ふたりのナイト
「あ……」
離された唇を惜しむように瞳を潤ませる燈子を、彼は熱を籠めて見つめた。
「君は、不思議な魅力を持った女性だ。浅はかに見えて懐が深く、臆病に見えて勇敢だ」
「そんなの、買い被りです」
フルフルと小さく首を振る燈子に、彼は熱く語りかけた。
「食事の時に言ったことは嘘じゃない。ついお喋りになって、出会ったばかりの君に、あんな昔話を。こんなことは初めてだ。僕は……真に安らげる場所を、ようやく見つけられたのかも知れない」
彼の大きな掌が、燈子の肩をしっかりと掴んだ。
「君さえ良ければの話だが。これから二人で過ごせる部屋を取りたいと思う。今夜だけでなく、これからは僕の傍にいてくれないか? 仮初めでなく、《《本当の恋人》》として。僕は、君ともっと話がしたい」
どくん。
燈子の心臓が大きく跳ねた。
私が。私なんかが、この男に望まれている。彼の沢山の恋人のうちの一人として。
今朝方、垣間見た情景。
この人にあんな風に愛されたなら、私はどうなってしまうんだろう。
それだけじゃない。
社長の傍に居たならば、今は即席メッキの私でも女性として確実にグレードアップ出来るのだろう。
姿勢、話し方、マナー……。
それこそ今夜話してくれた映画のように、経験豊かな優れたレディに。
そうしたら__。
とても手が届かないと、最初から諦めていた人でさえ、やもすれば振り向いてくれる日がくるのかも知れない。
鼓動が一気に早くなる。
彼はもう、微笑んでなどいなかった。真摯な瞳で、燈子をまっすぐ見据えている。
燈子は、心を決めて顔を上げた。
「私……。私、ヒトシさんと、今夜いっしょに過ごした——」
「いよお、トーコちゃん!!」
刹那。
しんと静まった夜の公園に、聞き覚えのある大きな声が響き渡った。
ほぼ同時に、植え込みからガサガサっと音がして、ふたつの大きな影がぬぬっと現れる。
「く、熊野さんに……大神課長?!」
目を丸くする燈子。
「いや、奇遇だなあホント。な、大神?な?」
「あ、ああ」
燈子の前に、社長がすっと立ちはだかる。
「どうしたんだね、こんなところで」
熊野はわざとらしく驚いてみせた。
「ややっ、これはこれは、三鷹社長ではありませんか~。すみません、お楽しみのところ……じゃねえや、お取り込み中……あ、これも違う」
熊野は、明らかに挙動不審な様子で大神を振り返った。
(おいコラ大神、なんとか言えよ。こういうのはフツー、お前の役目だろ?!)
「……」
ペコペコと頭を下げながら、苦しい言い訳をする熊野の横で、大神は不貞腐れたように黙りこくっている。
「いやいや、近くの店でこいつと飲んでいて、飲み過ぎちゃいまして。ちょっと酔い覚ましに散歩でもってことで。あ、同期なんですけどね、俺たち。いや~偶然だなあ、ホント。『え~っ、あれ赤野じゃね?』なんつってね」
「そうかい、君達は仲が良いんだね」
チラチラと腕時計を見ながら、早々に会話を切り上げようとする社長に、中身のない世間話を無理やり引き延ばす熊野。
その傍らには、さっきから何か言いたそうに燈子をチラ見しては、ぱっと目を逸らす大神がいる。
そんな様子を呆然と眺めていた燈子は、不思議な感覚に囚われていった。
まるで、がんじからめに自分を縛っていた鎖がひとつずつ解けていくような、うっすらと自分の周りを覆っていた霧が晴れてゆくような。
そして次の刹那。
燈子は、自分でも全く予想外の行動を取っていた。
「お、お、大神さぁん!」
何と突然大神の元に駆け出して、その懐に飛び込んだのだ。
「え」
一瞬、辺りが凍てついた。
会話を続けていた社長と熊野がスローモーションのように振り返る。
飛び付かれた大神と、飛び付いた燈子までが、驚いたように互いを見ている。
「トーコ……ちゃん?」
熊野が掠れた声で呟く。
それを合図に、戸惑いながらも大神は、燈子の細い肩をしっかりと掴み、自分の側に引き寄せた。
唇を引き結んで、ふたりのライバルを睨み付けたまま。
やがて。
静寂を破って、社長が愉快そうに笑い始めた。
「はっ、ハハハハ。なんだなんだ、そういうことか。熊野君と……大神君?」
「いや、まあ」
「……」
バツが悪そうに頭を掻く熊野に、慌てて離れようとした燈子を、ぐいっと引き寄せる大神。
「え、え?」
何だコレ、どういうコト?
戸惑っている燈子に、三鷹社長は柔らかい視線を投げた。
「君にはもう……ナイトがふたりも居るんだね。どうやら、私の出る幕はないようだ」
「え? ナイトって?」
「大神くんに、熊野くん」
「は、はい」
「彼女は——。私の大切な女性だ。しっかり家まで、送り届けてくれるかい?」
「はっ、承知しました」
スッと燈子から離れた大神は、すかさず綺麗なお辞儀をした。
隣で熊野が、慌ててペコッと頭を下げる。
次に社長は燈子に向きなおった。
「燈子、いい夜をありがとう。……君と話が出来てよかった。君は私に、とても大切で懐かしい時を思い出させてくれた」
「ヒトシ……さん」
彼は、慈父のような眼差しを向けて、燈子のサラリと髪を撫でた。
ああ、もう本当にお別れなんですか?
目で訴えている燈子に、彼は黙って〝ああ〟と頷いた。
クルリと踵を返すと、後ろ手に軽く手を振った。三人が見守る中、暗闇に、大きな背中が消えていく。
途中、ふと思いついたように振り返った。
「ああそうだ。大神君、秘書課に伝言を頼む。『明日は休暇』と。久しぶりに、妻の顔が見たくなった」
「ええ……承知しました」




