ベビーカー 後編
グループホームの話を聞いて心を閉ざしてしまった母親に、揺月は言葉を尽くして説明した。
自分が支部を辞める気持ちはない事、その方が母親の為にもなる事、グループホームと言っても悪いところではなく、支部の親族特権で優先的に入れる事。
夜通し能面の顔をした母と向き合って、揺月が疲れ果てた頃、母親は固い、しかししっかりとした口調で揺月に告げた。
――わかりました。施設に入ります。でもあなたの事は死んだものと思います。
これからは、親でも子でもありませんから好きにして下さい。
その言葉が心に刺さって抜けないまま、揺月は支部に出勤した。
*
出勤した揺月を待っていたのは、またあのベビーカーが路地裏に出現したという報せだった。
昨日揺月達が赤子たちを退治したはずのあの路地裏である。そこにまたあのベビーカーが置き去りにされているとの通報が明朝に市民よりあったらしい。
その報せを聞いた時、あの時感じた「負けた」という感覚が揺月の胸に蘇った。
そうだ、あの時自分は確かに負けたのだ。怪異を討ったようでいて、完全に断ち切れていなかったのだ。
「気にしない方がいいよ。同じ怪異が同じ場所に戻ってくるのはよくある事だし」
現場に向かう車の中で櫻は揺月に言った。
「いや、俺が悪いんです。あの時ちゃんと斬れていれば現われなかった」
ハンドルを握りながら揺月は答えた。明らかに寝不足な揺月を気遣って櫻が運転すると言ったのだが、揺月は頑なにハンドルを譲らなかった。
――今度こそ、怪異を討つ。絶対に、元から。
その思いだけを胸に揺月はアクセルを踏み続けた。
*
「夕暮れまで3、2、1――」
櫻のカウントダウンで路地裏のベビーカーを睨む揺月の視界は、どぶりと朱と黒に染まった。
胎児達は角に隠れた揺月達の存在を知っているかのようにわらわらと湧き出でる。そして六本の手足を動かして昆虫のような動きで二人に迫って来た。
いちいち応戦していては昨日の二の舞だ。揺月は赤子達の動きを無視してベビーカーへとひた走った。
途中何体か異形の赤子が身体に取り付いては身体にがじりと歯を立てた。身体のあちこちに走る鈍い痛みを感じながらベビーカーの前で刀を抜いた。
――今度こそ、斬る。
それだけを考えて、刀を振るった。ベビーカーは揺月の目の前で真っ二つに裂けて塵と消えた。
――斬った。
その手応えだけを手に、揺月は膝をついた。身体がやけに重いと思ったのを意識の最後に覚えている。
*
気付くと見知らぬ白い天井があった。
――病院?
身を起こそうとしたが上手く動けない。身体がぐったりと重い。枕元に点滴の袋が見えた。
「揺月? 気付いた? ここ支部の救護室。大丈夫だから」
声と共に見慣れた色白の端正な顔が目に入った。櫻だ。揺月は身体の力を抜いた。
「傷の手当てもね、済んでる。お母さんは遙さんに見に行って貰ったから。大丈夫だから。とにかく揺月は朝までゆっくり寝て」
今は何時だろう、と首を巡らすとまた櫻の声がした。
「今は深夜の三時。揺月は過労と寝不足で倒れたんだよ。とにかく朝まで寝て。お母さんは遙さんが見てるから」
遙さん相手に、母は大丈夫だろうか。息子の自分ですら話にならないのに他人が行ってパニックを起こさないだろうか。
気にはなったが、身体はもう限界だった。頭も身体も鉛のように重い。
「お休みね……おやすみ……」
子供をあやすような櫻の声に眠りに引き込まれる。泥の様な眠りにまた揺月の意識は溶けて行った。
*
結局、揺月が目覚めたのは昼過ぎになってからで、その時には全てが終わっていた。
母は、遙が行った時にはグループホームへの入居を決め、荷物を纏めていたらしい。
本人の意思という事でそのまま母は施設へ入居し、揺月とは顔を合わさずじまいだった。
昼過ぎに目覚めた揺月は、櫻からその事を知らされた。
「……本当はね、揺月に立ち会ってほしかったんだけど。状況が状況だったから。本人の希望もあって、……俺のとこに連絡が来たのも全部終わってからだったから」
本人、とは母の事だ。そこまでに母の意思は固かったのか。
「仕方ないですよ。母は頑固な人ですから。俺が行っても結果は一緒だったと思います」
すまなそうな顔をしている櫻にわざとさばさばとした顔で揺月は言った。昨夜母から勘当に等しい台詞を言われた事は櫻には話していないが、わざわざ言う事でもないだろう。
そんな揺月を見て櫻は目を細めると、その目を瞬いて言った。
「傷の様子はどう。昨日赤ん坊に嚼まれたとこ」
赤子に嚼まれた所には噛み傷がついていたらしく、包帯が体の至る所に巻かれていた。
「そんなに痛くないですよ。ちゃんと手当てして貰ってますし。すぐ治ります」
揺月が笑って見せると櫻はため息をついた。
「もーあんな無茶やめてよ。そういう傷は膿む事があるから悪化するようだったらすぐ病院に行くこと」
「はい」
素直に頷いた揺月をまだ何か言いたそうに櫻は見ていたが、結局何も言わないまま話題を変えた。
「そういえば揺月ちゃんには支部の寮に入って貰うことになるんだけど、手続きこっちでしといたから。来週以降ならいつでも入れるって」
「すみません、何から何まで」
「で、部屋だけど俺の隣だから」
「へ?」
隣? あ、櫻さん寮住まいだったんだ。……となり?
「やー前のお隣さん先月越してっちゃったから寂しかったんだよね。揺月が入って来てくれるの嬉しいなぁ」
混乱する揺月を尻目に櫻はまたいつものようににこにことしている。
「あ、引っ越しの手伝いとかするから日にち決まったら言ってね。車出せるからちょっとした荷物なら運べるし。それとも引っ越しセンターに頼む?」
なんだかどんどん話が進んでいる。それはそれで有り難い。有り難いのだが。
「や、荷物そんなにないし、車出してくれるなら有り難いんですけど……良いんですか?」
「いいよぉ。なに遠慮してんの」
櫻はからからと笑う。すっかりいつもの調子だ。揺月は少し安心して言った。
「じゃあお願いします。寮ってどんな所なんですか?」
「古い建物だから設備は古いけど、ちゃんとリフォーム入るから綺麗だよ。1Kで狭いけど日当たりと風通しは良いかな。俺は気に入ってるよ」
母親との実家暮らしが終わり、寮での一人暮らしが始まる。
ようやく自分も本格的に夕暮れ怪異対策支部の人間になるのだ、という感覚がした。
これからはより一層怪異との戦いに専心できる。と思う心の隅で。
母親にも折りをみて会いに行こう、と揺月は思う。
会ってくれないかもしれないけれど、それでも親子なのだから。和解できる未来を描いて行きたい。
窓の外を見てそんな思いに耽る揺月の横顔を、櫻は優しい目で見ていた。
最終話まで毎日更新します。