四月の向日葵 前編
とある高校での話だ。
ある女生徒が忘れ物を取りに一人学校の美術室のドアを開けた。
そこは一面の向日葵畑だったらしい。
昼時だったにも関わらずそこは夕焼けの光で満ちており、オレンジ色の光景の中どこまでも続く向日葵畑の向日葵たちは葉を風にそよそよと揺らしていた。
それを見た女生徒は精神に不調をきたし、今も自宅で療養している。
夕暮れとの関連は不明。だが無関係とは考えがたい。早急に対処されたし。
*
「精神に不調をきたし……ってその子どうなったんだろう」
現場へ向かう車を運転する揺月の横で、櫻がパラパラと事件資料を捲る。
「あったあった。自室に引きこもった後リストカットして病院に搬送……うわぁ……」
「命があって良かったですね」
「でも今も引きこもってるみたいよ」
事件の高校に向かう車中である。今回からは揺月と櫻、二人だけの任務だ。
日没まではまだ間があるが日は既に傾きだしている。
夕暮れ怪異対策支部に入ってから、夕暮れは世界を覆う大規模なものと、局地的に起こる小規模なものがあると教えられた。
大規模な夕暮れ現象の前は国が警報を出すが、局地的なものまでは対応しきれないため国民には大規模なものしか周知されていないらしい。
今回の事件は局地的な夕暮れ現象の被害だろうと言う事だ。
――向日葵の姿をした怪異か。
どんなものだか想像がつかないが、行って見れば何とかなるだろう。
揺月は前方を睨んだままアクセルを踏み込んだ。
*
向日葵事件により生徒は休校となっているらしく、昼過ぎという時間にも関わらず学内に生徒の姿は無かった。
裏門から入って車を止め、トランクから武装やサポーターの携行品が入ったナップザックを取り出して職員室を訪ねると、不安げな顔をした校長が美術室までの案内をしてくれた。
「じつは、この件の前から美術室には妙な噂が色々ありまして」
廊下を歩きながら、禿頭の校長が弱り果てた顔で言った。
「妙な噂というと?」
櫻が聞き返す。
「書きかけの絵が勝手に完成しているとか。女生徒の幽霊を見たとか。見ると絵の世界に迷い込む不思議な絵があるとか。でも被害が出たのは今回が初めてです」
美術室の前に着くと校長は居心地悪そうにもじもじとし始めた。事件のあった美術室が怖いのだろう。礼を言って職員室に戻るように言うとほっとした様子で来た道を戻って行った。
櫻が美術室の扉を開けると、そこは何の変哲も無い教室だった。並べられた机や椅子。描きかけの絵が置かれたイーゼル、絵の具を洗うためのシンク。独特の湿った匂い。
「……どう思う?」
教室内を見て回りながら櫻が言った。
「……扉を開けたら向日葵畑だったんですよね。……異世界に繋がってたとか?」
考え考え返す。
「だよねぇ。問題は異世界の正体だけど……そもそもなんで繋がるんだろう?」
櫻は半ば独り言のように呟きながら、準備室の方に入っていった。
「何かありました?」
準備室から出てきた櫻にそう聞くと、櫻はふわふわした茶髪を揺らして首を振った。
「向日葵畑の絵があるかと思ったら無かった。こっちも調べるから揺月ちゃんもあったら教えて」
言われた通り向日葵畑の絵を探す。壁際に結構な数の絵が重ねて立てかけられていて時間がかかりそうだ。
「揺月ちゃんってさー」
同じように絵を調べていた佐倉がのんびりとした口調で言う。
「はい」
「レイラインってバンドのボーカルに似てるよね」
「レイ……ライン?」
聞いた事がない。というか今する話だろうか。
「顔可愛くてちっさいのに気が強そうな所が似てる。あと黒髪で前髪重たいとこ」
褒められているのかけなされているのか分からない。まぁ本人に悪気は恐らく無い。
「レイラインって有名なんですか?」
「んーインディーズ」
インディーズかよ。ていうかなんだこの雑談。そう思って櫻を見ると、絵を調べながらしきりに何か考えているようだ。口とは裏腹に頭は真面目に仕事をしているらしい。少し安心して絵の確認作業に戻る。
「……無いですね、向日葵畑の絵」
美術室中にある絵をひっくり返してみたが、向日葵畑の絵は無かった。
「んー休校だし生徒が持って帰ったのかな。それともこっちにはないのか」
「こっち?」
ぽつりと呟いた櫻に揺月が聞き返すと、櫻がふいに顔を上げた。
「あれ? なんか来る」
「なんか……夕暮れですか?」
時刻を確認すると日没よりまだ早い。櫻も手元の計器類を見て首を傾げている。
「まだ世界から外れるような数値じゃない……でもなんか……危ない。出て」
急に声を固くした櫻が揺月の手を引いて美術室の外へ向かった。揺月は櫻に引きずられる形で少し動きが遅れた。刹那。
瞬きする間に視界が変わった。
山吹色の空に橙色の夕陽が照って、今まさに地平線に陽が落ちて行くところだった。
――地平線?
振り返ると揺月は屋外の小高い丘の上にいた。見渡す限り建物らしいものはない。丘の下からむわりと生暖かい風が吹き寄せて見下ろすと、無数の向日葵が咲いていた。
――向日葵畑か。
揺月は腰に下げた刀の柄に手を掛けると、そろそろと丘を降りた。一緒にいたはずの櫻の姿は見当たらなかった。どこに行ってしまったのだろう。
「……櫻さん?」
小さく声を上げる。手にした刀は正式に鍛造されたものではない軽いものだが、刃が付いている。間違えて斬りかかってしまってはたまらない。
「……櫻さん? ……いますか?」
声を上げながら向日葵たちの間をすり抜けて歩く。向日葵たちは夕陽で濁ったベージュに染められて、無数に茂ったそれで視界が煙ったように見える。
「…………」
揺月は呼びかけをやめた。背の丈より高い向日葵に囲まれて周囲が見えない。これでは怪異に襲ってくれと言っているようなものだ。あの高台に戻ろう。
しかし振り返った背後に高台らしきものは無かった。代わりに俯いた向日葵が幾重にも幾重にも顔を連ねている。
仕方なく俯いた向日葵の顔をかき分けるように進む。辺りは相変わらずマスタードイエローに煙っている。
向日葵たちが顔を打つ。それを手で除けて進む。次第に鬱々としてきた気分の端に、ふと一人の向日葵が口を利くのが耳に入った。
――お前が殺したくせに。
ぼつり。
耳を打った声に足を止める。
――お前が見捨てたくせに。
背後から聞こえた声に踵を返す。そこにいた向日葵は兄の声で言った。
『俺たちを見捨てたくせに』
抜き放った刃でその向日葵を切って捨てた。途端、周りを取り巻く向日葵たちがにやり、と黒い口を裂くように嗤った。
『殺したくせに』
『逃げたくせに』
『助けられなかったくせに』
『あの時――あの時逃げた! 一人で逃げた!」
あざ嗤う声は兄の声であり、父の声でもあった。揺月はその全てを斬って捨てようとして――立ち止まった。
向日葵の一つは兄の顔をしていた。無数に居並ぶ向日葵のうち、もう一つは、父の。
向日葵たちはざわざわと葉を揺らしたかと思うと、次々と顔を父と兄のそれに変えた。
思わず刀を垂らして立ち止まった柚木の周りを向日葵が取り囲んだ。
『……おまえも、死ね』
『死ね』
『しね、しね、しね』
向日葵たちはみな、兄と父の顔をしていた。
最終話まで毎日更新します。