第1話:香に誘われて
『咎の上に咲く花』異邦人 ゼフラン編です。
今回はライトノベル形式で書いてみました。
港町の通りを歩くと、潮と香辛料の匂いが鼻をくすぐった。 夕暮れの光が石畳を染め、遠くの鐘の音が揺れる。 今日も、いつもと同じように一日が終わるはずだった。
鞄の中で、「アメリア殿」と書かれた任務書が重く沈んでいる。表向きは「交易記録の整理」。分厚い羊皮紙の感触が、私に偽りの日常を突きつける。神殿記録官としてこの港町に来た本当の目的を――私は内に秘めている。
(両親が死んだあの夜。何を『咎』とされたのか。そこに隠された真実を、見つけ出す)
風が頬を撫で、花の香気を運んできた。
(この香り……。どこかで)
導かれるように歩くと、小さな露店が目に入る。古びたインク瓶と、花の形をした香紙。
今ではもう、あまり使われないもの。看板には異国の言葉が記されていた。
(ファルディン王国製……。最近の交易記録には載ってなかったはず。記録漏れ? それとも……)
香紙を手に取った瞬間、記憶が揺れた。父が笑って渡してくれた、遠い日の香り。「これは東方の国の風だよ」――あの声が、耳の奥で響く。
「それ、君に似合うと思う」
突然の声に振り返ると、男性が立っていた。
――あの夜、仮面の奥で光った青の瞳だ。
小麦色の肌。優雅に曲線を描きながら肩の上まで伸びた漆黒の髪。そして、デルフィニウムのような深い青の瞳は、東西二つの国の血を引いていることを表していた。
彼の表情は穏やかだが、纏う空気は異国の貴賓そのものだ。立体感のある織りで仕立てられた服に、肩には薄い布が掛けられている。香料の交易で栄えるファルディン王国の貴賓の正装だ。
歳は二十代半ばほどだろうか。落ち着いた佇まいに、着慣れている雰囲気があった。
「こんばんは。やっぱり、君だった」
「あなたは……」
数か月前、文化視察と言う名目で参加した仮面舞踏会。記すだけのはずだったその夜に、声をかけてくれた人――それが、彼だった。
かすかに残っていた記憶に、彼の声が重なる。
「この露店、旅の途中で商人に紹介されてね。『君なら気に入る』って言われたんだ。だから、ちょっと寄ってみたら、あの夜の香りが漂ってきて……。もしかしたらって」
「私のこと、覚えて……?」
「うん、君は珍しい香りを纏ってたから」
あの時、私のことを「咲く前の花の香りがする」と言っていたことを思い出す。その言葉が、凍り付いていた私の心の奥を、そっと溶かしてくれた。
「それに、俺の知っている人に似てるんだ――香りも、雰囲気も。……もう誰も覚えていないはずの人に」
寂しそうな、でも慈しむような声に、胸がちくりと痛んだ。
(わたしには、そんな風に思い出してくれる人さえいない)
私は、思わず彼の瞳から目を逸らした。
そのとき、潮と香辛料の匂いが一瞬途切れた。
代わりに鼻をついたのは、革と古いインクの匂い――神殿の書庫を歩くような、冷たい気配。
背筋が凍る。視界の端に、白衣と濃紺の装飾が映った。
(……神殿の記録官!)
心臓が喉まで跳ね上がる。なぜこんな時間に、こんな場所に?
記録官の視線が、露店の並びをゆっくりと舐めるように動いている。まるで獲物を探す鷹のように。
(私を、追っている?)
革靴が石畳を打つ音が、一歩ずつ近づいてくる。
規則的な音が、心臓の鼓動と重なって、頭の中で大きく響いた。指先が冷たくなる。
(見つかったら、終わりだ)
咎人の娘――その烙印が暴かれる瞬間が、脳裏に鮮明に浮かんだ。
心臓が早鐘を打ち、潮の音が遠のく。
視界が狭まる。呼吸が浅い。
(逃げなきゃ。でも、どこへ)
足が竦んで動かない。いや、動けば余計に目立つ。
革靴の音が、あと数歩まで迫っている。
そのとき、温かい手が、そっと私の手首に触れた。
「こっち」
低く囁かれた声に、はっと顔を上げる。
彼の青い瞳が、静かに私を見つめていた。その瞳には、問いも迷いもない。ただ、受け止めるという意志だけがあった。
私は何も考えられなかった。
ただ、彼の胸に顔を埋めるように、すがりついた。厚い胸板に額が触れる。彼の心臓の音が、間近に聞こえた。
彼は一瞬だけ息を呑む。次の瞬間、肩にかけていた薄絹がふわりと舞い上がり、私の頭上を優しく覆った。
「……大丈夫。風に紛れて」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
淡い香料の匂いと彼の体温が、絹越しに私を包む。金糸の模様が揺れ、外の世界をぼんやり遮った。
(……こんなに、近い。彼の鼓動が、自分のもののように強く響いてくる)
彼の胸元で、鼓動が重なる。恐怖と動揺で、体が熱に浮かされたように痺れる。
記録官が通り過ぎるのを見ると、彼はそっと体を離した。 薄絹が離れる瞬間、胸のどこかが微かにきしんだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。でも……」
彼は私の着ている薄墨色のドレスをじっと見た。立襟の簡素なドレスは、神殿に勤める下級役人が着るものだ。
「君も、神殿の記録官だよね?」
彼の問いに、言葉が喉に引っかかった。
(わたしは、記されない者。偽名で記録官を演じているだけ)
沈黙が、一瞬だけ長く感じられた。
彼は私の表情を読み取ったのか、ふっと笑って視線を逸らした。
「……まあ、聞かないでおくよ。こんなふうに隠れなきゃいけないくらいだ。きっと、簡単には話せない事情があるんだろう」
その気遣いが、胸に温かく沁みた。
――と、同時に。
彼の視線が、ふと私の鞄の隙間に留まった。
そこから覗く、象牙と金細工の輝き。母の形見の羽根ペン。
彼の瞳が、わずかに細められる。
(……見られた)
「……」
彼は何も言わなかった。
ただ、数秒――いや、もっと短い時間だったかもしれない。けれど、私にはひどく長く感じられた。
やがて彼は、何事もなかったように表情を和らげた。
「その羽根ペン、西方の細工だね。よく使いこまれてる。俺の母も似たのを持っていたよ」
彼の声には、詮索の色はなかった。
でも、その優しさの奥に、何か引っかかるものを感じた。
「……そうなんですね」
私は悟られないように微笑んだ。
(この人は、何かを知っている? それとも、ただの偶然?)
気まずい沈黙が、一瞬だけ流れる。
彼はそれを感じ取ったのか、視線を空へと向けた。潮風が、彼の髪を優しく揺らす。
「……風って、不思議だよな。形もなくて、掴めないのに、確かにそこにある」
潮風を感じるように目を細めて、彼は言葉を継いだ。その真摯な視線に、私は思わず息を飲む。
「昔、母がよく言ってたんだ。『風は本当のことを囁いてくれる』って」
「風が?」
「例えばほら――ここは潮と香辛料の香りがするだろ?」
彼は風を追うように顔を上げると、目を細めて鼻をひくりと動かした。
さっきまでの落ち着いた佇まいはどこへやら――その無防備な仕草に、くすりと笑ってしまった。
「ふふ、そうですね」
「君の香りも混ざってる。……この風は、君がここにいると、教えてくれる」
彼の言葉が静かに沁みた。
どこにも記されない私の存在が、風にだけは捉えられている――そんな驚きと、少しの嬉しさが胸を満たす。
「私がここにいると、教えてくれる……」
思わず呟くと、彼は少し目を細めて笑った。
「うん。俺は、そういう感覚のほうが真実に近いと思う。……変かな?」
その声は、年上らしい落ち着きと、どこか少年のような好奇心を帯びていた。
(この人は、風を信じるんだ。記録が絶対であるこの国とは、あまりに違う)
私はそっと視線を上げ、彼の青い瞳を見つめた。そこには、まるでまだ知らない何かを探しているような光があった。
「いいえ。面白いです。……そんな風に思ったこと、なかったから」
言葉を返すと、喉の奥がわずかに熱くなった。誰かに、私の香りを覚えていてほしい――初めて、そう思った。
彼は私の言葉に満足したように頷いた。
風が、また香紙を揺らす。
記録にも、神殿の書庫にも残らない、形のないもの。
(でも、わたしには形がある。消せない、過去の証が)
鞄の奥で、羽根ペンが冷たく沈んでいる。
その軸に刻まれた紋章――王家に処された家門、「ジェンシア家」の印が。
今回のゼフラン編は毎週月曜7時頃に公開予定です。




