愚かな夫の退場
夜会の会場はいつもと変わらず華やかで人に溢れていた。
着飾った紳士淑女が、揃って現れた私たちに目を見張る。それもそのはず、だって、私の前を歩くのは愛人をエスコートする夫だもの。
夫のカエサルの腕に絡まるように抱き着いているのは、ピンクブロンドに茶色い瞳をした男爵令嬢、アリッサだ。
私と夫、それからアリッサは学園時代の同級生で、二人の関係はその時から続いている。
学園時代はあちこちで「真実の愛」という言葉が飛び交い、それに踊らされるように婚約者以外との恋を楽しむ学生がいた。カエサルもその一人で、廊下や庭、校舎の隅でふたり身体を寄せ合っているのを何度も目にした。
学園を卒業して五年が経ち、二十三歳となった今もカエサルは何も変わらない。
今夜も自慢げに、妻と愛人二人連れての入場だ。
「プリムローズ、何をしている。この夜会には取引先も多く来ているんだ。もっと明るい顔をしろ」
「……はい」
「まったく、少しはアリッサを見習え。会場に花を添えるのも貴婦人の務めだろう」
愛人を腕にくっつけた夫の横で明るく笑う妻……それはもはやホラーだと思うのだけれど、彼の価値観ではそうではないらしい。
妻と愛人二人に愛される俺ってすごい!と自慢げに鼻の穴を膨らませているのは、学生時代に「モテモテだな!」と友人に褒められことがきっかけだ。そういえば、悪友もこのパーティーに出席しているはずと思ったところで、アリッサがはしゃいだように声を上げた。
「カエサル、皆あっちにいるわ。行きましょう」
アリッサが「あっち」と指差す先にいるのは、学生時代からの友人とカエサルが担当している取引先――いわば彼の取り巻きたちだ。
「あぁ。皆揃っているな。ではプリムローズ、俺は彼らと商談をしてくるから、お前も遊んでいないで仕事をしろ。社交の場は、商会にとって仕事場でもあるのだからな」
カエサルはブロンドの髪をかき上げると、アリッサの手を取り彼らの元へと向かった。仕事場だと思っているのなら、愛人を連れてくるべきではないと思うのだけれど?
この国で、貴族男性が愛人を持つのは珍しくない。
でも、妻をないがしろにしたり、ましてや夜会に妻と愛人と一緒に来るなんて非常識にもほどがある。そんな男はカエサルだけだ。
彼の周りにいる人間は「妻と可愛い愛人の二人を連れて夜会に参加するなんて、さすがカエサルだ」なんて妙な賞賛をしているけれど、常識のある貴族は彼らに冷たい視線を送っている。
学生時代から変わらないその価値観に、どうして危うさを感じないのだろう。
たしかに学園に通っていた頃、婚約者がいながらこっそり他の女性と親しくしている人はいた。だけれどそれは一時の火遊びのようなもので、学園を卒業すると貴族として良識と常識のある行動に切り替えたというのに。
自分の耳に聞き心地の良い言葉を口にする人しか周りに置かないカエサルは、そんな視線には気づいていないのでしょうけれど。
カエサルは早逝した父の跡を継ぎ、セクスター伯爵の名とセクスター商会を引き継いだ。
セクスター商会は、このハドソーニ国一番の商会で、生地の取り扱いを得意としていた。隣国だけでなく船で数週間かかる国からも珍しい布を仕入れ、国内の洋装店に卸している。
私の実家、アリオン男爵家が経営する洋装店とも取引があり、その縁もあって、私とカエサルは十五歳のときに出会った。
そのあとは彼からの猛アピールで婚約が決まり、学園を卒業すると同時に結婚した。
周りはお似合いの美男美女だと祝福をしてくれたけれど、五年後の今、夫婦仲は冷え切っている。だって、こともあろうかカエサルはアリッサを敷地内の離れに住まわせたのだ。この状況で夫婦仲睦まじくなんて不可能に決まっている。
実家のアリオン洋装店は王都や周辺の主要都市に十店舗ほど店を持ち、貴族向けにドレスを作っている。
セクスター商会が主な取引先だから、父のためにもカエサルを支えてきたけれど……。
「どうやらもう、終わりにしたほうがいいわね」
愛人を連れ歩くカエサルの不誠実さを嫌う取引先が年々増えてきている。
今は私が頼み込みなんとか取引を続けてもらっているけれど、そろそろほころびが出るころだ。
思えば、結婚生活も、私にとって辛いだけものになっていた。
愛人の問題だけでない。カエサルはその時の気分次第で周りに当たり散らし、高圧的な物言いで相手を自分の支配下におこうとする。
それだけでなく、私が彼の意に反することをすれば無視をし、ひと月以上口を開かないことも珍しくない。
「俺にこんな態度を取らせるお前が悪い」「俺を怒らせるお前に非がある」と自分の正当性を主張し私を非難するカエサルに、言葉の通じない恐怖を何度感じたことか。
父親が亡くなるまで文官をしていたカエサルに商売の知識はない。
だから父の洋装店を手伝っていた私がアドバイスをすると「女のくせに生意気だ」「俺を馬鹿にしているのか!」と怒涛のごとく怒りだす。
こうなるともう手が付けられず、私が悪くなくても謝るまで無視されるのだ。
結婚前は人当たりがよく外面のいい姿にばかり目がいっていたが、結婚したとたん彼は私を見下し軽んじはじめた。
それでいて、機嫌がいいときは「子供が欲しい」「子供ができたら皆で旅行をしよう」「老後は夫婦仲睦まじくゆっくり暮らしたい」なんていう。
愛人が別邸にいるのに、どうしてあたたかな家庭を築けると思えるのだろう。
その思考回路が理解不能だったが、あるとき気が付いた。カエサルは将来を語る自分自身に酔っていただけなのだ。
そう発言することで、自分はなんていい夫なんだろうと自己満足をする。
自分を心地よくさせる夢想だから、現実的である必要はない。当然のことながら、そんな夢物語に私は付き合うつもりはない。ただ、何事にもタイミングがある。それを見極めるために離婚を思いとどまっていただけなのだ。
はぁ、とため息をついたところで、知り合いが声をかけてきた。
「プリムローズ、あなたの夫は相変わらずだね」
「パドリック、来ていたの。そうだわ、新しい商品について話しがしたかったの」
パドリックとはアリオン洋装店を手伝っていたときからの付き合いで、初めて会った時彼はまだ十歳、私は十七歳だった。
私はセクスター商会の仕事だけではなく、結婚後も父がしているアリオン洋装店を手伝っている。そちらの件でパドリックに見て欲しいものがあるのだ。
「分かった。でもそれは明日アリオン本店で聞いてもいいかな。この夜会では新規顧客を開拓したいんだ」
パドリックは隣国のエルグラート伯爵家の長男で、昨年から父親がしているエルグラート商会の仕事を手伝っている。
父親が国内の取引を担当しているのに対し、パドリックは異国で新たな取引先を探していた。
久しぶりに会ったパドリックは、あどけない顔立ちがすっかり消え失せ、凛々しい青年になっていた。茶色い髪は柔らかくシャンデリアの光を反射し、紫色の瞳には色香すら感じる。
思わずまじまじと見てしまった私に、パドリックはちょっと眉根を寄せた。
「何? 僕の顔になにかついている?」
「いいえ、いつの間にか大人になったなと思ったのよ」
「もう大人だよ。身長だってプリムローズよりずっと高い」
百九十センチ近くある長身は、痩身でありながら鍛えられている。百七十センチで細身のカエサルよりずっと逞しく見えた。
「そうね、私も年をとるはずだわ」
「プリムローズはまだ二十五歳じゃないか」
「もう二十五歳よ」
最近はカエサルとの離婚を真剣に考えている。
離婚しても再婚は難しい年齢だし、別れると実家がセクスター商会と取引を続けられなくなる可能性がある。
生地のほとんどを、セクスター商会から仕入れているだけに、そうなると洋装店を続けるのが難しくなるだろう。
だから躊躇していたけれど、その問題がもしかすると解決するかもしれない。つまり機は熟しつつあるのだ。
「いいじゃん。十歳と十七歳の差は大きいけれど、十八歳と二十五歳はそうでもない」
「? 同じ七歳差よ」
「いいや。僕が大人になった。その違いは大きい」
ニカッと笑う顔は子供の時と変わらないのに、どこか腹黒いものを感じてしまう。
何を考えているのだろう。
首を傾げる私にパドリックは「じゃ、新規顧客開拓、頑張ってくるよ」と手を振り立ち去っていった。
ひとりになった私は、会場内を見渡す。
何人か、今流行りの「プリマエステ」のドレスを着ている人がいる。
パドリックが働くエルグラート商会が専売権を持っている品で、隣国のみで売られているドレスだ。
それがこの会場で何着も見られるのは、パドリックの手腕のなせるものだ。
感心しながら、私は頭のすみで違うことを考える。
商売にタイミングは欠かせない。売り時、引き時を見逃さないのが、腕のある商人の条件だ。
「そろそろ、私も頃合いかもしれないわね」
小さな囁きは、ワルツの音楽に消し去られてしまった。
私はひとり、会場を進む。愛人と笑う夫を見るのも、今夜が最後かもしれない。
**元夫カエサル
「ふん、何が不満だったというんだ」
カエサル・セクスターは吐き捨てるように呟くと、妻であるプリムローズが置いていった離婚届にサインをする。そうして、呼び鈴で侍女を呼ぶと「これを教会へ」と、投げ捨てるかのように離婚届を渡した。
離縁を言い渡される心当たりが、カエサルにはない。
「充分な暮らしを与えてやったのに馬鹿な女だ」
忌々しそうに煙管をふかし、カエサルは紫煙を燻らせる。
結婚してすぐは、仕事のやり方について言い争ったこともある。
だけれど、仕事を役割分担するようになってからは、口論した記憶がない。
女性関係も――
「納得していたはずだ」
指摘された覚えはないし、貴族男性が愛人を持つのは珍しくない。
プリムローズではなく愛人のアリッサ・ディーロ男爵令嬢と一緒に夜会に行ったときも、何も言われなかった。
だから、夫婦関係はうまくいっていたと、カエサルは考えている。
結婚当初はカエサルの意図を汲み取れず、反抗的な態度を取ったプリムローズであったが、それに対しカエサルが一ヶ月ほど無視を決め込めば、やがて従順になった。
それでもまだ不満を言えば、「誰のおかげでこの生活ができるのか」と諭したものだ。
その結果、一年もすれば、プリムローズはカエサルが居心地の良い空間を作れるようになった。
帰宅すれば、カエサルをねぎらい、あたたかく迎える。
カエサルが、プリムローズが担当している仕事についてアドバイスを与えたときも、素直に頷き話を聞いていた。
愛人の誕生日に渡す新作のネックレスの予約をするように命じたときでさえ、穏やかな笑顔で分かったと答えたのに。
それなのになぜ出ていったのだろう。
子供ができたら、皆で遠出をしよう。
そして子供が成長して巣立ったら、老後は二人で花を育てようとカエサルは酔えば語った。
それに、プリムローズは目を細めながら頷いていたはずだ。
「男爵では味わえないような食事に、豪華な暮らし、ドレスを仕立てるのだって許してやっていたし、小遣いだって充分に渡していたはずだ」
それなのに、プリムローズは家を出ていった。
置かれていたのは離婚届と一枚の手紙。そこには『私を幸せにしてください』と書かれていた。
カエサルと別れることこそが、幸せだと言いたいのだろう。
「充分に幸せだったくせに」
自分が恵まれた環境にいるのに、それを享受しているうちは当たり前だと思い不満を口にする人間は一定数いる。
足るを知らない愚かな女だったと、カエサルは手紙をくしゃりと握りつぶすと床に投げ捨てた。
プリムローズが伯爵家を出てすぐ、アリッサが本邸に引っ越してきた。
そしてすぐに、伯爵夫人として使用人たちをまとめだした。
アリッサいわく、仕事をさぼっていた使用人が多くいたらしい。プリムローズが家政をないがしろにしているのが、俄に判明した。
すぐにそれらの使用人を辞めさせ、新たな使用人の面接は当然ながらアリッサがおこなった。
カエサルの生活は何も変わらない。
だからふとした瞬間に思うのだ。「プリムローズはきっと今頃後悔している」と。
離婚して三ヶ月が経ったカエサルの手元に夜会の招待状が届いた。
王女殿下八歳の誕生日を祝う夜会には、国中の貴族がこぞって着飾り参加する。
カエサルの机には山のように書類が積み重なっていたが、アリッサとの新婚生活を楽しむがあまりそれほど深刻に考えていない。
そこへアリッサが頬を上気させながら、執務室の扉をノックもせず駆け込んできた。
「カエサル、夜会の招待状が届いたと聞いたわ」
「あぁ、ここにある。久しぶりの夜会だから、皆に会うのが楽しみだ」
社交シーズンが終わって数ヶ月が経つ。夫婦として参加する夜会はこれが初めてだ。
「皆、私たちの結婚に祝電をくれたわ。夜会では王女殿下以上に祝福の言葉をもらうかもしれないわね」
さすがにそれはないだろうとカエサルは思いつつ、無邪気なアリッサに目を細める。
学生時代の少女らしさを残したアリッサは愛らしい。彼女を連れて歩くといつも周りが注目をする。
かつての夜会では、カエサルが担当している取引先がこぞって周りを取り囲み、競うように二人はお似合いだと褒めてくれた。
プリムローズは美しいが、アリッサのような無邪気な可愛らしさがない。
コロコロと笑い声をあげてカエサルの取引先と話をするアリッサのほうが、よっぽど社交的なように見える。
カエサルとプリムローズが担当する取引先の数は同じぐらいで、プリムローズに挨拶をする貴族ももちろんいたが、そこから賑やかな笑い声が漏れることはなかった。
どうせ仕事の話しかできないのだろう。人間関係を築くには、仕事以外の話題も口にすべきなのに、とカエサルは常々思っていた。
プリムローズにしつこいほど助言をしたが、困ったように笑うだけでいつまで経っても改善しない。
それをカエサルは「人には向き不向きがあるからな」と諦めの境地で友人に愚痴っていた。
仲間とのひと時は楽しく、ついつい大声になってしまうことも多い。
プリムローズが何度かそれに対し苦言を呈してきたこともあったが、カエサルが「良好な人間関係を築いているだけだ」と言えば口を噤み、「少しは俺を見習え」と言ったときには目を伏せ引き下がっていった。
「ねぇ、ドレスはプリムローズが経営しているお店『アリオン』で作らない?」
「アリオンでか? どうして。他にも人気の洋装店はいくつもあるだろう」
「でも、アリオン男爵家とは最近取引がないのが気になるの。もしかして経営がうまくいっていないんじゃないかしら? 王都以外の店を閉店したと聞いたわ」
プリムローズと離婚してから、アリオン洋装店とは一切取引をしていない。
国内で一番多くの生地を扱っている商会と取引せずに、洋装店が営めるはずがなかった。
「アリオン洋装店との取引は全てアリッサに任せていたな。離婚したからといって取引を停止するつもりはなかったが、どういうことなんだ」
「アリオン洋装店とはずっと特別価格で取引していたわ。でも離縁したから正規の価格に戻したところ高すぎると文句を言われ、それっきりなの」
それを初めて聞いたカエサルは、驚き声を荒げる。
「なんて面の皮の厚い連中なんだ。どうしてすぐに俺に報告しなかった? 確認するので帳簿を見せてくれないか?」
「ち、帳簿は……。あ、あの! お伝えしなかったのはカエサルの手を煩わせたくなかったからなの。今だから言うけれど、私、プリムローズにずっと虐められていたわ。きっと、私には何を言っても許されると考えているのよ」
「なんだと! どこまで卑劣な女なんだ。今から抗議しに行ってやる!!」
うっかり火に油を注いだとばかりに、アリッサは口を押さえた。
乗り込まれては困るとばかりに、いきり立つカエサルの前を塞ぐ。
「ま、待って。私は愛人だったから当然だわ。それに、今、とっても幸せだから気にしていないもの」
「あぁ、アリッサはなんと優しいのだ。しかもドレスをアリオンで仕立てるなんて、寛大でまるで女神のようだ」
カエサルはうっとりとしたようにアリッサを抱きしめ、甘い香りのする髪に顔を埋める。
「では、せめてもの意趣返しに、俺たちがいかに幸せか見せつけ、おなさけでドレスを注文してやろう。もちろん、アリッサに似合う最高級品のものだ」
「ありがとうございます! 私たちが愛し合っているってたっぷりみせつけましょうね」
はしゃぐアリッサの声に、カエサルは再婚して正解だと確信をする。
そんなふたりの足元に、管財人から届いた封書がひらりと落ちていった。
翌日、二人は揃って王都にあるアリオン本店を訪れた。
「いらっしゃいませ」
奥にいた赤い髪の女性が振り返り、翡翠色の瞳を大きく見開く。
「カエサル、様」
驚いたように呟くも、プリムローズはすぐにふたりに歩み寄ってきた。
「お久しぶりです。今日はどうしましたか?」
パッと花が咲いたような明るい笑顔に、カエサルは一瞬たじろいだ。
こんな風に笑う女だっただろうか。
取りすましたような笑い方しか思い出せない。だけれど、出会ってすぐの頃は無邪気に笑っていたようにも思えた。
呆気に取られていると、
「プリムローズ、そちらは?」
知らない男の声がした。ソファに座っていた男は立ち上がると、カエサルと向かい合う。
「パドリック、こちらはセクスター商会のカエサル様よ。セクスター伯爵、彼は隣国の商人です」
学園を出たばかりのような年若い男は、プリムローズから紹介されると、腰を折る。
「初めまして、隣国で商会をしているパドリックと言います。本日は、アリオンへの商談で参りました」
「そうか。それにしても商品が少ないな。アリッサに夜会のドレスを作りたかったのだが、生地がないのか」
「そうですね……。よろしければ、いくつかお薦めの品をお持ちいたしましょう」
プリムローズはそう言うと、奥へ下がっていった。
アリオンでは、客が選んだ生地で、店お抱えのデザイナーが一点物のドレスを作る。
見本となるドレスはいくつかあるが、生地がここまでないのは致命的だろうと、カエサルは店内を見回した。
「強がりを言ってどこまでも可愛げがない女だ。謝れば正規の価格で生地を売ってやると言うのに」
「正規の価格?」
それに反応したのは、パドリックだった。
「そうだ」
「あの金額が、セクスター商会の正規価格だというのですか。随分強気なのですね。さすがハドソーニ国一番の商会だけある」
にこにこと愛想よく笑いながら、パドリックはアリッサに同意を求める。するとアリッサは分かりやすく顔色を変えた。
「どうしたんだ、アリッサ。気分が良くないのか?」
「いいえ。あっ、でもそうかも。えーと、パドリック様がしている商会はなんという名前なのですか?」
アリッサが話題を変えようとするかのように、パドリックに話を振った。
「エルグラートと申します。僕は主にドレスや宝石の輸出入を任されています」
「エルグラート! あの『プリマエステのドレス』を独占販売しているエルグラート商会の方なの!?」
アリッサの瞳がきらりと輝く。
意味が分からないとばかりに不思議そうな顔をするカエサルに、アリッサは怒涛の如く説明を始めた。
「プリマエステのドレスは繊細な刺繍と宝石を散りばめた可憐なデザインで、一年前に隣国で開かれた夜会で王女殿下がお召しになったことから一躍有名となったの。今や周辺諸国でもとても人気があり、予約しても半年待ちと言われるほど。この国での取り扱いはなかったので、隣国の洋装店に直接予約しなくてはいけないのだけれど、もしかしてアリオンで取り扱いを始めるの?」
「それはなんとも言えませんね」
パドリックは意味ありげにがらんとした店内に視線を巡らせたあと、出直しますと言って出ていった。
その後ろ姿を見送ったアリッサは、がっかり半分、優越感半分でふっと笑う。
「プリマエステのドレスが手に入らないのは残念だけど、閑古鳥がなくアリオンと取引するはずがないから仕方ないわね」
「セクスター商会と取引をしないのだから、この廃れようは当然だな」
馬鹿にしたように目配せをする二人の前に、数枚の生地を持ったプリムローズが現れる。
「お待たせして申し訳ありません。今ある生地でアリッサさんに似合いそうなものを持ってきました。今から仕立てたとして……三ヶ月ほどで仕上がります」
プリムローズが持ってきた生地はどれもパッとしない暗い色か、目が痛くなるほど派手な色ばかり。
アリッサは鼻の上に皺を寄せカエサルを見上げる。
「酷いわ、私に似合うのはこんな色だと言うのね」
「ですが、アリッサも私と同じ二十五歳。それに結婚されたのだからいつまでもピンクやフリルたっぷりの服は……」
「カエサル、聞いた? プリムローズは自分が可愛らしい服が似合わないのを僻んで、私に地味な色を押し付けようとしているわ!」
カエサルに訴えるアリッサの服は、今日もフリルやレースがたっぷりとついている。
まるで十代の令嬢が着るようなデザインだが、カエサルの目にはそれがとてもよく似合って見えるのだろう。アリッサの訴えに同意するかのように、プリムローズを睨みつけてきた。
「どこまでも醜い女だ。アリッサ、行こう。アリオンでは碌なドレスが手に入らない。プリムローズ、お前が反省して謝るのなら生地を卸すのを考えてやってもいいと思っていたが、アリッサを侮辱するお前とは二度と取引をしない」
「別に構わないわ。間違ったことを言ったとは思っていないので、謝るつもりもありません」
「ちっ、どこまでいっても可愛げのない女だ。だから俺に捨てられるんだ」
「? 離婚届は私から……」
「うるさい!!」
カエサルは吐き捨てるように言うと、荒々しく扉を開けてアリオンを出ていった。
※
夜会当日、カエサルはアリッサを伴って夜会会場に足を踏み入れた。と、それを待っていたかのように取引先や友人が集まってくる。
「新婚生活はどうだい」
「やっぱりふたりはお似合いだよ!」
バン、と友人がカエサルの背中を叩き笑う。
その声の大きさに回りにいた人が眉を顰めた。
いつものように大声で歓談する友人たちだが、なぜがカエサルの声には覇気がなかった。
それもそのはず、管財人から「いい加減にしてください」と突きつけられた書類には、損失額が赤色でびっしりと書かれていた。
アリッサと結婚して半年。その間に幾つかの取引先が離れていった。全体数にして一割程度だから気にしていなかったが、いつの間にか売り上げが三分の一にまで減少している。
これはまずいと、さすがにカエサルは焦った。
友人との雑談におざなりに頷きながら周りを見渡せば、プリムローズが担当していた取引先が会場の端にいるではないか。
「すまない。ちょっと挨拶したい人がいるんだ」
そう言って急ぎ足で向かった先にいるのは、三人の男性だ。
そのうちの一人の名前を必死に思い出しながら声をかけた。
「お久しぶりです、マイク様」
「あぁ、カエサル殿か」
愛想よく声をかけたのに、相手はちらりとカエサルを見ただけですぐに顔を背けてしまう。再婚を祝う言葉どころか、季節の挨拶もない。
仕方なく、カエサルは三人の話に強引に入り込んだ。
「ちょうど良かった。遠方の国から珍しい生地が手に入りまして、ご覧いただきたいと思っていたんです」
三人はその言葉に目を合わせる。カエサルは、それを見ていい反応があったとぐっと拳を握った。
「それは、私たちもちょうど良かった。実はそちらとの取引を止めさせてもらおうと話していたところです」
「ち、ちょっと待ってくれ。いきなりそれは困る」
「困ると言われましても、私たちはプリムローズ様だから取引を続けていたのです。彼女はいつも誠実で一緒に仕事をして気持ちがいい」
腹の出た男が思い出すように言えば、髭の男が大きく頷く。
「それに比べ、貴方に代わってからはサンプルを送ってくるだけで、挨拶にもこない」
カエサルはその言葉に驚いた。
自分が担当していた取引先には、いつもサンプルを送って受注をとっていた。いままでそれで問題なかったのに。
小口の取引先にしてみれば、王都で一番多くの生地を扱っているセクスター商会との縁は何としても繋いでおきたい。だから、多少無礼でも許していた。サンプルを送れば発注が来たが、大手の取引先相手にその手は通じない。
きちんと挨拶に伺い、商品説明をして売り込まなければいけないのだが、そんな仕事の仕方をカエサルはしたことがなかった。
しかも今、目の前にいる三人は、直接隣国の商会とやりとりできるだけの金と伝手と信用がある。あえてセクスター商会にこだわる必要はないのだ。
「で、では、これからは俺が直接お伺いします」
食い下がるカエサルに、細身の男が冷ややかな視線を向けた。
「あなたにそう言われても、誠意が伝わらない。妻よりも愛人を優先するような常識のない人間との取引は御免こうむりたいものだ」
やけにその声が会場内に響いた。
あちこちからカエサルをあざ笑う声が聞こえてくる。
いったいこれはどういうことだ、とカエサルは周りを見渡した。
蔑むような視線、馬鹿にしたように笑う顔、嘲笑の声。
「な、何がどうなっているというのだ?」
今まで持て囃されていたのに、急に世界が変わったことにカエサルは唖然とした。
*** プリムローズ
離縁して初めての夜会のせいか、私に向けられる視線が多い。
「なんだか注目されているみたい。すごいわね、パドリック」
これは私のせいだけではない。
今夜、パドリックがエスコートを申し出てくれた。
彼がこの国の貴族と繋がりを持ちたがっていたのは知っていたので了承したけれど、その見目の良さは予想以上に目立つようだ。
「僕を見ているんじゃない。皆がプリムローズの美しさに驚いているんだ」
「あら、いつの間にそんなに口がうまくなったのかしら」
「心外だな、僕は本心で言っているのに」
軽く睨むと、茶色い髪が揺れ紫色の瞳が細められる。
元夫であるカエサルとの結婚生活にいい思い出はない。
五年間、ずっと我慢を強いられてきた。
愛人は作るし、気分次第で私を無視し、軽んじ、ないがしろにする。
それらについては、早々に割り切ったけれど、仕事ができないのだけはなんとかしなくてはいけなかった。
カエサルは、黙っていれば勝手に商品が輸入され、販売されていくと思っている。
当然のことながらその無能はすぐに露わになり、大口の取引先が離れそうになった。
それとは反対に「搾り取ってやろう」「利用してやろう」と悪意を持った商人が近づいてくる。
だから私はカエサルに仕事の分担を提案した。
新規顧客の開拓と、既存顧客のうち大口の取引先は全て私が引き受け、カエサルには小口の既存顧客のみを頼む。
大口の顧客数は全体の顧客数の二割で、総売り上げの八割を占める。それに対し小口顧客は数こそ多いが、売上に締める割合はとても低い。
ちょっとぐらいカエサルがポカをして取引中止となっても、痛手は少ない。
実際、幾つかの取引先と揉め事を起こし、取引が無くなった。
それもまぁ、想定内だから、商会の経営が傾くことはない。
ただ、担当した取引先の数だけは同じにしておいた。
カエサルの担当が多ければ「俺にばかり仕事を押し付けて」と怒るだろうし、逆に少なければ「俺が仕事ができないと言いたいのか」と腹を立てる人だ。
だから、嫌味なほどぴったり半分にすれば、文句は言ってこなかった。
私が仕事で忙しくしているのをいいことに、次第にカエサルは家に帰らなくなり、別邸に入り浸るようになる。
やめて欲しいと頼んだこともあったけれど、貴族男性の嗜みのようなものだからそんなことで目くじらを立てるなと怒鳴られ、私はすっかり彼への関心をなくしてしまった。
愛情の反対は嫌悪ではない。無関心だ。
結婚前に抱いていた恋慕はすっかり消え失せた。
カエサルの周りはいつも取り巻きがひしめいている。
彼が担当している商人や友人は、カエサルを常に盛り立てる。彼らに持ち上げられ、カエサルはすっかり裸の王様となってしまった。
しかも彼らがカエサルを持て囃す声があまりにも大きい。煩い。
そのせいで鼻につくと高位貴族から疎まれているのに、カエサルはそれに気づきもしない。
悪目立ちするカエサルは、嫌でも視界に入ってくる。
アリッサは今日も胸元の大きく開いた、ピンク色のドレスでカエサルによりかかっていた。
社交界において、未婚既婚ではドレスコードが違う。明記されたものではなく、暗黙の了解とされているものだけれど、それが常識となっていた。
二十五歳の夫人としてアリッサの着ているドレスは、常識ある貴族の価値観から見ると「痛い」。若作りしているように感じられるし、取引先からの信頼を得にくいだろう。
そんな二人を、今宵もカエサルの取り巻きがはやし立てていた。
「別れてすぐにこんな可愛らしい人と再婚できるなんて、さすがカエサルだ」
「カエサル殿の魅力に惹かれた令嬢が、ずっとこちらを見ているぞ」
「ははは、そんなこと言っては、アリッサが焼きもちをやくだろう」
上機嫌に笑うカエサルを、会場にいる多くの人が冷めた目で見る。
どうしてこうも考えが足りないのだろう。
一部の人間にちやほやされて、全体を見れていない。
取り巻きの中には、あえてカエサルの評判を落とそうと、彼を持ち上げ楽しんでいる人もいるのにどうして気が付かないのかしら。
いい気になって笑う彼は、道化もいいところだ。
「あの取り巻きのうち何人かは、カエサルを馬鹿にしてるみたいだな」
パドリックは意地悪く目を細める。
「よく分かったわね」
「常識で考えれば、妻の前で愛人をエスコートする男を、社交界が受け入れるはずがない。しかも、あれだけセクスター商会のために頑張っていたプリムローズと別れて、アリッサと結婚するなんて愚行としか思えない」
愛人を持つ貴族は少なからずいる。
でも彼らは本妻を最も大事にするし、間違っても妻の前で愛人をエスコートするなんて愚行はしない。
「アリッサも、どうしてあんなに生地の値段を吹っ掛けてきたのかしら。相場の十倍よ。私が相場を知らないとでも思っているのかしら」
「セクスター商会との取引を止める貴族は多い。おかげで僕は新規顧客を開拓できて助かる」
セクスター商会の不振は、私の耳にも届いている。
その主な原因は、商会の有力な取引先がこぞって取引の中断を申し出てきたからだ。
今まで私が窓口になっていたから取引をしてくれていたものの、彼らはカエサルを嫌っていた。
離婚したと知った瞬間に手のひらを返した人も多かったと思う。
そう考えていたときだ。
「おい! セクスター商会の客を引き抜くとはいい度胸だな」
いつの間にか近くにいたカエサルに怒鳴られた。
突然のことで驚いていると、パドリックが私を背に庇うようにして立った。
「それは聞き捨てなりませんね」
「うるさい! さっき俺の取引先が取引の中止を言ってきた。これからはエルグラート商会から生地を買うといっている。ふたりグルになってやり方が汚いぞ!」
カエサルはパドリックに掴みかかろうとする。
だけれど、伸びてきた手をパドリックが素早く避ける。
「言いがかりはよしてくれ。たしかに数ヶ月でエルグラートの新規顧客数は増えたが、取引をしたいと言ってきたのは向こうからだ。何でも、今まで取引していた商会が不当に生地の値段を上げてきたとか」
「そんなことはない」
「僕が聞いた話によると、担当がアリッサ夫人に代わったとたん値段が数倍にもなったそうだ。困った彼らが我が商会に興味を持ってくれた。こちらから勧誘はしていない」
カエサルは生地の値段が上がっていると知らなかったらしく、あからさまに顔を青くした。
私たちの騒動に人が集まってくる。
「セクスター商会はプリムローズでもっていたようなものなのに」
「離婚して再婚したのがあのアリッサだろう。商売の基本どころか、計算も碌にできないらしいぞ」
あちこちで囁かれる言葉は、今までと変わらない。
でも、今日、やっとカエサルの耳に届いたようだ。
「セクスター商会が売り上げ不振なのは、貴方の手腕のせいでしょう?」
私の言葉にカエサルは眉をつりあげる。
「さては、自分が抜けたから商会が駄目になったと言いたいんだな! お前の手柄でセクスター商会が成り立っていたと主張したいのか!」
「そんなこと私は言っていな……」
「お前はそうやっていつも自分の優秀さをアピールするが、じゃ、アリオンはどうだ。この前に行ったとき、店内に商品はなかったじゃないか。お前が無能な証拠だ!」
こうなるとカエサルは手がつけられない。
自分に都合のよい言葉で畳み込み理不尽な理屈で相手をねじ伏せようとする。
傍目に見れば無様なその姿を、本人だけは自覚することなく延々と文句を言ってきた。
それに耐えかねたように声を発したのは、私ではなくパドリックだった。
「アリオンに生地がなかったのは全部売れたからだ。プリムローズが一年前に立ち上げたブランド『プリマエステ』は大変好調で、作ってはすぐに売れるからな」
パドリックの声に反応したのは、周りにいた令嬢・夫人たちだった。
「プリマエステのドレス?」「アリオンで買えるの?」という囁きが私の耳にも入ってくる。
それを聞きつけたかのように、アリッサもやってきた。
その信じられない姿に、私は度肝を抜かれてしまう。
肌の露出の多いピンク色のドレスの肩には、豪奢な毛皮が掛けられていた。さっき視界に入ったときは着ていなかったはずだ。
「ねぇ、プリマエステのドレスって聞こえたから来たけれど。あっ、あなた、この前お会いしたパドリック様ですね」
アリッサは媚びた視線をパドリックに送るも、パドリックはアリッサを見ようともしない。
カエサルが怪訝に眉間に皺を寄せる。
「プリムローズがブランドを立ち上げた? どういうことだ」
「どうと言われましても、そのままよ。あなたと結婚したあとも、私は父の仕事は手伝っていた。その関係でドレスのデザインをしていたのだけれど、私のデザイン画がパドリックの目にとまったの。そこで、アリオンにある生地を使ってドレスを作り、それをエルグラート商会に売っていたのよ」
ハドソーニ国は肩や胸元が大きく開いたデザインが好まれるのに対し、隣国の貴婦人は胸元や背中をレースで隠すドレスを好んで着る。
私のデザインは隣国向きだったので、エルグラート商会を通じて隣国で販売を始めた。
でも流行とは変わるもので、最近になって隣国のデザインがこの国で流行りだした。
私がカエサルとの離婚を決心できたのは、セクスター商会との繋がりが途絶えてもアリオン洋装店はエルグラート商会と取引できるからだ。
「し、しかしアリオン洋装店は経営不振だと聞いた。だから王都以外の店を閉めたんだろう」
「閉店したのは、それらのお店をドレスを仕立てる縫製工場にするためよ。エルグラート商会から沢山の生地を仕入れたから、これからはもっとドレスを作れるわ。今まではプリマエステのドレスは隣国から逆輸入するしか手に入れる術がなかったけれど、これからは王都にあるアリオンでもプリマエステのドレスを取り扱う予定なの」
私の言葉を聞いた令嬢、夫人たちがきゃぁ、と色めきだった。
プリマエステのドレスはエルグラート商会の専売だけれど、もとは私がデザインしたドレスだ。
だから、契約を変更して、アリオン洋装店で販売できるようにするのは簡単だった。
「プリマエステのドレスが手に入りやすくなりそうよ」
「国内に専門のお店ができると聞いたけれど、プリムローズが経営するのね」
私がデザインしたドレスを待ってくれている人は多い。
アリオンの経営は右肩上がりで、来年には隣国にもお店を出そうと計画している。
「じゃ、アリオン洋装店は好調だというの? しかもプリマエステのドレスの販売を始める?」
アリッサが私たちの会話に強引に割り込んできた。
「そうよ」
肯定すれば、今度はカエサルが「俺がいなくて困ることはないのか?」と聞いてきた。今更何を言っているのかしら。この問いには首を傾げてしまう。
「特にないわ」
というか、私の悩みの種があなただったのだけれど。
意気消沈している二人に、私はずっと気になっていたことを聞く。
「噂で聞いたけれど、北のとある商人が違法な毛皮を売って捕まったそうよ。アリッサが肩から掛けている毛皮だけれど……まさしくそれじゃない?」
ギョッとした顔でカエサルがアリッサを見た。それからまじまじと毛皮を観察する。そこでやっと気がついたようで、顔色を青くした。
「アリッサ、それをどこで手に入れた」
「さっき新しい取引先からいただいたのよ。本当は夜会前に邸に届く予定だったのだけれど、当日になってしまったの。ところで違法な毛皮ってなに? これは珍しい動物の毛皮で……あっ、分かった! プリムローズ、これが羨ましいんでしょう?」
ほら、と周りに見せつけるようにアリッサは毛皮を指で摘まんだ。周りが騒然となる。
「アリッサ! その毛皮をいますぐ脱げ!」
「えっ? 何で? 皆褒めてくれたのよ?」
皆、とはきっとカエサルの取り巻きたちだろう。彼らは何も考えずに、カエサルと愛人を手放して褒めるもの。
「アリッサ、それは絶滅危惧種の動物の毛皮よ。それを夜会で身に着けるなんて、自ら罪を犯しましたと言い触れているようなもの」
入り口辺りが騒がしくなり数人の衛兵が現れた。
彼らはアリッサの肩を摑むと、毛皮をはぎ取り凝視する。
「な、なによ! 突然現れて。毛皮を返して! それ、高かったんだから」
「この毛皮についてちょっと話を聞かせてもらおうか」
ぐいっと腕を引かれ、アリッサが会場の外へと連れていかれる。「離しなさい! カエサル、助けて」と悲鳴がするも、もちろん誰もが目を逸らした。
違法毛皮を扱う商人と取引していたのなら、間もなくカエサルの元にも衛兵が来るはず。
さすがにそれは分かっているようで、カエサルが震える手で私の両肩を掴んだ。
「ぷ、プリムローズ、助けてくれ。俺を愛しているのだろう? 五年も一緒に暮らしたじゃないか」
「あなたは結婚する時、私を幸せにしてくれると言ってくれました。大事にすると約束しました」
「だから、何不自由ない生活を送らせてやっただろう?」
「送らせてやった、とはどういう意味ですか? 少なくとも私はあなたに大事にしてもらった記憶はありません。ただただ、苦しかった。辛かった」
五年間の辛い思いがこみ上げてくる。
仕事を押し付けられ、愛人を作られ、存在を軽んじられてきた。
どうせなら言いたいことを言ってやろう、そう思って私は大きく息を吸う。
「機嫌が悪いときは無視され、ないがしろにされ、あなたの苛立ちをただ受け止めなくてはいけない。そんな生活が本当に幸せだと思っているの? あなたは、私に感情や人としての尊厳があると考えてもいないのでしょう。存在も言葉も全てないがしろにされ、軽んじられ、そんな状況で一生連れ添ってもらえるなんてどうして思えるのか、その考えが理解できないわ」
カエサルは、機嫌がいいとき、老後の話をする。
二人で花を育てようとか、旅行に行こうとか。
「あなたが未来を語る時、どうしてそんな未来が来ると信じていられるのか、不思議で仕方なかった。自分を傷つけ苦しめるだけの存在と延々と一緒にいたいと思う人間なんて、いるはずないじゃない」
今、私がカエサルに感じるのは嫌悪感しかない。
触らないで欲しい、声を聞きたくない、私の前から姿を消して欲しい。
――気持ち悪い――
生理的な嫌悪が背中を伝わって這い上がってくる。
さすがに人としてそこまで言わないけれど、今までされてきたことを考えると、思うぐらいは許されるだろう。
「お、俺は、お前を愛しているんだ。だからやり直そう!」
「やめて」
口に出さなくても、嫌悪感とは滲むものだ。
私の表情と口調にカエサルはさっと青ざめた。
「こ、これからは大事にすると約束する」
「もう、あなたに大事にされたいと思っていません」
「幸せにする」
「あなたと別れて、やっと幸せになれたのです」
カエサルが力なく床に座り込む。そんな姿を見ても私の胸には何も浮かんでこない。
ざまぁみろ、って感じるのかと思っていたけれど、ただただ「無」だった。
蹲るカエサルの肩を衛兵が叩く。
「カエサル・セクスター。アリッサがセクスター商会で違法毛皮を販売しているとあっさり認めた。それについて話を聞きたい」
多分、アリッサはまだことの重大さに気付いていない。
どこで手に入れたか聞かれ、素直に答えたのだろう。
「俺は何も知らなかったんだ」
「だが、セクスター商会の責任者はお前だよな?」
「あれは! アリッサが勝手にしたことで。俺はあいつに騙されていたんだ。やっと目が覚めた。頼む、プリムローズ、俺ともう一度結婚して、助けてくれ!」
まだ言うか。
衛兵が私に視線を向ける。
「元セクスター夫人ですよね」
「ええ。元、です。今はただの他人ですから、私は関係ないわ」
「そうですね。カエサルの不誠実さは有名ですが、それに対し貴女は高潔だと賞賛されています。騒がせて失礼いたしました」
衛兵は軽く頭を下げると、カエサルを連れ去っていった。
パタン、と会場の扉が閉まると同時に、夜会はさっきまでの雰囲気を取り戻す。
それと同時にワルツが流れ、ダンスが始まる。
誰もが、カエサルは遅かれ早かれこうなるだろうと思っていた。
自分を慕う者だけで周りを囲み、有頂天になっていたピエロはもういない。この会場にいる大勢の人にとって、当然の結末なのだ。
「ではプリムローズ、僕と踊ってくれますか?」
パドリックが手を出してくる。
「もちろん」
「ついでに、恋人になってくれると嬉しいんだけれど」
さらりと述べられた言葉に、思わず吹き出す。
「酷いな。どうして笑うかな」
「だって、再会してから会うたびに同じことを言うのだもの」
「それはプリムローズが了承してくれないからだろう。僕はプリムローズのために最高級の生地を用意する。それを使ってプリムローズは素晴らしいドレスを世に送り出す」
「それなら恋人でなくてもできるわ」
話しながら会場の真ん中まで来た私たちは、ステップを踏み始める。
「えー、じゃ、恋人じゃないとできないことをしたいと言えば、恋人になってくれるのか?」
「うーん、下心たっぷりすぎて『はい』とは言えないわね」
私の答えにパドリックはがっくりと肩を落とす。
今はまだ、胸に芽生えた淡い気持ちを大切にしたいから、これぐらいの距離でいたい。
だって、邪魔者は退場したばかり。
私の人生はこれからなのだから、焦る必要はない。
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