オオカミさんの憂い
社長夫人の白い別荘を出た後。
本土行きのフェリーで静岡市内に移動した私達は、支社の関係部署で明日の会議の打ち合わせをし、夕方6時には今日の予定を終了した。
「遅いっ!」
「ひぃっ、スイマッセーん」
うん、予想通りの展開。
別荘から後、ずっと無表情かつ無言だったオオカミさんは、支社のエントランスを出るなり大きな声で怒鳴った。
「ったく、ギリギリ間に合ったからまだ良かったものの……あと1分遅れてたらどうなっていたことか」
「ど、どうなってたんです?」
「アホ、俺の口から言わせんな」
ブルッと身を震わせたオオカミさんに、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「だって、まさかあんなコトになってるなんて、思わないじゃないですか。いいんですかその……もし、社長に知れたら」
「ああ、社長は大丈夫だ。……寧ろそれを望んでるのさ」
「んなバカな!」
にわかには信じ難い台詞を吐くと、彼は苦々しげに地面を蹴った。
「あのな赤野、ここだけの話だが……。社長には、秘書課の松嶋さんを含め、社内に少なくとも4人の彼女がいる」
「ええっ?! で、でも確か松嶋さんって」
大神さんの彼女じゃなかったっけ?
目で語りかけた私に、彼は言い含めるように告げた。
「俺はダミーだよ。その上俺に、奥様にまであてがおうとしやがって……くそっ」
憎々しげに石コロを蹴っている彼は、いつもと様子が違っていて、ちょっとだけ話しやすい。
「うわぁ、ドッロドロの愛憎関係ですね~」
「そうさ、そして、社長にとって俺くらいの奴は、せいぜい使いやすい捨てゴマだ。奥様の機嫌がよければそれでよし。万一関係なんか結んだら、俺をクビにして奥様を離婚に持ち込めばいいからそれもまたよし」
「なるほど〜、いわゆる出世の世渡りってヤツですか。大変だなぁ」
「ああ、その通りだよ」
全くもってらしくない。軽口を嗜めもせず、私なんかに愚痴った挙げ句、シュンとして落ち込んでいる。
気の毒だなあ、大神係長。
私だったら、そんなの絶対嫌だけど。
そういったストレスもあって、係長は私にあんなに厳しく当たるのだろうか。
だとしたら少し可哀想な気もする。
人当たりの良さが売りの私は、日頃の仕打ちもコロッと忘れ、極限まで落とした彼の肩をトントン叩いて慰めてやった。
「まあまあ、元気出してくださいよ。それだけの上昇志向をお持ちの係長になら、きっといいことありますって」
「そうさ、毎日がクビか出世かの綱渡り。なのにお前ときたら毎日ノーンビリと……ん?」
「? どうかしました?」
彼が急に後ろを振り返ったので、私も一緒に振り向いた。
「いや、なんか……誰かに見られていたような……あ、ホラ今。何か妙に慣れ親しんだ気配が」
促されるまま彼の指先を追ってみたが、それらしい影は見当たらない。
「別に何も?」
「そうか、ならいいが」
「気のせいですって、疲れてるんですよ係長。あ、見えました、あのホテルですよ。早く早くっ」
私は努めて明るく言うと、まだしきりに後ろを気にしている彼の手をとった。
ともあれ、今日が無事に終わったのだ。早くこの緊張から逃れたい。
「うわ、待てって。お前元気だなー」
「はい! 元気はアフターに溜めてますんで」
聞き捨てならない台詞とともに、私はオオカミさんの手を引いて、今夜の宿まで小走りに駆け出した。
ああ、ようやく1日が終わる。
長かった……。この気詰まりから、ようやく開放される瞬間が来たのだ。
私は、感慨も深く本日の宿となるビジネスホテルを見上げた。
「それでは大神係長。ご機嫌よう、また明日」
スチャッ。
エントランス前でオオカミさんに軽く敬礼。さあて、ベッドでゴロゴロしながら動画チェックするぞー!
すると、大神係長は片眉を上げていかにも不可解といった顔をした。
「はあ? 何言ってんだよ。この流れなら飯行くだろ、普通」
「はひ?」
コヤツ、何を言い出すかと思えば。
付き合い飯など冗談じゃない! 内心の動揺を隠しながら、私はニコニコと愛想笑いで切り返した。
「イエイエ、とんでもございません。私、今日は少々疲れましたので、ご遠慮させて頂きたく……」
彼は私の腕をむんずと掴んだ。
「まあ、そう遠慮するな。奢ってやるから付き合えよ」
「いや、遠慮も何も。私にも自由権というものがね……」
「分かった分かった、いいから行くぞ。くそー、やってられるか、今夜は飲むぞー!」
「えーー!」
分かってない、全っ然聞いてない!
まあでも……。
彼のヤケクソの原因は、私のミッション失敗に端を発している部分も、半分くらいはあるわけで。
……やむなしか。
普段の怜悧さをかなぐり捨てて、大股に鞄を振って歩く彼の背に何とも言えない悲哀を感じた私は、黙って後ろに従った。




