絶体絶命
にしてもコイツ。
さっきから一体、何の匂いを発してるんだ?
いつもつけているフローラル系のコロンとは違う、甘ったるくて、まるで脳幹を直接揺さぶられるような甘い香り。
さっきも俺は、これで頭がボーッとして……。
まっ、まさか! これが噂のフェロモンというやつか。この俺が……色気ゼロのこの女のフェロモンにヤられたてしまっただと!?
己の気持ちを自己完結しつつある大神が、一人で狼狽えていたところ。
(課長……課長…ハァ)
下からか細い声が聞こえてきた。赤野燈子だ。
(こら、声は出すなよ。勘づかれる……って、どうした赤野!)
眼だけを下を向けた大神は、すぐにその異変に気がついた。
何と燈子がぐったりとして、自分の腕に縋ってきている。
(お、おい、大丈夫か?)
(息が……苦しくて、熱い……ハァ)
(な……!)
そういえばここは、空調の効いた部屋の中のそのまた密室。只でさえ暑い上に、温度急上昇中の大神と密着しているのだ。
苦しい息の下、燈子が懇願した。
(す、すみません課長。ちょっとブラウスの……上のボタン……外してもらえませんか? 狭くって、手が動かせなくって)
(は、ハイイイ?)
な、何を言い出すんだこのコは! そんなことしたら俺の理性は!
皮肉なことに、大神の体温はもう0.5℃上がってしまった。むわっとした熱気が、狭いクロゼットにたちまち充満する。
(ババババカかっ、そんなコト出来るわけがないだろう!)
(そこを何とか。出来れば…ブラのホックも外して……。息が、息が出来ない)
荒い息の下、やけに色っぽい声で訴えかける燈子に、大神の欲情は危険領域に達しつつある。
(だ、ダメだ!出来るわけがない。そんなことをしたら……)
(そこを何とか…お願い……私……もう限界)
(お、俺だって……もう限界だっ)
(……はぇ? 何が?)
(ナニがだよ!)
ガタガタッ。
それぞれが違う方向に限界に達していたふたりは、自分達の声や音がつい大きくなっていることに気がつかない。
その頃、クロゼットの外では――。
「……ホラね、やっぱり声が聞こえるでしょう?」
「原口くん、もうそれはいいじゃないか。それよりも。早いとこ終わらせないと、私が専務に怒られる」
ヒステリックな原口のジェラシーに半ばうんざりしている三鷹社長は、さっきから役員会を中断させていることをしきりに気にしている。
常日頃、彼がそろそろ自分に飽きてきていることを感じ取っていた原口嬢は、そんな彼の態度を曲解した。
「そんなこと言って。……ヒトシ君、実は私以外の子を隠してるんじゃないの?」
「は? バカだなあ、そんなことがあるわけがないだろう」
「嘘! なら証明して。あの扉、開けてみせてよ!」
社長は、長い溜め息を吐くと、諦めたように彼女から身体を離した。
「やれやれ、解ったよ」
絶体絶命――。
ようやく外の事態に気が付いたクロゼット内のふたりは、真っ青になって慌てていた。
(どどどど、どうしよう、赤野)
(かかかか、課長、落ち着いて)
(ウワ~、もう終わりだっ。これまでの努力が水の泡だ! 『島K作』ばりの出世コースがぁ!)
(課長ってば)
すっかり取り乱している大神。
いつも怜悧な彼の慌てっぷりに、燈子は強く責任を感じた。
大変だ。いつもは冷静なオオカミさんが、ひどいパニックに陥っている。私の間抜けなしくじりのせいで――。
ここは私がボスを、大神課長を護らなくちゃ!
普段は小心者、チキンハートの持ち主の燈子だったが、いざという時、妙に肝が据わっているところがある。この時、彼女の子分魂は、切羽詰まった大神を救うため、鋭い閃きを賜った。
(課長! ここはひとつ、私めにお任せ下さい!)
(え?)
(まず課長は、右側のなるべく隅に張り付いていてください)
(こ、これでいいのか、赤野)
蜘蛛のようにピタリと隅にくっついた大神が、怪訝そうに訊ねると、彼女は至極冷静に返す。
(上出来です)
次に彼女は、大神が隅に避けたことで広く空いた扉の真ん前にスタンバイした。
(いいですか? 何があっても、決してそこを動かないように)
(お前……、一体、何をするつもりだ?)
(お静かに! 社長が来ています)
目の前の扉には、既に社長の気配がある。
燈子はスウッと深呼吸した。
親指をたて、大神には見えないであろうウィンクを1つしてみせる。
(では大神課長、逝って参ります。 グッドラック!)
(あ、赤野……)
とうとう社長が取手に手をかけた。
カチャ。
クロゼットに細い光が射し込んだ。
せーのっ。
「ふ、ふぎゃあぁぁっ」
「う、うわっ!」
扉が開くか開かないかの瞬間。燈子は奇声を発しながら、思い切り社長に向かってダイブした。
わざとぶつかって社長を押し倒すと、ほどよく締まった腹の上に乗り上げる。
それからちらっと後ろを見、狙いを定めて足を突っ張ると、クロゼットの扉をさり気なく閉じた。
一瞬だけ、中の大神と目が合った。
良かった、足の長さが足りて。
燈子がホッと胸を撫でおろしたのも束の間。
目の前には白けた顔つきの社長と、蒼白な顔色で立ち尽くす彼の愛人、原口ミユが居た。
「……」
「……」
「……えへっ」
間もなく。
「しゃ、社長の……。ヒトシ君のバカぁぁぁぁ!!」
原口嬢は、着衣の乱れも直さぬまま、社長室を飛び出していった――。




