夜明け前
午後六時。
外出の身支度をととのえた揺月は、薄暗くなった窓の外を見てため息をついた。窓の外はまだほのかに青白い。
今日は「夕暮れ」は起こらないらしい。
夕暮れが起こるともっと世界が朱に染まる。スマホの予報も夕暮れの予兆は告げていなかった。今日はだめなのだろう。
三間しかないボロアパートを出る途中、揺月は玄関でもう一度中を振り返った。どうやら母親は寝ているらしい。黒いスプリングジャケットのポケットにナイフが入っているかもう一度確認する。なんの変哲もないサバイバルナイフだが、揺月にとっては大切な、怪異を狩る武器だった。
夕暮れの起こっていない世界は薄明るく清浄だ。その世界の角を三つ曲がってバイト先である中華料理屋の通りに出た時、異変が起こった。
瞬きする間に、世界が、朱く染まった。
単なる夕焼けではない。もっと朱い。
空も、地面も、建物も朱い色の中に深く落ちている。
「夕暮れ」だ。
揺月はとっさに自販機の影に姿を隠した。夕暮れは今日は来ないという、怪異対策本部が出している予報が外れたのだ。あの時と同じだ。
予報が外れる事は最近ではほとんどない。それでも街の住民達は用心して門戸を閉ざしている。この時間に外にいる人間は居なかった。
朱く染まった世界の中で、自販機や電柱の影を縫って歩く。手の中には護身用のナイフがあった。
ふらふらと何かを探して彷徨ううちに、視界の隅に影がよぎった。
――怪異だ。
身体は自然に動いた。俊敏な動きで逃れるように動く影を追い詰めて行く。
やがて追い詰めたのは老婆の姿をした「怪異」だった。
一見すると普通の老婆に見える。しかしその額からは、ねじくれた二本の角が生えていた。目は白目がなく虚ろに穴が空いたようにぽっかりと黒い。
ナイフを手にした揺月を見ると、老婆は歯の無い口を開けて笑った。そして曲がった腰の後ろに隠していた出刃包丁を取り出すとそのまま揺月に斬りかかって来た。
揺月は軽く身を引いて包丁を躱すと、体勢を崩した老婆に体当たりするようにその腹深くにナイフを押し込んだ。ぐにゃりとした手応えがして、老婆は笑ったまま消えた。
気付くとすっかり暗くなった小路に一人で立っていた。頭上では桜が咲いている。父と兄が怪異に奪われた、あの時と同じように。
*
バイトには一時間の遅刻だった。
「別にお前のこと当てにしてないよ。もう」
バイト先の小さな中華料理屋の店長はくたびれた顔を顰めてそう言った。
「遅刻、欠勤、いつもだもんな。次の補充に仕事教えたらお前はもう辞めていいから」
バイト先の中華料理屋はいつもバイト募集の張り紙をしている。だが早々に欠員の補充が入らないことを揺月は知っていた。時給が安すぎるのだ。それに仕事も楽ではない。
遅刻や欠勤があってもクビにされないこと。それが揺月がこの職場に勤めている理由だった。
「……すみませんでした」
しかし、確かに遅刻は悪い事だ。揺月は謝罪して店長の元を後にした。店を出たのは深夜の零時を過ぎていた。
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