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プロローグ


挿絵(By みてみん)



東京の下町。

商店街から漂う焼き鳥の匂いと、夕暮れに鳴り響く子供たちの笑い声。そんなごく平凡な街角の一角に、田中家はあった。


二階建ての木造一軒家。昭和の香りをそこかしこに残す家で、外から見れば特に変わったところはない。強いて言えば、庭の植木鉢が無駄に多く、祖母の佐登美が毎日手入れをしているせいで、通りすがりの人から「花屋かと思った」と言われる程度だ。


だが、この家には――表向きには誰も知らない、“もうひとり”の住人がいた。


 ◇


その日曜日。

田中圭吾は部活帰りだった。


真夏の太陽の下で二時間みっちり練習をこなし、汗でシャツが重くなった身体を引きずって帰宅する。靴を脱ぎ捨てるやいなや、鞄も床に投げ、まっすぐ浴室に直行。

――そして、しばしの至福。


「ふぅ……生き返る……!」


シャワーの水が火照った体を一気に冷まし、喉を駆け抜けるスポーツドリンクの甘みが脳を揺さぶる。

そして圭吾は、そのまま素っ裸でリビングに出てきた。


もちろん、家には誰もいない。

祖母と母は商店街に買い物へ。妹は友人とカラオケに出かけている。

平和な日曜の午後、家中を自分の王国とするには絶好の時間だった。


「はぁぁ~~~……」


扇風機の前に仁王立ちになり、全裸で涼む。

羽根が生み出す風が全身を駆け抜け、まるで解放された鳥になったような錯覚を覚える。スポーツドリンク片手に「夏って最高だな」と呟きながら、圭吾はダラダラとした至福に身を委ねた。


――そのときだった。


「……コホン」


唐突に、背後から咳払い。


「!?」


心臓が喉から飛び出しそうになった。

母でも祖母でもない。妹の声でもない。

そもそも誰も帰ってきていないはずなのに。


圭吾は、背筋を凍らせながら振り返った。


そこに――いた。


ピンクの長い髪が陽の光を反射し、艶やかに揺れている。

場違いなほど重厚な金属鎧を全身に纏い、鋭い眼差しをこちらに向ける女。

鎧には細かい文様が刻まれ、腰には剣まで差していた。


どこからどう見ても、田中家の居間にいていい存在ではない。

漫画やラノベでしか見たことがないような、「異世界の騎士様」が、冷ややかな視線を向けてきた。


「……その忌々しいものを、今すぐに隠してくれないか?」


「え……」


数秒の沈黙。

次の瞬間、圭吾の頭に雷が落ちたように理解が走る。


「だ、だ、だ、だっ、誰だお前ぇぇぇぇぇええええっ!???」


全裸のまま後ずさりし、テーブルの角に小指をぶつけて転がりそうになりながら、圭吾は悲鳴を上げる。


しかし目の前の女は微動だにせず、ただ冷ややかに彼を見据えていた。

その瞳は、どこか哀しみを孕みつつも、揺るがぬ鋼の意志を湛えている。


「……騒ぐな。私は怪しい者ではない」


「いや怪しいだろ!? むしろ怪しい以外の選択肢ないだろ!!!」


「静かにしろと言っている!」


女の叱責に、圭吾は思わず口をつぐむ。

それは単なる怒声ではなく、心の奥底を震わせるような“威圧”だった。

彼女が纏う気配は、冗談抜きで本物の戦場帰りの戦士を思わせる。


だが――。


「……ふむ。この茶は悪くないな」


彼女はちゃっかり卓上にあった急須を手に取り、湯呑を口に運んでいた。


「……は?」


圭吾は言葉を失った。

恐怖と緊張を煽るその姿のまま、日本茶を一口すする騎士。

湯呑を傾け、喉を潤した彼女は、満足そうに小さく笑った。


「香ばしく、渋みと甘みが程よく調和している……。これが日本の茶か」


「……」


いや、落ち着きすぎだろ。

ここ、田中家のリビングなんですけど。


「お、お前……誰なんだよ……」


圭吾が恐る恐る問いかけると、彼女は湯呑を置き、姿勢を正した。


「名乗ろう。私はナナ・ローゼンタール・レメディオス。

かつて“聖騎士”と呼ばれ、幾多の戦場を駆け抜けた者だ」


その声音は揺るぎなく、冗談とは思えなかった。


「……聖騎士? え、えっと……それ、コスプレじゃなくて?」


「コスプレ……? 何を言っている」


ナナと名乗った女の眉がわずかに動く。

冗談の通じないその様子に、圭吾は背筋を再び冷やした。


異世界の騎士? 幽霊? いやいやそんな非現実的な……。

しかし、目の前の存在感は否応なしに現実を突きつけてくる。


そして――。


「……ここからは出られぬ。私はこの家に縛られている」


彼女は淡々と告げた。


「……は?」


「私は“地縛霊”だ」


リビングに、しんとした沈黙が落ちる。

田中家に棲みついた異世界の聖騎士――ナナ・ローゼンタール・レメディオス。

その存在は、圭吾の日常を根こそぎひっくり返すものとなる。


この瞬間から、“田中さんち”の平凡な日々は、騒がしくも不可思議な日常へと姿を変えていった。


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