婚約破棄? いいえ、ここから始まる恋愛頭脳戦
婚約破棄ものを書いてみました。
視点制御と地の文中での声色切り替えの実験です。
お付き合いいただければ幸いです。
「婚約はここで破棄させてもらう」
その言葉を聞いて、リヴィア・ヴァレンティーナは片眉を上げた。
「理由はまあ、普段の行いを内省すれば察せられるかもしれないが。……君にはまだ早い。そういうことにしておいてくれ」
冷ややかに語るのは、セドリック・アルヴェイン ――第一王子殿下。
黄金色の髪に高い背丈。
十二歳の頃から飽きるほどに見慣れていた、将来をともにする婚約者、だった。
「さようでございますか、セドリック様。……それはなんとも、大変なことですわね」
姿勢を崩すことなく対峙する。
スカートをつまんで礼を取れば、結い上げた黒髪の後れ毛がしなり、シャラリと宝石を連ねた髪飾りが揺れた。
「どうぞご随意になさればよろしいかと」
宮廷のホールはどよめいていた。
きらびやかに着飾った貴族や淑女たちが輪を作り、ことの顛末を見守っている。
その視線の先にいるのは……
悪役令嬢の異名を持つ――リヴィア・ヴァレンティーナである。
背筋を伸ばして向かい合えば、セドリックの眉が歪む。
ちらりと脇の令嬢に目を向ければ、肩を震わせ扇子を取り落とす。
そこで、小さく息を吐いた。
……やっぱり。友達がいないのが原因なのかしら。
――まったくの、見当違いである!
しかし、そう結論づけるのも仕方のないこと。
この女……生粋の『ぼっち』であった。
生まれも育ちも、由緒正しき公爵令嬢。
その身の高貴さで、家の使用人は目も合わせず、同年代との交流は分家の子女ばかり。
敬われることはあっても、親しくなれたことは一度もない。
だからこそ、この婚約は――唯一の救い。
結婚相手とは、対等なのである。
もちろん、相手はいずれは王になる身。公の場では、立てるべきだ。
だが、プライベートは違う。
話しかけても怯えられず、それで困らせることもない。
つまり結婚できれば……心から願ってやまなかった、『普通』の会話ができるのである。
それにしても、婚約を破棄してどうなさるおつもりなのかしら。
扇子を開いて口元を隠す。
それだけで、場の沈黙が深くなった。
これはいわゆる政略結婚のはずだ。
王に権威を集めるために決められた、大貴族と王室とのつながりを作るためのもの。
なのだから、反故にすること自体、セドリックの利益にならないのではないか。
そもそも、セドリック様が破棄と言って、思い通りになるものではないのではなくて。
目を細めて、表情の読めない顔を確認する。
なぜか自然とホールにできた人の輪が膨らんだ気がした。
婚約破棄を宣言するなど、表面的には意味のないことのように思えてならない。
まるでリヴィアの慌てる様を見るためだけに言ったようですらある。
そこまで気づき、拳を小さく震わせる。
相手は悪名高き高慢王子。
ただの嫌がらせだとしても、やりかねないのではないか。
頬に熱が寄ってくる。
好きにさせるわけにはいかなかった。
……だって、壁を作っている相手に必死にすがるなんて、みっともないじゃない。
セドリック・アルヴェインは観察していた。
絹糸のような黒い髪。切りそろえた前髪と、その奥で光る氷色の瞳。
あらわになった滑らかな肩と、そこから伸びる細い首筋。
妻になるのにふさわしい相手だと思えた。
こくりと、小さく喉が鳴る。
……なぜ、食い下がることなく、ただ退いてしまうのだ。
――とんでもない、自分勝手である!
しかし、こんな行動をしてしまうのも無理はない。
この男、相当に『こじらせ』ていた。
なにせ、この国が誇る第一王子である。
すべてにおいて完璧であるのが大前提。失敗など許されるはずもない。
それなのに集まってくるのは利己主義の権化ばかり。
いつしか、信用する相手は厳選するようになっていた。
だからこそ。この婚約は――ひとつの救い。
結婚相手とは、味方なのである。
もちろん、将来的に妻の実家と対立する可能性はある。
だが、個人の関係は違う。
気を許しても裏切られず、それで恐縮されることもない。
つまり結婚できれば……心から願ってやまなかった、『甘え』られるのである。
まずは、そちらから歩み寄って貰わねばならないのだぞ……
頭ひとつ分は低い、華奢な体を値踏みしながら、口の端がわずかに上がる。
どこからともなく「ひっ」と声を殺すような音がした。
セドリックから胸襟を開いたのでは、誰でも受け入れることが目に見えていた。
たとえ粗雑な扱いをされたとしても、それでも味方になりたいのだと示して欲しかった。
だから。
求める言葉はただひとつ。
……それでも結婚して欲しいと言わせてやる。
あなたの方から、やっぱり結婚したいって言わせて見せるわ。
夜会は、ただの華やかな社交の場ではない。
裏では、政治の怪物たちが言葉を操り、誘導し、罠を張り合っている。
そんな世界で鍛えられた、高貴な血を引く二人の若者の間で、いま静かに火蓋が切られた。
――ここは、戦場なのである!
「それにしても、殿下。婚約の破棄であれば、わざわざこのような場でお口になさらずとも、陛下から父に話をお持ちいただければよろしいのに」
先手。リヴィアの牽制。
瘴気うごめく社交界において、唐突に婚約の破棄を告げられるなど、些事に過ぎない。
幼い頃より徹底的にしつけられる公爵令嬢にすれば、こんなこけおどしに対応できないようでは、家の敷居もまたげないと言われるほどの、初歩の初歩。
「これではまるで、別の思惑があるようではないですか」
もちろん、うまく防げるだけでは不足である。
相手の喉元に切り返せてからが、一人前。
よって……
「たとえば、わたくしを妃に迎えることに怯えているとか……」
――スキル、『煽り』
貴族社会千年の歴史において、もっとも多く使われてきた、基本にして必殺の奥義。
相手の防衛本能をくすぐり、不利な発言を引き出すこの技は、あまりにも使われすぎて、今やマナーと呼ばれる程に常態化していた。
悪役令嬢の異名を持つリヴィアも、もちろん習得済みである。
突きつけた選択肢は二つ。
婚約破棄と一緒に『臆病』であることを認めるか。それとも『撤回』して婚約を継続するのか。
「あらあら、でもまあ、そんなことないですわよね」
煽る。
「きっと殿下のことなのですもの。そのお考えを伺えば、わたくしも父も納得できる理由をお持ちなのでしょう」
煽る!
……追い詰めたつもりだったのでしょうけれど、逆に利用させてもらうわ。さあ、この大勢の前で、『結婚してくれ』と言いなさい!
肌に火照りは感じたが、汗をかくことはなかった。
社交界で『捨てられ令嬢』といったような噂がささやかれてしまえば、致命傷になりえる状況ではあったのだろう。
しかしそれは、巻き込まれた事件のたちの悪さではなく、対処できない力量不足の問題なのだ。
リヴィアには自信があった。
観衆が多いのは好都合。この場で求婚させてしまえば、『愛され令嬢』という噂を広げることもできる。
そうすればセドリックは事実を追認するような行動を取るしかなくなり、『ぼっち』卒業は確定となる。
取った!
そう思えたときだった。
「わかっていないな、ヴァレンティーナ嬢」
後手、セドリックの反撃。
「内省を促したはずだが、改善がみられないではないか」
夜会における煽り合いが、貴族の嗜みであることは間違いない。
しかし、王宮で日常的に腹の探り合いをしている王族にとっては、そんなものもはや、息をするのと同じようなもの。
もちろん、第一王子であるセドリックとて例外ではない。
「こう、向かい合って話しているときですら君は……私と目を合わせようとしていない」
選べる手段など夜空の星ほどにもある。
効くかどうかの次元ではなく、歯牙にもかけない。
それゆえに……
「王家に対しての敬意が足りないのではないかと危惧していたのだよ」
――スキル、『屁理屈』発動。
尊き血族にのみ許された、圧倒的破壊力をもつ最終奥義。
すべての論理の飛躍を許容させ、是でも否でもなく黙らせる決定打となりうる。
獅子は……うさぎを狩るときですら、決して油断をしないのである。
「あくまで一つの考え方だ。ただもし、違うのだとしたら……」
そして、この技は全てを崩すだけではないのだ。
荒野のように開けた大地に、何を築くかを選べるのはまさに支配者の特権。
「まるで……いや。私が言うのは無粋だろう。さあ、いったいどんな感情があるのか、聞かせてくれないか」
大勢の動きを手に取るように感じることができた。
本来、王子に権限のない婚約破棄を貴族たちの前で告げれば、自らの立場を危うくしかねなかっただろう。
しかしそれは、場を御せぬ無能者にのみ当てはまること。
……人目を使う戦略は褒めてやるが、それは私も同じこと。ここでお前が選べる選択肢はただ一つ。さあ、捨てないで結婚して欲しいと答えるのだ。
セドリックには未来が見えていた。
愛のきっかけなど、些細な偶然に過ぎない。そしてそれは、呼び寄せることもできるのだ。
この場でリヴィアを屈服させれば、あとは心を開けばよいだけ。そうすれば、憧れの『膝枕』すら可能となる。
決まった!
そう思えたときだった。
「さすがは、第一王子殿下。ご期待を裏切らぬお振る舞いですこと、セドリック様」
まるで鈴が鳴るように、リヴィアの声が静寂の中を転がった。
「そのように忠誠を疑われるとは……殿下も、ずいぶん大胆でいらっしゃいますのね」
取り囲む貴族も、淑女たちでさえ、身動ぎすることなく構えている。
セドリックは思わぬ迫力に、下がりそうになる足をこらえた。
油断なく相手を見据えると……
リヴィアの顔が――悲しげに揺れた。
「もちろん、これでもわたくしはヴァレンティーナ家の娘ですもの。疑われたままでは名折れでございます。どうか、名誉挽回の機会をくださりませんか」
セドリックの心臓が、大きく跳ねた。
まるで、先程までの威圧が気のせいだと思えるほどの、殊勝な態度。
伏せた瞳からは、まつげのように影が伸びている。
ここにきて、やり過ぎた可能性に思い至った。
王族に不敬を咎められれば、言葉を失うのも無理はない。
「……まあ、構わない」
罪悪感がせり上がり、思わず手を伸ばしかける。
そのとき、リヴィアの口角が上がっていることに気づいた。
……しまった!
遅いっ!
その一瞬の判断の誤りを、リヴィアが見逃すはずもない。
「では、セドリック様。あなたがご所望であらば、どのようなことでもいたしましょう」
――トラップ発動。『誘い受け』
貴族であれば本来ありえないほどの迂闊な発言。
このようなことを口にすれば、骨の髄まで利用されてもおかしくない。
しかし。
この場に限って、その効果は絶大であった。
なぜなら……
「なにを、わけのわからんことを……」
……あれ、もしかしてこいつ、私のことが好きなのか?
そう、この男。童貞である!
王家とはすなわち血統主義。
その家系図は三十代前までさかのぼることができ、血筋の交わりには常に厳密な判断が必要とされていた。
子種を撒き散らすなど言語道断。
一時の過ちも犯さぬように、女性との親密な関係など許されてこなかったのである。
「なんでも、です。……セドリック様。あなたが本当に望まれることは何でしょう。お年頃ですもの――個人的なことであれば、なおのこと。たとえば……わたくしをどう扱うか、今ここでお決めになることでも」
リヴィアの唇が微かに開き、柔らかく光を反射している。
線が細いあごがわずかに持ち上がると、腹の底に熱さが宿った気がする。
……落ち着くのだ。セドリック・アルヴェイン。私は第一王子なのだ……。相手は大貴族の娘、こんなこと日常茶飯事に……いや、言わなくないか……。これは、私がどんなことを言っても受け入れるって意味だよな。え、普通、言わないよな?
視線が勝手に甘やかな瞳とドレスの胸元を往復する。
深読みしようと思えばいくらでもできる言葉が、頭の中を巡る。
駆け引きなどではなく、もしかしたら初めから、リヴィアを求めていたのではないかと思考が鈍る。
指先が動き、その口元が震え、「結婚して欲しい」という衝動が喉を通りそうになる。
そのときだった。
――防御スキル起動。『トラウマ』
セドリックの背筋に強烈な悪寒が走る。
視界が白く染まり、耳鳴りの中に記憶の残滓が呼び起こされた。
ほっほっほ。また失敗しましたな、殿下。……ではまた、体に覚えていただかなくてはいけませんなあ。
奈落のような瞳をした爺やの顔がフラッシュバックする。
……女人と目があったり、物を拾ってくれるのは『好意』ではありません。それはただの『自意識過剰』でございます。
幼い頃から幾度となく繰り返された訓練が、セドリックの思春期の渇望を冷ましていく。
そして震える膝を叩き、下唇を噛んで意識を無理やり呼び戻した。
そうなのだ。本当に好意を持っている女というのは、もっとわかりやすく甘えてくるものなのだ。
「……なるほど、そこまで言うのだ。君の確かな忠誠は受け取ろう」
――耐えた!
……ちっ、さすが帝王教育。お母様は「どうせ男は下半身で考える生き物だ」って言っていたけれど、どうやら格が違うようね。
渾身の技が不発に終わり、扇子の影で奥歯をかみしめる。
悠然と構えるセドリックには、王者の貫禄があった。
公爵令嬢の色香を前にして微塵も揺るがないとは、いったいどれだけの鍛錬が必要なのか。
しかし、そこでふと違和感に気づく。
取り囲んでいた貴族たちも、不審そうに視線を交わしていた。
まさか、プレッシャーが……消えてる?
迷うことなく判断する。
攻め手が途絶えたこの空白を、逃す気はない。
扇子をひらりと返し、一歩だけ間合いを詰めた。
「ありがとう存じます。それで、わたくしは条件を満たしたのでしょうか」
ことさら頬を緩めて問いかける。
すると、セドリックは怪訝そうに眉を寄せた。
「……条件?」
見下ろしてくる視線が揺らいでいる。
この機を逃さず、逃げ場を塞ぐようにさらに踏み込む。
「ええ、今のお話――隣国から王族を招くあのパーティに、出席できるかどうかのテストだったのでしょう?」
皆が第一王子の発言を待っていた。
息もつけない緊張感で満たされていたせいか、微かに見えた騒動の終端に、すがるような目をしている。
「ああ、あれか。それなりに、相手を慎重に決めねばならないからな。しかし、君は……。いや、なにせ公爵家の……」
「――いいえ、伺っております」
透き通る声と評されたことがあった。
ざわめきが漏れ出したホールの中、その響きに少しだけ納得がいく。
「婚約者であるわたくしですらまだ招待状をいただいていないのですもの。たいそう難しい条件なのでしょう。たしか、高い忠誠心と、知性。あとは……あら、なにだったかしら」
肌に張り詰めた空気が触れる。
セドリックの形の良い唇が動く。
「女性であれば、あとはうつく……」
静かに人差し指を立てるだけで、続く言葉は消えていく。
「どのような方が出席することになるのか、興味がわきますわね。ねえ、セドリック様。わたくしは、条件は満たせているのでしょうか」
つむじ風のように熱気が立ち上がる。
あとは、彼の口から決定的なひと言が出るのを待てばいい。
「ヴァレンティーナ嬢はどうだろうな……美しいというか……。なんだ、その……」
――王手!
もはやこの状況で「美しい」と評価しない方法は存在しない。
それはすなわち、婚約者としてパーティへの出席を打診することと同義。
つまり――求婚である!
もとよりリヴィアは褒められ要素に満ちている。
生まれながらの美貌もさることながら、贅沢に手入れをされたその容姿はまさに花容月貌。
抗うことなどできるはずがない!
……勝った!
そう思えたときだった。
セドリックは呟くように言った。
「どちらかというと、可愛い……」
ぽとりと、リヴィアの手から扇子が落ちる。
シャンデリアに灯されたろうそくが揺れ、チリッと微かな音をたてた。
「……さて、誰にしたものか」
セドリックはひらりと身を翻し、あごに手を当て横顔を向けた。
視線の行き場が受け手を失い、虚空に転げ落ちていく。
えー! ちょっと、なにそれ。今のなにそれ??
――カウンタースキル『匂わせ』
淑女であれば笑って流せる、ただの戯言。
しかし、忘れてはいけない。
この女、『ぼっち』なのである!
同年代の女の子とすら普通に話したことがないのだ。
当然、恋愛経験などあろうはずがない!
……か、可愛いってなに。ちょっと待って……え、どういう意味? 言わないよね……? えー、普通好きな人にしかそんなこと言わないよね??
頬が熱を帯びていく。
何が悪いかもわからないまま、耐えるように手を握る。
……落ち着きなさい、リヴィア・ヴァレンティーナ。これは違う、お母様も言っていたはずよ。本当に好意を持っている男というのは、言葉にしなくても女の心を全部わかってくれるはずじゃない。
そこに響いたのは、低く沈み込むような声色だった。
「しかし、おかしな話だと思わないか、ヴァレンティーナ嬢」
視線を向けられるのが妙に恥ずかしく、扇を慌てて拾い上げる。
「……おかしいとは、どんなことでございましょう」
セドリックはわずかに身を乗り出す。
覗き込むような態度に、顔を背けて後ろに下がってしまう。
「先ほど君は、パーティの招待状が届いていないと言っていたが、それは変だと思わないか」
胸の奥にあるざわめきの正体も掴めないまま、呼吸を抑えて口を開く。
「これといっておかしなことではございませんわ。セドリック様はまだ、どなたと参加するか決まっていないのでしょう」
大きくなった鼓動は収まることなく、思考を少しずつ鈍らせていく。
「パーティは三ヶ月後だ。まだ儀礼の内示も終わっていないのだ、招待状など出るわけがないのに、もう待っていたのか?」
舌が凍りついた。
かすかに、衣擦れだけが聞こえる時間。
「そう、でしたわね……」
すぐに返答はなく。
じとりと、手袋の中に湿った感触を覚えた。
「いや、考えれば何も不自然なことはない。自分が出席するかもしれない大きなパーティだ。準備も必要だろうし、興味もあるだろう。招待状が届かないと心配になるのもわかる」
取り囲んでいる淑女たちがささやき合っていた。
横からも、後ろからも、ざわめきがリヴィアを逃さない。
「しかし、そもそも君は公爵家の娘だ。誰とでなくとも間違いなく出席はするはずで、招待状はいずれ届く。なのに、わざわざ私の同行者を尋ねた」
セドリックの瞳がリヴィアを捉える。
まばたくことなく離さずに、にじり寄ってくる。
「本当は……望んでいたのではないか? 私のエスコートを」
ヒュッと、喉が鳴った。
一瞬の隙をつく攻勢に、もはやリヴィアに後はない。
セドリックの正論に穴はなく、ここから巻き返すことは不可能。
……このまま負けてしまうの……。これじゃあ、もう……あの技を成功させるしか。そんなこと、できるわけ……
震える指先が冷たかった。
「……そうですか」
意識していないのに首が揺れ、黒い髪がハラリと垂れる。
「セドリック様は……」
微かな声が音を引き込む。
「おわかりにならないのですね……」
リヴィア・ヴァレンティーナに視線が集まるのを感じる。
肌が熱でうずく。
そして、空気が――割れた。
「わたくしも、女ですもの。少しでも求められたいと思ってしまうのは、いけないことなのでしょうか」
擦れたドレスの生地から花の香りが微かに漂い、見渡す限りの色彩が鮮やかになる。
恥じらいながら手を口元で握りしめ、肩を小さく縮める。
その仕草で、セドリックの動きが止まった。
――リーサルスキル、『乙女ムーブ』展開。
貴族学院、女子必修四科目の一つ、淑女論。
その中で数多の学生たちを苦しめてきた卒業課題が、この技術の修得であった。
完璧な身体制御、体温のコントロール、果ては眼球の湿度までもを微細に操り、トランス状態へと突入する。
わずかに頬を染め、声を震わせ、己の可憐さを示すことで――相手の理性を突き崩し、「守ってやりたい」という衝動を呼び覚ますのだ。
この効果は絶大である。
肘を掴むように体を抱きしめる。
寄せられたドレスの胸元がわずかに緩む。
……なんだ、何が起きているんだ。
セドリックは強い興味を示した!
「わたくしは、ただ知りたいのです。セドリック様は……」
人間の本能を直接刺激するこの技は、もはや防御など無意味。
構えを取ることすらできない姿を見逃すはずもなく、リヴィアは一気に畳み掛けた。
「婚約の継続を、願ってはいらっしゃらないのですか」
今や顔色も変わり、第一王子の威厳は感じなくなっていた。
何かを探すように両手が動き、目もしきりに泳いでいる。
終わった。
……今度こそ逃さない。あなたから求婚させて、わたしたちは『普通の会話』をするのよ。
……なぜ呼吸が荒くなるのだ。もしや、これは……焦り。私は焦っているのか!?
セドリックの思考は激しく乱されていた。
今まで見てきた令嬢や淑女たちは、みな仮面を被った作り物めいた動きをしていた。
判を押したかのような笑みを浮かべ、似た話を繰り返す――ほとんど人形と変わらない。
しかし、今のリヴィアはどうだろうか。
頬は生気で満ち溢れ、視線ひとつで感情を隠せずに体が動いてしまう。
まさに、生命。
人類の本質。
これこそが、ヒトの、女性の、あるべき姿だったのではないだろうか。
手が震える。
欲しかったものに、伸ばせば届きそうな気がする。
だが。
……私が、私が求めるなど、あってはならない。あってはならないのだ!
腹に込めた力で無理やり声を絞り出した。
「いや……婚約など、どうでも良いのだ」
息を飲む音が聞こえる。
それすらも、自分の鼓動で掻き消える。
「ただ、君と話せる機会があれ……ばと、だけで……」
舌が回らなくなる。
何を言っているのかさえ、わからなくなる。
そして。
リヴィアの目は、見開かれていた。
――ファンブル!
決定的な瞬間は、セドリックの失敗で訪れた。
社交界のこの場で行われていた戦争のルールはたった一つ。
勝つか、負けるか。
求婚するのか、されるのか。
しかし、呟かれたのは、そのどちらでもない。
そう、これは……
……お、お、お話したいって、普通にってこと? え、これ。こく、告白!? え、告白? わたしが好きだから、お話したいってこと??
リヴィアの頭に血が一瞬で駆け上がった。
冷静を装っても、手足の先は痺れ、視界は浮き上がるように揺らいでいる。
コホン……と、どこかの紳士が咳払いをした。
背筋を無理に伸ばし、扇子で口元を覆って取り繕う。
「……は、話ですものね、そうですわよね。話くらいしますわよね」
声と同じように、宝石を連ねた髪飾りが揺れた。
セドリックは大きな手で覆い隠していた顔をあらわにする。
すでに先程までの動揺はなく、王子然とした威厳が宿っていた。
理由もわからず腹が立つ。
収まりきらない頬の熱を堪えながら、奥歯を噛みしめた。
「そ……そうだ。それくらい、普通だろう。こ、婚約者なのだからな……」
息が止まる。
唇にばかり意識が向かい、言葉の意味は遅れて届いた。
「こ、こんにゃくしゃ!」
心臓が暴れまわる。
セドリックの視線に腰が引ける。
散らばった思考を寄せ集め、なんとか答えをまとめようとする。
……好きってことだよね? だから結婚したいってことだよね??
「あ、いや。好きとかそういう意味ではなく、ただ事実を言っただけ、で……」
事実。
そのひと言で、めまいがした。
一歩距離が近づく。
嗅ぎ慣れた匂いが少しだけ濃くなる。
呼吸が浅くなり、どこに目を向ければいいかがわからなくなる。
……求婚じゃん。これ、もう私のことすごい大好きなやつじゃん。
感情が喉からこぼれそうになり、それを必死に飲み込んだ。
「こ、これくらいは、求婚だなんて、わたくしは全然、認めませんから」
自分が求めた結果だった。
伸ばしそうになる手を躊躇する。
何がしたかったかがわからない。
引くことも、進むことも選べない。
ただ、不快ではないものが、高鳴っている。
「全然……嬉しくなんて、ないんですからね!」
リヴィアの声はホールの中に溶けていった。
こうして、社交界における暗闘の一夜が更けていく。
――しかし、これは一部にしかすぎない!
北の公爵、西の侯爵、貴族たちの中にはまだまだ、その名を知られる強者たちが潜んでいる。
悪役令嬢、リヴィア・ヴァレンティーナ。
その異名を轟かせた彼女が、王妃になるのはまだ少しだけ先の話だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
どこかで見たようなやり取りだと、ご存知の方はニヤリとできたのではないでしょうか。
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