ」
ミリアも真剣な顔で言う。
「どうか……ご無事に……」
「そんな危険な儀式なの!??」
——しかし、ユウはついに覚悟を決めた。
(……ありがとう……俺の腸……今までよく戦ってくれた……!)
そして、人類史上もっとも情けない形の勇者覚醒の瞬間が訪れた。
――処理後、全てを出し切ったユウは魂が抜けたような顔で部屋を出た。王猫バルサミコ三世が、神妙な面持ちで言う。
「勇者よ……見事だった」
ミリアも感動した目で頷いた。
「あの量……そしてあの勢い……この世界を覆う“腹痛魔神の瘴気”が……浄化されました」
ユウ「え、俺ただ……トイレしただけなんだけど???」
バルサミコ三世は厳かに言う。
「勇者よ。この世界は“排泄エネルギー”が魔力に変換される構造なのだ。お前の腹痛は……魔神の呼び水であり、同時に封印の鍵でもある」
「やめて!!俺の腹痛をファンタジーの重要設定にするのやめて!!!」
ミリアはユウに近づき、真剣な目で見つめる。
「勇者様……あなたはこの世界を救える唯一の存在です」
ユウは叫ぶ。
「嫌だー!!!帰るー!!!」
しかし、少女の瞳は強い意志を宿していた。
「帰る方法も……世界を救わなくては見つかりません。どうか……力を貸してください」
その瞳に押され、
ユウは思わず目をそらした。
(なんだよ……そんな目で見つめられたら……断れないじゃん……)
王猫が高らかに宣言した。
「勇者篠原ユウよ!お前は今日から“トイレ勇者”である!!!」
「称号の響き最悪なんだが!?」
こうして——ひとりの高校生が、腹痛をきっかけに世界を救う大冒険へと巻き込まれていく。




