第84話 願い
背後から低く長い唸り声が響いた。
ヴォォォ……ォォ……。
その音は地の底から這い上がってきたかのような不気味な響きだ。
背筋を冷たい恐怖が駆け上がる感覚に襲われたが、ハヤトは振り返らなかった。
膝をつき、穴の縁に体を預けるようにして、懐中電灯を握る手に力を込めながら声を張り上げる。
「メルヴィア! 起きてくれ!」
暗闇の中、懐中電灯の光が黒く焼け焦げた体を照らし出す。
だが、その人影は微動だにしない。
グゥゥゥ……ォォ……。
背後の唸り声はしだいに大きくなり、洞窟そのものが震え始めたかのようだった。
喉が焼けるような痛みを覚えながらも、ハヤトは再び叫んだ。
「メルヴィア! 聞こえてるなら返事をしてくれ!」
いくら声をかけても反応はなく、焦りを増幅させる。
背後では硬質な地面を叩く音が鳴り響き、地面が揺れ始めた。
足元のバランスを崩したハヤトは、手にしていた懐中電灯を滑らせてしまった。
カラカラと穴の斜面を転がる音がして、やがてその光が消え失せる。
周囲が暗闇に包まれ、かろうじて見えるのは、戦闘の余熱で赤く光る地面だけだ。
背後から迫る何かの気配が、じわじわと確実に距離を詰めてくる。
どれだけ恐ろしいものであろうと、ハヤトの心を支配しているのはただひとつ――メルヴィアを呼び覚ますことだけだ。
「メルヴィアァァァ!!」
「うるさいわね。そんなに叫んじゃって」
聞き慣れた声が背後から飛んだ。
振り返ったハヤトが目にしたのは、小型の黒いドクロが青白い炎の柱に包まれる光景だった。
激しい炎の中で、ドクロは一瞬で溶け去り、跡形もなく消える。
青白い炎だけがその場に燃え続け、その明かりに照らされて、ゆっくりと近づいてくる影が見えた。
不敵な笑みを浮かべたその人物――それは、メルヴィアだった。
「メルヴィア!」
ハヤトは安堵と驚きが入り混じった声で叫んだ。
胸の中に湧き上がった強烈な感情に突き動かされるように、ハヤトはメルヴィアに向かって駆け出す。
メルヴィアは足を止め、軽く肩をすくめる仕草を見せた。
「なによ。そんなに慌てちゃって」
その声は、いつもと変わらない、少しからかうような調子だった。
青白い炎に照らされた彼女は、何事もなかったかのように汚れひとつないローブをまとっている。
「おまえ……無事だったのか!」
ハヤトは彼女の眼前まで駆け寄ると、思わずその両手を掴んだ。
「ばかやろう! 心配させやがって!」
ハヤトは感情を抑えきれずに叫んだ。
考えてみれば、ハヤトとさきほどまで一緒にいたメルヴィアは、マジックドールに違いなかった。
2階層から落下したハヤトを途中でキャッチしてくれたのは、5階層にいたメルヴィアだった。
そんなことも忘れてひとりで騒いでいたが、いまはただメルヴィアが無事であることが嬉しかった。
メルヴィアはハヤトの顔をじっと覗き込むと、口元に薄い笑みを浮かべながら言った。
「心配してくれたの?」
「あたりまえだろ! おまえ、俺は――」
「あら? 泣いてる……?」
その言葉に、ハヤトは自分が目に涙を浮かべていることに気づいた。
慌てて彼女の手を離し、腕で涙を拭う。
「な、泣いてない! ここは熱いから汗が目に入ったんだよ!」
「ふうん。そうなんだ」
メルヴィアは目元に優しい表情を浮かべつつ、口角を上げ、楽しげにニヤニヤと笑った。
いつもの彼女らしい、からかい半分の態度だったが、ハヤトにとってはほっとするやりとりだった。
その軽口のおかげで、心が少しずつ落ち着いていくのを感じる。
ハヤトは深呼吸をして冷静さを取り戻したことで、黒いドクロのことを思い出す。
「そうだ。あのドクロ、まだどこかで復活してるかもしれないぞ!」
辺りを見回すが、ハヤトたちの周囲にある光源といえば、燃え上がる青白い炎の柱だけだった。
それ以外は暗闇に包まれ、視界はほとんど利かない。
だが、この広い空洞のどこかで、いままさに再生が始まっているかもしれなかった。
そんなハヤトを見て、メルヴィアは静かに首を振った。
「大丈夫よ。もう魔力は感じないから。さっきので最後。……間に合ってよかった」
そう言うと、彼女はハヤトの両手をそっと取った。
「ハヤトは大丈夫? 怪我はしていない?」
「おう。ピンピンしてるぞ」
「よかった」
メルヴィアは優しく微笑んだ。その笑顔は、いつになく穏やかで温かかった。
ハヤトはその笑顔に思わず見入ってしまったが、自分が彼女と手を繋いでいることに気づいて急に意識してしまった。
手の温もりがじわじわと伝わってくる。その感触を自覚した途端、なぜだか心臓が落ち着かない。
顔が熱くなり、ハヤトは視線を泳がせるようにそらした。
ふたりの間に短い沈黙が流れる。短いはずのそれが、妙に長く感じられた。
その沈黙を破るように、メルヴィアがためらいがちに口を開いた。
「ねえ、ハヤト」
「うん? なんだ?」
声をかけられて視線を戻すと、さっきまでの笑顔が消え、メルヴィアの顔には真剣な表情が浮かんでいた。
「私、ハヤトに謝らないといけないことがあるの」
「え、なにを?」
ハヤトは困惑しながら問い返す。
メルヴィアはまっすぐハヤトを見つめ、瞬きを忘れているかのようだ。
口元はきゅっと引き締まり、何か思いつめたような表情をしている。
「私ね、勇者召喚の儀式をするとき……願っちゃったの」
メルヴィアはそう言いながら、ハヤトの手をさらに強く握る。
その手の力の強さが彼女の心の動揺を伝えてくる。
「『私たち』じゃなくて、『私』を助けてくれる勇者を」
「え? それはどういう……」
「だから……ハヤトが何の力も持たずに召喚されてしまったのは……私のせいなの」
「メルヴィアの、せい?」
メルヴィアは小さくうなづいた。
ハヤトの手を握る彼女の手は、かすかに震えている。
そして、ハヤトを見つめるその瞳は、静かに濡れていた。
「ごめんね、ハヤト」
そう言うと、メルヴィアはそのままハヤトの胸に飛び込んできた。
ハヤトは驚きながらも、彼女を受け止める。
「ど、どうしたんだ?」
ハヤトの問いには答えず、メルヴィアはハヤトの耳元に顔を寄せ、囁くように言葉を紡いだ。
「お願い……もう元の世界に戻って……」
「メルヴィア……?」
何かがおかしかった。
こんなメルヴィアは見たことがなかった。
「ごめんね、ハヤト。ありがとう……」
最後の言葉を残して、メルヴィアの体から力が抜けた。
彼女の体がハヤトにもたれかかる。
「おい、メルヴィア? メルヴィア!」
とっさに彼女の体を支えたハヤトの手には、硬い感触が伝わってきた。
目を凝らすと、そこにあるのは――ただの人形だった。
髪も、服も、何もかも失われ、無機質なマネキンのような姿がそこに残っている。
「おい、嘘だろ……メルヴィア!? 返事をしろ!」
必死に名前を呼び、その体を揺すっても、もう二度と彼女の声を聞くことはできなかった。
そして――
傍らで燃え上がっていた青白い炎が、ふっと消えた。
空洞は深い闇に包まれ、ハヤトの視界からすべての光が失われた。




