【閑話】ユキナ the Devoted Observer
第86話 (ep90) とエピローグ (ep91) の間のエピソードです。
王女専用食堂を照らす魔法の明かりは、朝を再現するように柔らかな透明感を湛えていた。
その穏やかな光の下、シアとハヤトは向かい合いながら黙々と朝食を取っていた。
ナイフが皿に触れる微かな音。
それに続くフォークの軽い響き――その小さな音だけが、食堂で交わされる唯一の「会話」だった。
テーブルのそばでは、侍女のユキナが控えていた。
彼女の目は空になりかけたカップや皿を注意深く追っているが、その表情には一切の感情が浮かばない。
ユキナは、ただ与えられた役割を忠実にこなしているだけだった。
そこへ、エルルが料理を乗せた盆を運んできた。
ユキナはエルルから料理を受け取ると、シアとハヤトの前に丁寧に配膳した。
シアはスープを一口すする。
口元を軽く拭うと、静かにスプーンを置いた。
一方のハヤトはパンを手に取りながらも、目線を皿に落としたまま動かない。
その沈黙が、食堂の静けさをさらに際立たせていた。
スープを飲み終えたシアが、ふと顔を上げる。
「訓練の進捗はいかがですか?」
ハヤトはフォークを皿に置き、少しの間を置いてから答えた。
「疲れるけど、順調だよ。前よりだいぶ慣れてきた」
それ以上言葉を交わすことはなかった。
シアは軽くうなずき、静かに席を立つ。
ハヤトもそれに続き、朝食の場はあっという間に終わりを告げた。
ユキナは、彼らが食べ終えた皿を片付けると、食堂をあとにする。
厨房に戻ると、エルルたちが準備していた食事がテーブルに並べられていた。
ユキナは無言で席に着き、エルルたちと共に朝の食事を取る。
会話は少なく、食事は淡々と進んだ。
食事を終えたユキナは、早速持ち場の掃除に取りかかる。
王女の生活空間には、自然石を巧みに加工して作られたタイルが敷き詰められている。
そのタイルの表面は滑らかで美しく、場所によっては微細な模様が彫り込まれ、特別な空間を演出していた。
ユキナは客間や廊下の埃を払い、自然石のタイルに付着した汚れを丁寧に拭き取っていく。
その動作には迷いがなく、一つひとつが正確で速やかだった。
窓のない地下の廊下も、魔法の明かりが整えた柔らかな光に包まれている。
その光がタイルの表面に反射して艶やかな輝きを放つまで、ユキナは一切手を抜くことなく清掃を続けた。
ユキナは掃除道具を片付けると、手を軽く払った。
短い休憩時間を利用して、彼女は12階層へ向かう。
訓練場に近づくと、低いかけ声と靴音が耳に入った。
ユキナは物音を立てないよう足音を抑え、入り口の陰からそっと覗き込む。
広い訓練場の中央で、ハヤトが女性兵士の指導官と向かい合っていた。
指導官は短く鋭い声で指示を出し、それに応えるようにハヤトは必死に動いている。
腕立て伏せ、スクワット、ダッシュ――次々と課される激しい運動に、ハヤトの額から汗が滴り落ちていた。
「あと5回だよ!」
指導官が声を張り上げた。
ハヤトは歯を食いしばり、懸命に力を振り絞っていた。
その姿を見つめるユキナの表情には変化はない。
けれど、その視線はしっかりとハヤトの動きを追いかけていた。
しばらくその様子を見守ったあと、ユキナは静かにその場をあとにした。
7階層に戻ると、手早く持ち場に戻り、掃除の続きを始める。
その動きには迷いも疲れもなく、まるで何事もなかったかのようだった。
昼食を終えたユキナは、持ち場の仕事を一通り片付けると、再び12階層へ向かった。
訓練場に着くと、午前中と同じ指導教官の声が飛んでいた。
「構えて……撃って!」
ユキナは物音を立てないよう入り口の陰に身を隠し、静かにその光景を見つめた。
訓練場の中央では、ハヤトが銃を構えていた。
的は10メートルほど先に設置された木製の標的板だ。
指導教官の指示に従い、ハヤトは慎重に狙いを定める。
パンッ!
乾いた銃声が地下の空間に響き、標的の中央に小さな穴が開いた。
「いいよ、いいよー♪ その調子だよ!」
教官の明るい声に、ハヤトはわずかにうなずき、再び銃を構える。
額には汗が滲んでいるが、集中力を切らすことなく、同じ動作を繰り返していた。
短い時間だけその様子を見守ったユキナは、静かにその場をあとにした。
足音を立てぬよう慎重に階段を上り、再び7階層の持ち場へと戻る。
掃除道具を手にした彼女の動作に淀みはなく、訓練場を訪れていたことを示す痕跡はどこにもなかった。
夜の食堂は、昼間よりもさらに静まり返っていた。
魔法の明かりが薄く灯され、広い空間にふたり分の食事が整えられている。
シアとハヤトは向かい合って座り、いつものように言葉を交わさず、静かに食事を進めていた。
ユキナはテーブルのそばに控え、ふたりの食事を見守っている。
空になった皿を下げ、新しい料理を配膳する動作は正確で無駄がない。
ふたりの沈黙は重苦しさを感じさせるが、ユキナの表情には一切の変化がなかった。
食事が終わると、シアは軽く頭を下げて席を立つ。
ハヤトもそれに続き、黙ったまま食堂をあとにした。
ユキナは片付けを迅速に終え、厨房へ戻ると自分の食事をすばやく済ませた。
エルルたちが食後の休憩を取る中、ユキナはそっとその場を離れ、12階層へ向かった。
訓練場に近づくと、剣がぶつかり合う金属音が耳に飛び込んできた。
音のする方をそっと覗き込むと、ハヤトが女性騎士の指導を受けながら剣を振っていた。
広い訓練場の中央で、ハヤトは木剣を握り、教官の素早い動きに食らいつこうと懸命に攻防を繰り返している。
教官の動きは容赦なく、攻め込むたびにハヤトは防御に追われ、額には汗が光っていた。
それでも、一歩ずつ動きを修正し、反撃のタイミングを探ろうとしているようだった。
「もっと体重を乗せなさい!」
教官の鋭い声が飛ぶ。
ハヤトは息を整え、再び剣を構えた。
その姿を、ユキナは入り口の陰からじっと見つめていた。
しばらくその様子を見守ると、ユキナはそっと訓練場をあとにした。
7階層の自室に戻ると、書類が山積みになった机に向かう。
そこには、シアの元に届けられた報告書が積み上げられていた。
ユキナは一通り目を通し、重要な部分だけを簡潔にまとめていく。
ペン先が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に響いていた。
彼女の手は休む間もなく動き、次々と文書を仕上げていく。
要約が終わると、ユキナは仕上げた文書を綺麗に整え、再確認を行う。
やがて、短く息をつくと、次の仕事へと移るため席を立った。
ユキナは会議室の机の前に立ち、エルルたちを前に礼儀作法の講義を始めた。
姿勢や振る舞いについて簡潔に説明し、実際に動作を交えながら要点を伝えていく。
エルルたちは真剣に話を聞き、何度もうなずいていた。
講義が終わると、エルルたちは礼を言いながら寝室へ向かった。
その姿を見届けたユキナは、部屋を整えると、シアの元を訪れた。
軽く一礼したあと、今日の報告を淡々と行う。
「ハヤト様の訓練ですが、剣術も射撃も順調に進んでおります」
シアはその報告を聞き、短くうなずく。
「そうですか。引き続き注視してください」
ユキナはその言葉を受けると、無言で一礼し部屋をあとにした。
自室に戻ったユキナは、手早く寝る準備を済ませ、ベッドに身を沈める。
薄暗い部屋の片隅で、魔力時計の針が0時を指そうとしていた。
ユキナは時計にそっと手をかざし、少量の魔力を注ぎ込む。
文字盤がふっと柔らかい光を帯びる。
ユキナはそれを確認すると目を閉じ、深い眠りへと落ちていった。
ユキナは目を覚ますと、一度だけ深呼吸をし、ベッドから起き上がった。
魔力時計の針は4時少し前を指している。
薄暗い室内で身支度を整え、制服のシワを手で軽く伸ばす。
その後、姿見の前に立ち、自分の姿を念入りに確認した。
わずかに身だしなみを整え直すと、声に出すことなく小さくうなずく。
ユキナは部屋を出た。
廊下は時間に応じて明るさを変える魔法の明かりに照らされている。
この時間帯はまだ控えめな光しかないが、足元が見える程度には十分だった。
シアの部屋の前に差し掛かると、ユキナは扉に向かって無言で頭を下げた。
その所作は短く、けれど規律正しさが感じられる動きだった。
廊下をさらに進み、扉を開けると、寝ずの番をしている兵士たちが控えていた。
彼らはユキナの姿に気づき、軽く視線を向ける。
ユキナは何も言わず、丁寧に一礼だけして挨拶を済ませると、そのまま静かに通り過ぎた。
再び足音を立てずに歩き出す。
次の目的地はハヤトの部屋だ。
廊下を進むユキナの姿は、静まり返った朝の空気に溶け込んでいる。
真新しい扉の前に立つと、ユキナは軽く息を整えた。
そして、そっと扉をノックする。
コンコン、と控えめな音が廊下に響く。
10秒ほど待つが、部屋の中から応答はなかった。
「失礼いたします」
小さく一言告げると、ユキナは扉をそっと開け、中に足を踏み入れる。
部屋の中は闇に包まれており、わずかな物音も聞こえない。
ユキナは小さな声で呪文を唱えた。
掌の上に青い光がふっと浮かび上がり、柔らかな球状の明かりが部屋をぼんやりと照らす。
その光がベッドに横たわるハヤトの姿を浮かび上がらせた。
ベッドに近づいたユキナは、掛け布団が少しずれていることに気づくと、手早く整えた。
次に、部屋の片隅に置かれていた椅子を静かに持ち上げ、ベッドの前まで運ぶと腰を下ろした。
ユキナは一度だけハヤトの寝顔に視線を向けると、手をかざして光の球を消した。
青白い光が消えると、部屋は再び闇に包まれた。
ユキナは暗闇の中で背筋を伸ばし、物音ひとつ立てることなく座り続ける。
時間の流れは、音もなく静かに過ぎていった。
闇の中、ユキナの目はすでに暗がりに慣れ、ぼんやりとした形を捉えていた。
ハヤトの寝息が規則的に聞こえているが、しだいにそのリズムが乱れ、微かなうめき声が漏れ始める。
ユキナはそっと立ち上がり、ベッドに歩み寄った。
うなされるハヤトの額には薄い汗が滲んでいる。
彼女はそっと彼の手を取り、軽く握った。温かな手のひらが、彼を包み込む。
その温もりに応えるように、ハヤトのうめき声は徐々に収まり、呼吸が平静を取り戻していった。
しばらくして、ユキナはゆっくりと彼の手を離し、再び椅子に戻って腰を下ろした。
けれど安堵する間もなく、ハヤトの頬を一筋の涙が静かに伝っていた。
その小さな輝きに気づいたユキナは、すばやくポケットからハンカチを取り出す。
慣れた手つきでハンカチを彼の頬にあてがい、涙の跡をそっと拭き取った。
布が触れるたび、彼の表情は少しずつ穏やかさを取り戻していく。
「大丈夫です」
ユキナは小さな声で耳元に囁いた。
その言葉は静かな夜の中で、優しく響いた。
その声が届いたかのように、ハヤトは深いため息をひとつつき、身体の力を抜いて深い眠りに落ちていった。
ユキナはハンカチを折りたたんでポケットに戻すと、再び静かに椅子に腰を下ろした。
闇の中で彼の安らかな寝顔を見守りながら、ユキナは微動だにせず、静けさに耳を傾けていた。
部屋の魔法の明かりが少しずつ強まり、柔らかな光が闇を押し広げ始める。
朝の訪れを感じたユキナは、音を立てないように椅子を片付け、ベッドの前に立った。
安らかに眠るハヤトを見守りながら、光が十分に部屋を照らすのを待つ。
やがて、部屋は朝の明るさに包まれた。
ユキナはハヤトの肩にそっと手を置き、軽く揺さぶる。
「おはようございます。ハヤト様」
ハヤトはゆっくりと目を開けたが、疲れがまだ取れていないのか、重い声で答えた。
「おはよう、ユキナ」
彼は毛布を押しのけながら身を起こし、ぼんやりとした顔で尋ねた。
「今日の朝食のメニューは?」
「焼き魚と卵料理、パン、チーズ、それに果物の盛り合わせでございます」
「いいね、豪華だな」
一瞬、ハヤトの表情が明るくなる。
だが、すぐに何かを思い出したように顔をしかめた。
「ああ……今日はあのふたりも来るのか……」
ハヤトは肩を落とし、大きくため息をついた。
「シアとの食事は楽しいんだけど、マドールとゼノンが来ると気疲れするんだよな。今日は体調が優れないってことにして、シアたちとの食事はパスで」
「かしこまりました」
ユキナの返答は簡潔だった。
ハヤトはしばらく考え込むようにしてから、ふと顔を上げる。
「あとで、ユキナたちと食べたいんだけど」
「はい。そのように準備いたします」
ユキナは丁寧に一礼すると、ハヤトの部屋を静かに出た。
扉が閉まり、廊下の魔法の明かりが淡く彼女を照らす。
ユキナの顔にはいつものように何の表情も浮かんでいない。
ただ、その足取りにはわずかな揺れがあり、まるでどちらに進むべきかを模索しているようだった。
ユキナはシアの部屋の前に立つと、軽くノックをした。
「お入りなさい」
中から透き通った声が返る。
ユキナは静かに扉を開けて中に入った。
シアは姿見の前で椅子に座り、美しい黒髪を丁寧に梳かしていた。
その仕草には、一切の乱れがなく、まるで儀式のような気品が漂っていた。
ユキナは一礼し、静かに口を開いた。
「本日の朝食ですが、ハヤト様は参加されません」
シアは髪を梳かしたまま、鏡越しにユキナに視線を向ける。
「どうかしたのですか?」
「体調が優れないということになっております」
シアは鏡に目を戻し、髪を梳きながら小さくうなずいた。
「わかりました」
ユキナは昨晩の様子について報告を続けた。
「昨夜もハヤト様はうなされておられました」
シアは手を止め、「そうですか」とだけ答えた。
目は鏡の中の自分を見つめたままだが、その奥にはわずかな揺らぎが浮かんでいる。
「寝ている間までは……」
シアは小さくつぶやき、言葉を切った。
部屋の中に短い沈黙が流れる。
やがて、思いついたように口を開いた。
「いえ、日中の疲れが出ているだけかもしれませんね。就寝前にマッサージを施してみましょう」
シアは再び髪を梳かし始める。
「本来ならナズリーに任せるべきところですが、未だ病床に伏せたままですし……ゼノンに人選をさせましょう」
シアの言葉を黙って聞いていたユキナが、一歩前に進み、深く頭を下げた。
「私にやらせてください」
シアは再び手を止め、少し目を細めてユキナの顔をじっと見つめた。
そのまま短く考え込むような間があったあと、口を開いた。
「マッサージは簡単な仕事ではありませんよ」
「はい、承知しております」
「力の加減や、筋肉の状態を見極める技術も必要です。体力も使う。あなたにできると思うのですか?」
シアの静かな問いかけに、ユキナは迷いなく答えた。
「精一杯やります。それがハヤト様のお役に立つのなら、どんな仕事でも務めます」
その言葉に、シアはしばらく視線を落とし、考え込むような仕草を見せた。
やがて、再びユキナに目を向け、微かにうなずく。
「あまり接触者を増やさないほうがいいかもしれませんね……。わかりました。あなたに任せます」
「ありがとうございます」
ユキナは深く一礼し、シアの許可に感謝の意を示した。
それを見届けたシアは、再び姿見に視線を戻し、手にした櫛を動かし始めた。
シアの部屋を出たユキナは、まだ早朝の薄暗い廊下を静かに歩いていた。
少し先の扉がゆっくりと音を立てて開く。
その中から眠そうな顔をしたエルルが現れ、軽く伸びをしてユキナに気づいた。
「おはようございます、ユキナさん」
「おはようございます」
互いに軽く頭を下げて挨拶を交わすと、エルルは欠伸をかみ殺しながら、じっとユキナを見つめた。
その顔にほんのりと疲れがにじんでいるのを見て、ユキナは口を開いた。
「重要な仕事が入りましたので、しばらくの間、就寝前の礼儀作法の勉強は休みにします」
「えっ、本当ですか?」
エルルの顔がぱっと明るくなり、喜びがにじみ出た。
しかしすぐに表情を引き締め、申し訳なさそうに目を伏せる。
「ありがとうございます。でも……また新しいお仕事が増えたんですか? 大変ですね」
エルルの声には心配の色が含まれていた。彼女は続けて、小さく首を傾げながら尋ねる。
「その新しいお仕事、私もお手伝いしましょうか?」
その言葉に、ユキナは一瞬だけ視線を向けたが、首を軽く横に振った。
「いいえ、これは私の大切な仕事ですから」
その言葉に込められた堅い決意を感じたのか、エルルは何も言わずに小さくうなずいた。
ユキナは、眠そうな顔のエルルと肩を並べて廊下を歩き出した。
足音を静かに響かせながら、淡々とした口調で告げる。
「今日は、ハヤト様が私たちと一緒に朝食を取られます」
その言葉に、エルルの目がぱっと輝く。
「本当ですか? それは嬉しいです!」
エルルは足取りを軽くし、ユキナに顔を向けて続けた。
「ユキナさん、この地の茶葉で練習したお茶、やっとハヤトさんに飲んでいただけますね!」
ユキナは視線を前に向けたまま、小さくうなずいた。
エルルが嬉しそうに声を弾ませる。
「ハヤトさんきっと喜びますよ!」
その言葉には答えず、ユキナは一定の足取りで廊下を進む。
その歩調には迷いがなく、肩を並べるエルルの弾むような足音とは対照的だった。
廊下の魔法の明かりがゆっくりと明るさを増し、遠くからメイドたちの楽しげな声が聞こえてきた。
新たな一日が始まる。
ユキナの姿はその賑わいの中に紛れるように、廊下の奥へと消えていった。




