オオカミさんには気をつけて
そんな灰色の日々を過ごしていた私に、ある日さらなる災厄がもたらされた。
「ええっ、出張?」
「ああ、出張だ」
しかも、係長と1泊2日だと!
私にそれを告げるなり、大神さんはフーッと深い溜め息を吐いた。
憂いを帯びた表情をつくり、やれやれと首を横に振る。
「仕方がないだろ。他のみんなは忙しいし、この課でマトモに仕事してないのは、お前くらいのもんだしさ」
うっ、確かにそれは当たっているが……。
絶対に嫌だ、虐められるもん!
私は、精いっぱいに抵抗を試みた。
「で、でも私、一緒に出張連れて行って頂いても、勉強どころかきっとお役に立てないですよ? そもそも会議のプレゼンならば、係長お一人の方がきっとスマートに進行しますし、出張旅費の経費節減にもなりますし」
「黙れ新人、妙なしゃべり方をするんじゃない。……こっちにはこっちの都合ってもんがあんだよ」
「うっ、急にお腹が……。もしかしたら、持病のストレス性胃炎かも知れません。明日はすみません、とても出張の御伴は出来そうになく」
「そうか、それは良かった。出張は一週間後に伊豆なんだ。分かったらとっとと手配してこーい!」
「うっへえ、は、はいーっ」
オオカミさんの、奥歯にものが挟まったような言い方を気にしながらも、勢いで走り出そうとする私。
すると、近くで聞き耳を立てていた水野女史が、キラリと眼鏡を光らせた。
「赤野さん。……大神君にはお気をつけなさい」
「は? ……はぁ」
気を付ける?
転ばないようにってことかな?
どう返して良いものか分からず、私は踏み出した足を止めて半身だけを彼女に向けた。
ちなみに、水野女史という人は、いわゆる『お局様』のようなタイプではなく、常に怜悧に事態を傍観し、達観している仙人のような女性。
ゆえにこの職場は、女子界隈特有の陰湿なイジメには無縁で、その点ではラッキーだった。
結局私は、愛想笑いで頭を下げて、再び旅行代理店へと走り出した。
そしてその時、走り去る私の後ろ姿を、熊野主任がとても心配そうに見ていたことなど、知るよしもなかった――。
***
さて、出張当日。
「お茶、コーヒー、お弁当などはいかがですか〜」
「わあぁ、大神さん、お弁当売ってますよ、どうします?」
オオカミさんと私は、新幹線の指定席に並んで座っていた。
仕事とはいえ、新幹線など上京した時以来だった私は、興奮気味に隣の係長に問いかけた。
「ばか、遠足じゃないんだぞ」
「む……」
しまった、ついワクワクして、相手が誰だか忘れていた。
さっきから黙々とモバイルPCを叩いていたオオカミさんは、チラリと私を一瞥すると再び手元に目を落とす。
フンだ、いいもん。
自分の分だけ買ってやる。
私はパッと手を上げて、販売員さんを呼び止めた。
「すみませ~ん、お弁当ひとつ……」
「ふたつ」
何だ、本当は自分も欲しいんじゃない。私の注文にすかさずと割りこんだ彼を横目に睨みつつ、私は注文を訂正した。
「すみません、やっぱり2つください」
「かしこまりました。2つですね、2680円です」
マスクのお顔がにこっと微笑む。
「あ、はい。ちょっと待ってね。えーっと」
けっこう細かいな。バッグを探り、私がモタモタしていると、すっと上から万札が差し出された。
「すみません、これで」
「あ、は……はいっ」
スマートに支払いを済ませた彼は、販売員のお姉さんに現金を手渡ししつつ、営業スマイルも忘れない。
ホント、外面だけは完璧なんだよねぇ。
お弁当ふたつを受け取った私は、販売員さんといつまでも手を振りあっている彼の背中に、イッと歯を剥いてみせた。
「何だよ」
「別に?」
何てカンの鋭い奴。くるっと私に向き直った彼に冷や汗をかきながらも、お弁当をひとつと1340円を差し出した。
「あの、ありがとうございました」
「いいよ、それぐらい。それよりも」
お弁当だけを受け取った彼は、静かにパソコンを閉じると、私にお礼を言う間も与えずに、さっさと説明を始めた。
「駅に着く前に、今後の予定を伝えておきたい」
「エ?」




