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第86話 奈落

 シアは、侍女ユキナの案内に従い、メルヴィアの書斎へ向かっていた。

 普段訪れる必要のないこの部屋に足を運ぶのは、ハヤトの様子に異常が見られると報告を受けたためだった。


(確認が必要ですね)


 冷静に状況を整理しながら、シアは長い通路を進む。

 やがて、薄暗い通路の先に明かりが見えてきた。それがメルヴィアの書斎であることは間違いない。


 先導していたユキナが入り口で足を止め、振り返る。


「シア様。こちらです」


 シアは無言でうなずき、書斎に入った。

 部屋の中央付近では、ハヤトが生気のない顔で床に座り込んでいる。

 彼のぼんやりとした視線は宙をさまよい、焦点が合っていなかった。


 シアはその様子を確認すると、そっと彼のそばまで歩み寄り、軽く屈んで声をかける。

 

「ハヤトさん」


 しかし、ハヤトはまったく反応を示さない。

 ただ虚ろな目で宙を見つめているだけだった。


(外部刺激への反応がない――おそらく極度の精神的疲労、またはそれに伴う一時的な機能低下)


 シアは冷静に状況を観察し、次に取るべき処置を思案する。

 その間もハヤトの様子は変わらず、まるで魂が抜け落ちたかのようだった。


「いくら声をかけても反応がありません」


 ユキナが心配そうな顔で言いながら、そっとハヤトの傍らに膝をついた。

 彼女の動きは慎重で、ハヤトを刺激しないよう配慮しているのがわかる。


 シアはユキナに目を向け、簡潔に尋ねた。


「どのくらいの時間、こうしていましたか?」


「私が気づいたのは30分前ですが、おそらくもっと前からかと……」


 ユキナの答えに、シアは一度うなずき、立ち上がった。

 そして、ユキナに向かって指示を出す。


「いまからしばらくの間、この部屋に誰も近づけないようにしてください」


「承知しました」


 ユキナは立ち上がり、一礼すると、足早に部屋をあとにした。

 その足音が遠ざかるのを、シアは耳を澄ませて確認する。

 彼女が十分に離れたことを確信すると、再びハヤトの前に屈み込んだ。


 シアは彼の無表情な瞳をじっと見つめ、改めて状況を見極めようとする。


(完全に意識が閉じている……けど、身体そのものには異常が見られない)


 シアは冷静に観察を続けながら、そっと手を伸ばし、ハヤトの肩に触れた。


「ハヤトさん。私の声が聞こえますか?」


 その言葉にも、ハヤトは何の反応も示さない。

 シアは両手でハヤトの顔をつかみ、自分の方に向けさせる。


「ハヤトさん。私の目を見てください」


 シアの視線が、ハヤトの虚ろな瞳を捉える。

 しばらくそうしていると、ようやくハヤトが微かに反応を見せた。


「…………シア?」


 かすれた声が、喉の奥から絞り出されるように漏れた。

 シアはその声を聞き、小さくうなずく。

 

「はい。私です」


 その言葉に安心感を込め、シアはゆっくりと語りかけた。


「どうしたのですか? ハヤトさん」


「メルヴィアが……」


 そう言ってハヤトは声を詰まらせた。

 シアは静かに相槌を打つ。

 

「はい」


 彼の言葉を促すように、優しく次を待つ。


「俺は……メルヴィアを救うために喚ばれたのに、何もしてやれなかった」


 その言葉には、後悔と自責の念が滲んでいた。

 シアは一度深く息を吸い、首を振る。


「勇者召喚の儀は、私を中心に行いました。メルヴィアは補助をしただけです。ハヤトさんは、私たちを救う勇者として喚ばれたのです」


 シアは冷静に諭すように言った。

 だが、ハヤトはすぐに首を振り、視線を伏せる。

 

「違うんだ。本当はメルヴィアに喚ばれたんだ。だけど俺は……」


 その声は、感情が押し殺されているようだった。

 一瞬、彼の顔が歪んだかと思うと、表情が無に帰し、視線が外れた。


「ハヤトさん?」


 シアが声をかけるが、ハヤトはもう反応しなかった。

 彼の目は空虚なまま、何か遠いところを見つめている。


 シアは何度も声をかけ、目を合わせようとするが、ハヤトはまるで何も聞こえず、何も見えていないかのようだった。

 



 

 シアは、ハヤトが精神感応を阻害していることを感じていた。

 以前から、ハヤトには精神操作が及びづらいと感じることがあった。

 だが、いまはその防護力がさらに強化されているように思える。


 過去の大戦時、シアは戦場で精神的ショックを受けたものたちを数多く目にしてきた。

 その豊富な経験を持ってしても、ハヤトのこの状態は理解の範疇を超えていた。


 彼の内側で何か取り返しのつかないことが起こりつつあるように感じる。

 このまま彼を放置しておくわけにはいかない。


 シアは静かに息を整え、意を決した。

 そして、自分の顔をハヤトに近づける。

 ふたりの顔は、互いの息がかかるほどの距離になった。


 シアは目を閉じると、自分の額をハヤトの額に押し当てた。

 そして、ハヤトの精神との間に、チャネルを開いた。



 


 巨大な建築物が立ち並ぶ通りに、シアは立っていた。

 王都ですら見たことのない規模の建造物が、通りの両側に隙間なく並んでいる。

 それぞれが見上げるような高さを誇り、壁面は均一で滑らかな石に似た何かで覆われていた。

 その表面には自然の風合いがまったくなく、人の手で完璧に仕上げられた人工的な美しさを湛えている。

 一部には、見たこともないほど透明な巨大なガラスがはめ込まれており、その技術の高さがうかがえた。


(ここは……勇者の世界の風景なのでしょうか)


 通りに人影はまったく見当たらない。

 それは、この場所がハヤト自身の心象風景であり、彼が誰にも会いたくないという気持ちを表しているように思えた。


 空を見上げると、青く澄んだ空が遠くの方で暗く染まり始めている。

 黒い影のような雲がじわじわと広がり、空を覆いつつあった。


(急がなければ――)


 シアは、ハヤトがいると感じられる方向へ歩き出した。


 石畳の通りを進むと、緑豊かな木々に囲まれた広い土地が見えてきた。

 それは王城の庭園のような場所だった。

 シアは迷うことなく庭園に足を踏み入れ、中を進む。


 さきほどまで青かった空は、黒い雲にほぼ覆われていた。

 シアは足を速め、やがて広々とした場所に出たところで、地面に座り込むハヤトの姿を見つけた。


「ハヤトさん」


 シアの声に、ハヤトは何の反応も見せない。

 シアはハヤトの正面に回り込み、屈み込んで、再び声をかける。


「ハヤトさん。起き上がってください」


 その言葉にも、ハヤトは何一つ応えない。

 シアはそっと彼の肩に手を置いて揺すってみるが、彼の意識は遠くに行ってしまっているかのように、何の反応も見せない。


 シアは静かに息を吐くと、ハヤトの顔を両手でそっと持ち上げた。

 そして、強い意志を込めて彼の虚ろな目を覗き込む。

 

「私の目を見るのです」


 低く静かな声が響く。

 焦点の定まらないハヤトの目が、わずかに揺らぎ、自分に焦点を合わせたその瞬間をシアは逃さなかった。

 瞬時にハヤトの精神に干渉し、意識を無理やり引っ張り出す。

 ハヤトの目が揺らぎ、光が戻り始める。


「シア……?」


「はい。あなたを迎えに来ました」


 シアの言葉に、ハヤトは苦しげに眉をひそめ、首を横に振る。


「でも、俺は……メルヴィアを救えなかった。メルヴィアに喚ばれたのに……」

 

「いいえ、違います。あなたは私の勇者です。私が()()()()()()()に呼んだのです」


 その言葉に、ハヤトは激しく首を振り、シアの手を振りほどいた。


「違う! メルヴィアに喚ばれたんだ!」


 ハヤトの叫びとともに、彼が座っている地面から闇が吹き出し始める。

 その闇はまるで生き物のように、周囲の空気を侵食し、触れた場所を飲み込んでいく。


 危険な状態であるのは明白だった。


「ハヤトさん。メルヴィアのことは忘れるのです」


「無理だ! 忘れることなんて!」


 ハヤトの体が、地面から噴き出した闇に徐々に沈み始める。

 このままでは彼もろとも巻き込まれてしまう。

 一刻も早く、決断しなければならない。

 

(切り捨てるか、それとも……)


 シアは一呼吸の間に覚悟を決めた。


「わかりました。忘れなくてもいいです。その代わり、私のことを常に思い続けてください」


 シアは再びハヤトの顔を両手で包むと、自らの顔をゆっくりと近づけた。

 自分の額が、そっとハヤトの額に重なる。

 

(精神世界でさらにチャネルを開けば、何が起こるかわからない。それでも――ここで勇者を失うわけにはいかない)


 シアはためらうことなく、ハヤトとの間にチャネルを開いた。


 瞬間、膨大な情報がふたりの間を行き交う。

 それは閃光のように鋭く、同時に暴風のように激しかった。

 眩みそうになる感覚を押さえ込み、シアはハヤトの意識の深い領域へと潜っていった。







 突然、視界が揺れた。

 次の瞬間、シアはハヤトの精神の奥底に立っていた。

 そこはさきほどの場所とはまったく異なっていた。


 周囲にはただ無限に広がる暗闇――それ以外には何もなかった。

 その闇の中にぽつりと立つハヤトの姿がある。彼は俯き、肩を震わせている。


(これが……ハヤトさんの魂?)


 その形は揺らぎ、まるで壊れる寸前のように脆さを感じさせた。


 シアはその場で静かに深呼吸し、慎重に一歩ずつ彼に近づいた。

 歩みを進めるたび、闇はさらに濃く、そして重く感じられる。

 足元には吸い込まれるような虚無感が漂い、気を抜けば自分の存在すら消えてしまいそうだった。


 ――そのとき、ハヤトの周囲を覆う無数の鎖が目に入った。

 それらは金色に輝きながら、彼の体を守るように絡みついている。

 いくつかの鎖は地面に深々と突き刺さり、またいくつかは空中へと伸び、微かに揺れている。


 シアがさらに近づくと、そのうちの一本が突然動き出した。

 鋭い音を立てながら、まるで警告するかのようにシアの足元を叩く。

 鎖全体が鋭く輝き、侵入を拒む強い意志を示すように周囲へ光を放った。

 

(これがハヤトさんを縛っているのですね)


 シアは目を閉じると、静かに呪文を唱え始めた。

 

 躊躇している時間はない。

 いま使える力の中で最も強いものを選び出す。


 額に触れる熱、頬をかすめるかすかな感触――それは力に反応して揺れ動く自分の髪だ。

 目を開けると、視界の端で金色の髪が意志を持つかのように舞っているのが見える。

 準備は整った。


(あなたの力を使わせてもらいます)


 自分の内に流れ込む膨大な力が、身体中を駆け巡る。

 その力は支配を拒むように激しく暴れ、解放を求めてうねりを上げた。

 だが、シアは動じない。

 呪文をさらに紡ぎ、力を強制的に抑え込む――制御を誤れば、すべてが崩壊することを理解しながら。


「私の邪魔は許しません」


 その言葉とともに、シアの体から黒い光が溢れ出した。

 光はまるで闇そのもののように広がり、無数の鎖に触れるとその表面を覆っていく。

 金色に輝いていた鎖は次々と砕け散り、光の粉となって宙に舞い上がった。


 シアの体から溢れ出した黒い光は、そのままハヤトを包む闇へと向かう。

 闇と闇がぶつかり合い、空間が軋むような音が響いた。

 ハヤトを守るようにまとわりついていた闇は、外敵を追い払おうとするかのように波打ち、激しく暴れ出す。

 だが、シアの放つ闇はそれを拒絶するようにじわじわと侵食を始めた。

 

 闇と闇のせめぎ合いはしだいに激しさを増していく。

 シアは目を閉じ、力を集中させる――己の闇をさらに強く押し出すために。


「あなたは私の勇者です。私があなたを導きます」


 シアの静かな言葉が響くと、ハヤトを包んでいた闇はわずかに後退し始めた。

 それは、少しずつ押され、やがてシアの黒い光に飲み込まれていく。


 しばらくして、ハヤトの周囲にあった闇は完全に消え去った。

 代わりに、シアの放つ黒い光が優しく彼を包み込み、暖かな静けさをもたらしていた。






 シアが額をハヤトから離すと、ふたりは庭園で寄り添っていた。

 ハヤトの周囲に溢れていた闇はすっかり消え失せ、地面に沈みかけていた彼の体も元通りになっている。


 シアはハヤトに手を差し伸べた。


「帰りましょう、ハヤトさん」


 ハヤトは静かにシアの手を取り、立ち上がる。

 ふたりは手をつないで歩き出した。

 

 青空はどこまでも澄み渡り、遠くには二羽の鳥が寄り添うように並んで飛んでいた。

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