灰色の職場
「ぅあ~か~の~。これは一体どういう事だ」
「うあいっ、さーせんしたっ」
ヤ○ザだ。
手にしたモバイルPCの画面を見せながら、顔面5センチメートルの距離で迫り、ソイツは私を恫喝してくる。
「いいか? 俺はお前に、資料5ページを修正してくれと頼んだだけだ。それが何~故、5ページが丸々抜けてるんだコラ」
「いやあ~、それがさっぱり身に覚えが無く……。もしかしたらその……保存とデリートを間違えて押した可能性もなくはないかと……」
「やかましいッ! バックアップがあったからこれはまあいいとして……。その間延びした返事はなんだ! ここは、『申し訳ありませんでした』だろうがコラ」
「うあいっ、申し訳ありませんでした~っ」
「語尾を伸ばすなっ! 全く、水野さんが気付いたから良かったものの。このまま役員プレゼン行ってたら、エライ恥をかかされるとこだった。おいコラ、何やってんだ。ポヤっとしてないで、急いで10部、刷り直してこ~いっ」
「うわっは、はいっ」
ハァァ。
嵐、去った。
肩を怒らせ、去り行く背中をチラ見しつつ、私は小さく溜め息をついた。
「私」こと赤野燈子は、この春大学を卒業したばかりのフレッシュウーマン。
厳しい就職戦線を勢いと強運とでくぐり抜け、晴れて都心の大手メーカーに就職したホヤホヤちゃんだ。
4月。
消費税込み40、000円のリクルートスーツに身を包み、8階建てのオフィスビルを見上げた私は、感動にうち震えていた。
ああ、今日からここで憧れの都会生活が始まるのね。
小洒落たオフィスにお手頃ランチ、一流ブランド品に身を固めたイケメン社員との合コンの数々……。
バリバリの中山間地域で生まれ育った私が夢見た華やかなオフィス生活が、ついにここに開幕する……。
そんな思いっきり不純な気持ちで社会人の門戸を開いた私だった。
しかし現実は――。
新人研修を終えた私の配属先は『業務部 業務課』。
女性は私とハイミスの水野さんのみ、男性率は90%。
イケメンスーツはどこへやら、灰色の作業服を着たオジサマばかりの、夢見た洒落っ気などとは無縁の世界が拡がっていた。
それだけならまだいい。世渡り上手な私は、おじさん達にだってそれなりに可愛がられている。(あくまで自己評価)。
一番の問題は先ほどのヤ○ザ上司の存在だ。
灰色の作業服ばかりの中、ただ一人完璧にスーツを着こなす彼は、大神秋人。
主に課の庶務的な仕事をこなすうちのシマの係長で、私の直属の上司にあたる。
総合職で、他部署との窓口や役員との折衝にあたるこいつのみが、男性陣の中ではホワイトカラーにあたる。
ここで敢えて私の恥をさらすと、4月に入ったばかりの頃、ヤツの正体を知らない私は、不覚にも『ああ、ここに配属されて良かった』などと喜んでしまった。
だって、スペックのみで見た彼は、弱冠28歳の社内最年少のリーダー格で、出世コースのエリート社員。顔良し、スタイル良し、将来性ありの有望株。
おのぼりさんの自分としては、ときめかないわけがない。
何より、声がいい。
良く通り、響きわたるようなテノールは、私の心に心地良く響き、その怒鳴り声にさえついうっとりしてしまう程なのだ。
社内の噂掲示板によると、そんな彼は現在、社長秘書で社内一の美貌を誇る松島さんと交際中だそうだが……。
多分デマだ。
そう、ここ数か月で私が思い知ったヤツの本性はさっきの通り。
外面は完璧だが、内向きには恐ろしく口が悪く意地悪な、内弁慶の人格破綻者で、マトモな女がついていくとはとても思えない。
私は陰で、彼のことを『オオカミさん』と渾名している。
一方。
モタモタとデータの修正を終え、急いで印刷機に走る私の肩をポンと叩く手にがあった。
「ドンマイ、トーコちゃん」
「熊野さん!」
今時『ドンマイ』は古いだろう。
苦笑いしながらも、私は弾んだ声で返事を返した。
彼の名前は熊野吾朗、大神係長と同い年の主任クラスで、私達の隣『メンテナンス係』の技術者だ。
学生の頃アメフトをやっていたという彼は、ガテン系の筋肉美を誇る業務課一の力持ち。その上、ガタイに似合わずスイーツ大好きというプ○さんのような癒し系ときてる。
体育会系のサッパリさと鷹揚さを併せ持つ彼は、大神係長に痛め付けられる私にいつもほがらかに接してくれる優しい先輩だ。
密かに、『もしかして、私に好意を寄せている?』などと、自惚れてみたこともあるのだが……。残念ながら彼の優しさは、私だけにでなく万物に向けられているようだ。
どこぞのパワハラ上司とは大違いの性格イケメンの熊野さんだが、何故か二人は同期で仲が良いらしい。私は密かに、『オオカミ』さんに対して『クマさん』と命名して敬っている。
オオカミさんとクマさん。
ここ数か月の社会人経験で、私は確信した。いくら男前が劣ろうと、もし結婚するならクマさんみたいな人がいい! と。
「赤野! 何ボーっとしてるんだっ。305会議室! 5分後!」
「はっ、はひぃ~っ」
なーんて考えを巡らせていたところに、遥か向こうから飛んでくる悪魔の怒声。あえなく私の白昼夢は打ち消され、私は急ぎ作業に戻っていった。




