天使なるもの
「だいったい片付いたかなー」
揺月が入寮する日、引っ越しを手伝ってくれていた櫻は、揺月の部屋を見渡しながらそう言った。
怪異対策葉山支部の寮は1Kの狭い部屋だが、キッチンや風呂など必要な設備は揃っている。何より日当たりが良く綺麗だ。かび臭いボロアパートから越してきた揺月は少し気後れするほどだった。
「しかし揺月ちゃんって荷物少ないよね。昔のアルバムとかもないの」
揺月が持って来たのは僅かな生活用品のみである。
「そういうのは前に捨てちゃったんです。あんまりもの持ってたくないたちで。趣味とかもないし」
嘘では無い。しかし揺月が昔の写真を全て処分したのは、一年前に父と兄を怪異で失ってからだ。あの事件以来、揺月にとって過去の思い出は辛いものになっていた。
そんな揺月の胸中など知らぬ気に、櫻はここへ来る途中で買って来たコンビニの袋をごそごそと漁ると、中からパックに入ったざるそばを取り出して揺月の前に置いた。
「はい、引っ越しそばー」
「? 引っ越し蕎麦って引っ越して来た人が配るもんじゃなかったでしたっけ」
「いいじゃん、まぁこの部屋で初めての食事って事で。一緒にたべよ」
丁度昼時だったので一緒に蕎麦を啜る。家具は大体は備え付けだがテーブルの類いはなかったので床に直置きである。カーテンもまだ届いていない窓から入ってくる春の風が、引っ越し作業で汗ばんだ体に涼しい。
「あ、そうだ」
ふいに何か思い出したように櫻が言うと、パンツのポケットから何か手のひらに納まる程の小さな包みを取り出して揺月に渡す。
「それあげる。開けてみて」
「?」
雑貨屋で買ったと思しきその包みを開けると、中から水晶の結晶が姿を現した。
「これって……」
丁度、向日葵の怪異の時に無くしたのと同じものだ。形こそ異なるが、大きさはほぼ同じだった。
「まぁお兄さんの水晶の代わりにはならないけどさ、俺からの引越祝い。お守りだと思って持っててよ」
蕎麦を食べながら櫻が言う。まだ持ち歩いていた前の水晶が入っていたビロードの袋に入れるとぴったりだった。
「ありがとう……ございます」
自然と笑顔になった揺月に、櫻もにこにこして良かった、と言った。
*
その後も休みなのを良いことに揺月の部屋でごろごろと雑談していた二人のスマホが同時に鳴ったのは夕刻が近づいた頃だった。
「これって……」
「仕事の呼び出し、だよねぇ」
先に電話に出たのは櫻の方だった。
「はい。……はい。すぐ向かいます。揺月の寮です。二人で向かいます」
揺月も電話の対応を終えると二人は顔を見合わせた。
「仕事です」
「仕事だね」
二人で頷き合って頭を仕事モードに切り替えると、寮を飛び出した。
*
場所は駅前の古びた商店街に立ち並ぶ雑居ビルのうちの一つだった。
「しっかしなんでこのご時世に天使なんか呼び出そうとするかねぇ」
古い雑居ビルを見上げながら櫻がぼやく。
ビルにはマイナーな宗教団体が入っており、中で信者達が天使を呼び出す儀式を行ったらしい。ところが天使の姿をした怪異が召喚され、信者達を襲い始めたそうだ。
「でもなんで神様じゃなくて天使なんでしょうね。願いを叶えてくれるのって神様でしょ」
装備の確認をしながら揺月が言う。
「神様だとなんか怖いからでしょ。願いを叶えるっていうかなんか託宣?が欲しかったみたいだし」
いつものナップザックを担ぎながら櫻が返す。今回の任務はビルの中への潜入任務だ。
「託宣なんかもらってどうするんでしょうかね」
「さぁ……なんか言って欲しかったんじゃない。自分たちに都合のいいこと」
「まぁ来たのは怪異でしたけどね」
装備の最終チェックをしてビルの入り口の自動ドアの前に二人で立つ。ドアはガラス張りにも関わらず中は漆黒の闇だ。
「うん、中は夕暮れになってるねこれ。取りあえず生存者の救護。可能なら天使型怪異の排除。行くよ」
櫻の合図で中に入ると、軽い落下感と共にあたりは朱と黒に包まれた。
夕暮れに沈んでいることを覗けば、中は何の変哲もない雑居ビルだ。そう広くない内部は片側がエレベーター、片側にドアが並んでいる。
「夕暮れでエレベーターに異常が生じてるかもしれないから、階段で行くよ」
階段は奥だったはずだ。事前に頭に入れた見取り図の情報を元に踏み出そうとした揺月の頭を何かがかすめた。
僅かな羽音を響かせて行ったそれは、とっさに頭を伏せた二人の頭上を幾つも通り過ぎる。
振り返ってそれを見た揺月は、思わず目を瞬いた。
小鳥だ。
それを小鳥と言って良いものか。雀ほどの大きさのそれは、全身が白い光で包まれていた。光が幾重にも重なって遠目にはボールほどの光の輪に見える。
あれが、敵だろうか。しかしその姿はあまりに無害に見える。
そんなことを考えていた揺月の元に、再び小鳥たちが飛来してきた。揺月は取りあえず通路の脇に避けたが、櫻は動きが遅れた。
櫻の頭のすぐ側を小鳥がかすめた時、ふいに櫻が頬を押さえて小さく苦痛の声を上げた。
慌てて通路の脇に伏せた櫻の頬は、すぱりと一文字に切られ、べったりと血で染まっていた。
「櫻さん」
慌てて声を掛けた揺月を櫻は手で制して言った。
「大丈夫。あれ、危ないよ。触ると切れるみたい」
櫻の声は平静だったが、顔には苦痛が滲んでいる。何より見慣れた白い顔が血を流しているのを見て、揺月は怒りを覚えて立ち上がった。
小鳥たちは通路の天井近くで群れをなしてこちらを伺っている。光を纏ったその姿からは神々しささえ感じる。しかし。
敵だ。
揺月は心の中で断じた。あれは、敵だ。小鳥の姿をした怪異に過ぎない。であれば、斬るだけだ。
小鳥たちが棒立ちの揺月を目がけて飛び込んで来る。揺月はぎりぎりまで引きつけて、ベルトから小ぶりなナイフを抜いた。
「揺月!」
叫ぶ櫻の声を聞きながら横に流すように身を躱す。ナイフの刃が小鳥の一匹を捕らえた。
パキン、とガラスの割れるような音を立ててその小鳥は消えた。
「斬れる! 倒せます!」
櫻を振り返ると、どこかほっとしたような顔で駆け寄って来た。
「斬れるって事はほんとの天使じゃないんだ。きっと。行きましょう」
小鳥たちはまた通路の脇に固まって身を潜めている。一匹倒したせいか、すぐ襲いかかって来る様子はなさそうだ。二人は固まって階段を目指した。
*
五階建てのビルの最上階まで上がる途中、何度か小鳥との交戦があった。小鳥のような小物を相手するときには長物よりナイフが有利だ。揺月は途中何羽か小鳥を倒していた。櫻も同じようにナイフを振っていたが、やはり怪異を消滅させる能力を持たない櫻の攻撃はあまり役に立たないらしい。
「ここ、だと思う」
五階に着くと、櫻は一番奥に位置するドアの前で立ち止まった。
小鳥たちはまだそこここにいるが、仲間を失って戦意を喪失しているようだ。襲っては来ない。
「ねえ、何がいると思う?」
五階まで駆け上がって来た二人は少々上がっている息を扉の前で整えながら顔を見合わせた。
「怪異、ですかね。天使の偽物」
即答した揺月に櫻は何度か頷いて見せた。頬からの出血がまだ止まっていない顔はどこか不安そうだ。
「大丈夫ですよ。俺が斬ります。櫻さんは後方をサポートして下さい」
「わかった」
覚悟を決めたように言った櫻に頷き返して、揺月は刀を抜くと部屋のドアを開け中に飛び込んだ。
部屋の中は壁も天井も、塗られたように真っ黒だった。
何かの講義をする場所だったのか、長テーブルと椅子が整然と並べられた部屋の奥はひな壇になっていて、その上に、
天使が立っていた。
その可憐な少女の姿も、古い中世のような白と黒のアンティークドレスも、長く波をうつ銀の髪も、夕暮れの怪異の中でも色を失わない蒼い瞳も、背中から生えている純白の翼も。
なにもかも天使と相違ない。後ろで櫻が息を呑むのがわかった。
櫻は、恐れている。目の前のものが本当に神の使いではないかと。それを自分たちが倒してしまうことを恐れている。揺月はそれを敏感に感じ取っていた。
しかし。
知ったことか、と揺月は思う。目の前のものが天使であれ怪異であれ斬るしかないのだ。それが正しいからではない。そうしないとまた失ってしまう。父や兄のように、櫻を失うのはごめんだった。
揺月は刀を掲げると天使に猛然と迫った。天使は興味なさげに揺月を一瞥すると、指先に小さな光を灯してそれを揺月に投げナイフのように投げた。
脇腹ぎりぎりを光がかすめる熱い感覚を感じながら、揺月は躊躇無く天使の額に刀を叩き込んだ。
天使は、何の感慨もない無表情のまま、空中に消えた。いつも怪異が手の中に残して行く、ぐにゃり、とした手応えを残して。
*
天使型怪異を倒した事でビル内の夕暮れ現象は終わりを告げ、取り残されていた信者達も別室に立てこもっていたところを保護された。幸いにも命に関わる怪我をした者はいなかった。
「顔の傷、大丈夫ですか? 櫻さん」
脇腹の傷の手当てを終えて支部の救護室から出てきた揺月は、出口の所で待っていた櫻に声をかけた。
櫻の顔の傷は出血の割に浅く、あとも残らないだろうということだった。が、頬に貼られた大判の絆創膏はやはり痛々しい。
「揺月は? 脇腹、大丈夫だった?」
天使の飛ばした光がかすめた脇腹にはやはり切り傷が残っており、今その手当てをして来たところだ。
「大丈夫ですよ。ちょっと縫いましたけど、日常生活に支障は無いです」
心配げな櫻に笑みを作ってみせる。
櫻はそんな揺月に少し物憂げな視線を送って、それからやおら、はぁっ、と大きくため息をついた。
「? どうしたんですか?」
「やー……」
櫻は揺月から視線を逃しながら答えた。
「今回、俺、だめだめだったなぁって。相手が天使かもって思ったら、びびっちゃって」
揺月は少し笑った。
「大丈夫ですよ。斬った感触はいつもと同じ怪異でしたし。それに」
揺月はそこで言葉を切って前を向いた。
「相手が何だろうと人間に危害を加えるなら斬るだけです。それが仕事ですから」
きっぱりと言った揺月を、櫻はなにか眩しいものを見るように見て、それから少し躊躇うような顔をして言った。
「……ずっと気になってたんだけど、お母さんは? あれから話できた?」
揺月は急に変わった話題に一瞬きょとんとした顔をして、それから今度は少し苦い笑みを浮かべた。
「……施設には行ってみたんですけど。面会出来ませんでした。会いたくないって」
「そっかぁ……」
寂しそうな顔をした櫻に、揺月は笑ってみせた。
「頑固な人ですから。当分会えないでしょうけど、通ってみます。親子ですから」
「そうだよね、親子だもんね」
呟くように言った櫻は、大きく伸びをした。
「でも今回の任務きつかったー。小鳥だの美少女だのやりにくいよ。怪異はもっとエイリアンみたいな見た目しててほしい」
「ほんとにエイリアン来たらそれはそれで怖いですけどね」
「あっやだ、やっぱやだ、エイリアンは怖い。もうちょっとナチュラルな化け物で」
「なんですかナチュラルな化け物って」
笑い合う二人の声が救護室の前の廊下を去って行く。
窓からようやく昇り始めた朝の光が差し込んでいた。
最終話まで毎日更新します。