一夜の恋人
「少し歩こうか」
レストランを出ると、すぐにタクシーを呼ぶことなく、彼は往来を歩き始めた。
腕を組むことも手を繋ぐこともなく、お互いが無言のまま寄り添って人通りの多い大通りを反れてゆく。
お別れの時が、近づいている。
あともう少しで魔法は解けて。自分はもとの一般人、いつも通りの〝赤野燈子〟に戻っていくんだ……。
そう思うと、燈子の胸はぎゅうっと痛む。
けれど。
たとえほんの気紛れでも、一時の素敵な時間を私にくれた貴方のために。せめて最後は最高の笑顔でお別れしよう。
ありのままの赤野燈子で。
だって今夜は。『さようなら』を言うまでは、私は貴方の恋人なのだから。
切ない心のうちを気取られぬよう、燈子は努めて明るく話し掛けた。
「そうだ、ね、ね! シリトリしましょう、ヒトシさん」
「は?」
三鷹社長は歩みを止めて、不思議そうに首を傾げた。
「あ、嘘。やっぱりいいです」
しまった、ちょっと空気を読み間違えた。社長はやはり、大神課長のようにはいかない。
しかし彼は、燈子に向かって優しい眼差しを向けた。
「いいよ、やろうじゃないか」
「え、いいの!?」
目を丸くした燈子に、彼はフッと微笑んだ。気が変わらないうちにと、燈子は急いでゲームを始める。
「じゃあ私から。いきますよ~、『シリトリ』」
「リス」
「す、す……スイカ!」
「カラス」
「うえっ、また『す』? ス、ス……よーし、『スイス』! さあ、どうします?『ス』返しですよ~」
「う~ん……困ったね」
社長が天を仰ぎ見ると、燈子はワクワクと言葉を待った。
暫くして。
「思い付かない、私の敗けだ」
「やだ、まだまだいっぱいありますよ~、
例えば、スパゲッティーでしょ? スープに、スライスチーズ、スモモ」
指折り数える燈子に、社長はのんびりと笑った。
「ハハハ、食べ物ばかりだな君は。いや、教えて貰った時点で私は敗け。このゲームは君の勝ちでいいよ」
「や、やったあ、それじゃあ、私の勝ち!」
釈然としないまま、燈子は右手の拳を上げた。彼はそれを優しく見守るような瞳で見つめている。
気がつけばふたりは、小さな都市公園に足を踏み入れている。あたりには他に人影はない。
それを見計らったかのように彼は、胸ポケットから小さな皮のアクセサリー袋を取り出した。
「じゃあこれは……君の戦利品だ」
「え、そんな。これ以上——」
何も貰えません!
告げようとした言葉は、ゆったりと深い声に遮られた。
「着けてあげる。目を閉じて?」
「あ……の」
響きは柔らかいが、有無を言わせない強いトーンに、燈子は思わず瞳を閉じた。
肩に下ろした髪が、耳元からそっと持上がる。
首の後ろで彼の指が器用に動いているのが分かる。まるで愛撫されているかのような、何とも言えない擽ったい気分。
「さ、出来たよ」
首の後ろから指の感覚が離れ、名残を惜しむように燈子がうっすら瞳を開けた、その時だった。
「燈子」
「ヒトシさ……ん」
ふいに抱き寄せられたかと思うと、唇同士が重なった。
と、歩道沿いに続く向こうの街路樹の茂みから猫が喧嘩でもしているのか争うような威嚇音と、バキバキッと若木の折れる音がした。
そんな外の雑音はシャットアウトされ、燈子の五感は、内側に向かって研ぎ澄まされていく。
「う……」
彼の舌が優しく唇をなぞっている。
小さく開いた処から、舌先を挿し入れ、燈子のそれを転がすように、ごく浅く絡ませる。
なされるがままにそれを受け入れながら、燈子は内心驚いていた。
う、嘘みたい。
私、社長とキスしてる。
そう言えば、最後に男の人とキスしたのって一年も前だ。しかも相手、大神さんじゃなかったっけ。
今でもハッキリと覚えている。
彼の半ば強引な、情欲を煽るそれとはまた違った、もっと余裕のある大人の男の口付け。
相手の様子を窺いながら、望むままに欲しがる程度快楽を与えてくる、麻薬のような。
ダメだ、これは癖になる。
身も心も、彼の方へと靡かされてゆく。
やば……陥ちる……。




