オオカミさんに気をつけろ!
「ふあ、ぁ……」
それは一瞬の出来事だった。
テーブル越しに、彼は素早く私を引き寄せた。
そして――。
昼間見たのと同じように、彼は私の唇に自分のそれをそっと押し当てたのだ。
お酒とメンソールの混ざった味が、口の中に拡がっていく。
彼は、唇の閉じ目を舌先で優しく撫でながら難なく内に侵入してくる。
「赤野、昼間ガン見してた」
「ちがっ……」
一旦唇を離して意地悪く耳に囁くと、彼は間髪入れずにもう一度深く口付けた。
ゆっくりと焦らすように、彼の舌先が口腔の粘膜を刺激する。思うままに舌を絡め取り、からかうように吸い上げる。
「こういうこと、されたいと思ってたんだろ」
「そ、そんなこと、ないです……って、ふあぁっ」
突き飛ばせば、簡単に離れられる程度の拘束。なのに身体が痺れて上手く彼から離れられない。
「そこ駄目……です」
耳朶に彼の右手が触れ、後れ毛を耳にかけながら撫でる。
彼の指が動く度に、身体の奥から外側へ向け、ジンジンと痺れが伝播してゆく。
あ、やば……堕ちる。
「してくれって言ってるようなもんだぞ」
耳元に響く甘いテノールに、やがて頭の芯がボーッとなってきた。そんな私の状態を、彼は見抜いているのかも知れない。
彼は口角を上げて微笑むと、耳朶を弄ぶのを止めないで、誘っては逃げ、とうとう私から彼を求めさせていた。
どうしよう。身体か……ヘン。
5分と経たないうちに私は、すっかりオオカミさんに絡め取られていた。
『気を付けなさい』
ぼんやりと霞がかかってゆく脳内に、行く前に水野さんが放った言葉が浮かんできた。
ああ、そうか。水野さんの警告はこういうことだったんだ。
大神秋人は手癖が悪い。
知らなかった、そんなこと。
だって私、大神係長のこと、厳しくて苦手だったから。嫌われてるって……思ってたから。
さっきまで、山ほど聞かされたクズエピソード。遊ばれている、揶揄われてるって解っているのに止められない。
「ホテル、戻ろっか?」
幾度目かのキスの後、彼は私に愉しそうに問いかけた。
「ん……」
ダメだよトーコ、そっちに行ったら危ないよ!
良心が、本能が危機を告げている。
それなのに、圧倒的なフェロモンを前にして頷かずには居られない。
*
時計は既に11時を回っていた。
もう4時間以上、私達は飲んでいたというわけだ。
私は、殆ど大神さんに支えられるようにしてその居酒屋を出た。
キスに酔わされ、すっかり膝に力が入らない私の肩を抱いて、彼はご満悦の様子だ。
新人の部下を酔わせておいて、出張先でお持ち帰ろうだなんて、なんてサイテーな奴なんだろう。
まあ、付いていく私も私なのだが。
してやられた感は否めないが、見てくれだけはSSR級のこの男、道行く人にちらちらと振り返られるのに悪い気はしない。
ああ、そう言えば私、こういうのは半年ぶりのご無沙汰だったっけな。
ふと、この春別れたばかりの彼の事を思い出す。
ハヤト君。アイツも逆の意味でひどいヤツだった。びっくりするくらい淡泊で、その気になるのも一か月に1度のペース。
だが、例えそれがたった15分で全てを終えるタイパ重視の超省エネ、エコロジーセックスであっても私には貴重な潤いだった……。
「ハヤトくんの、ばかぁ」
ああ、なんて不憫な私。思わず涙が頬を伝う。
「よしよし、いいコだ」
それに気づいた大神さんは、すかさず人指し指で優しく拭ってくれた。
私の昂りを冷まさないように、彼は時折耳朶を軽く食んだりしながら、私たちは夕方一度来たホテルのエントランスに差し掛かった。
ああ、もうどうなっても構わない。いっそ滅茶苦茶にして欲しい。
思いっきり遊び慣れてそうな係長なら、見たことも聞いたこともないような、めくるめく快楽の世界に私を連れて行ってくれるのだろう。
妙な期待を抱きつつ、彼の身体にしなだれかかったその時だった。
「ちょっと、ちょっと待ったあ!!!」
ポンヤリと顔を上げた私の目の前に、大きな体躯が立ちはだかった。
「お前っ……くま、の? お、お前どうしてここに」
「きっっ……さまぁ、大神いぃ!」
驚きに目を丸くして大神さんが問いかけると、身体を震わせ、熊野主任は今にも飛びかからんばかりに捲し立てた。
「こないだの同期会の時、俺言ったじゃないか! 俺がトーコちゃんを好きだって。それなのにこんな……。お、お、お前には、友情ってもんがないのかぁっ」
「はあぁ、友情だぁ? 気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ。ってかさお前、何で今ここにいるんだ。仕事はどうした、仕事は」
急に『係長』の顔に戻った彼は熊野主任に詰問した。
「うぐっ、薄情者め。貴様とトーコちゃんが……ふたりっきりの、泊付き出張だなんていうからさ。……朝から静岡に張り込んで、お前逹が支社を出てから……ずっと見張ってたんだよ……」
熊野さんは少し顔を赤くして、所在なさげにモゾモゾと体を揺らした。
「なるほどな。なら、飲みにいく前に感じた視線は、お前だったという訳か」
「その通りだっ、悪いかっ」
ふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らした大神さんに、熊野さんはあっさりと開き直った。




