第79話 果てなき深淵
横穴はかなり長く続いていた。
歪んだ形状の岩が、まるで生き物の触手のように天井から垂れ下がっている。
その不気味な光景に、ハヤトは全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
湿り気を帯びた薄気味悪い空気が肌を這うようにまとわりつく。
空気は十分に流れているはずなのに、どこか息苦しい。
それは物理的な問題ではなく、精神的な圧迫感から来るものだとハヤトは感じていた。
「なんか空気が重苦しくないか。気のせいかもしれんが」
気分転換のつもりでハヤトが話しかけると、メルヴィアは振り返らずに答える。
「気のせいじゃないわ。ゲート内では、下層に行くほど魔力が濃くなっていく。転送物質が下層に置かれるほど反応しやすくなるのも、そのためだと考えられるわ」
異世界からの危険生物の転送――。
それは、ハヤトたちのベースキャンプでも起こり、多くの犠牲者を出した出来事だった。
その記憶が蘇り、ハヤトは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
メルヴィアは淡々と話を続ける。
「下層に行くほど、異世界との境界が曖昧になっていく。計算上は、地下1500メートルまで行けば、転送物質なしで異世界とのつながりを確立できるわ」
「え? 転送物質なしでも、深く下りれば異世界に行けるのか?」
「そうよ。だから、この巨大洞窟を『ゲート』と呼んでるの。深い洞窟そのものが異世界への門になっているのよ」
その答えにハヤトは驚きを隠せなかった。
「初耳だな。でも、それならわざわざほかのゲートを攻略しなくてもいいんじゃないのか?」
「地下1500メートルまで穴を掘るのは現実的じゃないわ。下層に行くほど魔力が濃くなるから、掘るのも困難になるし」
たしかに人力でそんな深さまで掘り進めるのは簡単ではないだろう。
ハヤトはスコップに魔力を通して硬い岩を掘る兵士たちの姿を思い出す。
掘る範囲を限定し、掘り出した土をロープで運び出すことを繰り返せば、どこまでも掘れるようにも思えるが……。
しかし、その考えはすぐに打ち消された。
横穴を抜けた先に広がる光景を目にしたとき、掘り進める困難さを思い知らされる。
「大きな地底湖ね。どこまで広がってるか見えないわね」
メルヴィアの言葉が静かに響く。
暗闇の中で湖面がかすかに光を反射しているが、その全貌を捉えることはできない。
ここに来るまでの道中でも、染み出した地下水が作る水溜りをいくつも見てきた。
この一帯の下層には、巨大な水源が存在しているのだろう。
ベースキャンプでも地下水が多い。
もし縦穴を掘り進めてこのような水源にぶつかれば、水を排除するのは容易ではないだろう。
ハヤトは、メルヴィアの言う通り、地下1500メートルまで掘り進めるのは非現実的だと実感した。
改めて足元の湖に目を向ける。
明かりの魔法に照らされた湖面は鮮やかな蒼色をしているが、その美しさの奥には不気味な静けさが漂っていた。
その奥深くに何かが潜んでいるような、漠然とした恐怖が胸に沸き起こる。
「湖の中から危険生物が飛び出してきたりしないだろうな」
ハヤトは、湖に背を向けることができず、つぶやくように聞いた。
メルヴィアはちらりと湖を一瞥しながら答える。
「いまのところ、そんな気配はないけど、警戒はしておくわ」
そう言うと、メルヴィアは湖畔に沿って歩き始めた。
「ひとまず迂回して先へ進むわよ。行き止まりだったら、横穴を戻るか湖を渡る方法を考えるわ」
ハヤトは後ろを振り返りながら、彼女のあとに続いた。
しばらくの間、ふたりは無言で水辺を歩く。
その静寂を、湖の底から上がってくる気泡の音がときおり破った。
そのたびにハヤトは心臓が跳ね上がる思いをするが、なんとか平静を装っていた。
進むほどに湖の色は深い蒼へと変わり、その光景は不思議な引力を持っているように感じられた。
湖面を見つめていると、まるで吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。
もしこの湖に落ちたら、今度こそ助かることはできない――そんな予感が胸をよぎった。
「もしかして、この湖の水も酸だったりしないか?」
頭をよぎった不安を、ハヤトはメルヴィアに向けて口にした。
彼女は「どうかしらね」とつぶやきながら、懐からコインを取り出して湖に放り投げた。
軽い水音が響き、波紋を広げながらコインは沈んでいく。
メルヴィアはその様子をじっと見つめ、やがてつぶやいた。
「とくに強い酸性というわけではなさそうね。でも、この色からして飲むのはやめたほうがいいわ」
もちろん飲むつもりはない。だが、その言葉でハヤトは喉の渇きに気づかされた。
腰に下げてあるはずの水袋を探したが、どこにも見当たらない。
落下の際に失くしてしまったのだろう。
食料も水もない現状に、ハヤトは本隊に合流するまでどれだけの時間を要するのかが気になった。
長引けば、空腹と渇きで苦しむことになるかもしれない。
「シアたちはどうなってる? 順調に進んでるのか?」
ハヤトが尋ねると、メルヴィアは淡々と答えた。
「思ったより進んでないわね。コローダーは問題にならないけど、進路がところどころ水没してて、移動に苦労してるわ」
「上でも水が多いのか……」
ベースキャンプや銃を見つけたゲートでも、水は至るところにあった。
それが一般的な洞窟の特徴なのか、それともゲートだからこその特異な現象なのかは、ハヤトにはわからなかった。
ベースキャンプでは水が豊富にあることは助けになっていたが、ゲート攻略の際には障害にしかならないように思えた。
ハヤトたちはしばらく水辺に沿って歩くと、新しい横穴を発見した。
これまで見てきたものより、ずっと大きい横穴だ。
中から微かな風が流れ込んでおり、どこかに通じていることを示している。
「進むわよ」
メルヴィアはためらうことなく横穴に入る。
その背中を追いながら、ハヤトは彼女の無鉄砲とも思える大胆さに感嘆する。
危険生物が潜むゲート下層にもかかわらず、一切の恐れを感じさせない姿は、頼もしさと同時に畏怖すら抱かせた。
横穴の中はところどころに水たまりが残っていたが、奥に進むにつれて地面は乾き始め、足元もしだいに歩きやすくなった。
やがて横穴を抜けると、広大な空洞が姿を現した。
メルヴィアの魔法の明かりが半径10メートルほどの範囲を照らしている。
しかし、それ以外の空間は闇に包まれ、全貌をつかむことはできない。
頬をかすめる微かな風が、この空間がさらに広がっていることを物語っていた。
「ずいぶんと広いところに出たわね」
メルヴィアは正面に向かって光球を飛ばした。
光球は周囲を照らしながら100メートルほど進み、ようやく壁にぶつかって止まった。
ハヤトは明かりの魔法で照らされる範囲に何もないことを確認しつつ、ふと思い出す。
「そうだ、懐中電灯持ってきたんだ」
上着のポケットを探り、銃を見つけたゲートで拾った懐中電灯を取り出す。
魔法の光球を飛ばすより効率的に照らせるはずだ。
ハヤトは懐中電灯のスイッチを入れる。
瞬間、鋭い光が闇を引き裂き、遠くまで空洞の一部を明るく照らした。
その光景にメルヴィアが驚いた顔で振り返る。
「なにそれ?」
「懐中電灯だ。銃を見つけたゲートで拾ってきたやつ」
「そういえば、報告書に照明器具を持ち帰ったと書いてあったわね。それがそうなの?」
「ああ。俺もいままですっかり忘れてたが」
ベースキャンプで生活する分には不要なものである。
今回、ゲートを攻略するということで持ってきていたのだ。
懐中電灯を掲げたハヤトは、遠くに光球が当たっていた壁が鮮明に見えるのを確認する。
メルヴィアは興味津々といった様子で、懐中電灯の光が描く遠くの風景をじっと見つめていた。
「照射距離がすごいわね。それも銃と同じであんたしか使えないの?」
「試したことないけど、誰でも使えるんじゃないか?」
銃はともかく懐中電灯までロックするような仕組みが必要とは思えない。
「ちょっと貸してみて」
「いいよ」
ハヤトは懐中電灯のスイッチを切り、彼女に手渡す。
メルヴィアはその軽さに驚いたように懐中電灯を軽く振ってから、スイッチを押した。
再び鋭い光が闇を切り裂き、空洞の輪郭を浮かび上がらせる。
「いいわね、これ」
懐中電灯を持ったメルヴィアが、空洞のあちこちに光を向ける。
その光により、この空洞が直径約100メートルの円形をしていることがわかった。
空洞には3つの横穴が確認できた。
ひとつは、ハヤトたちが通ってきた横穴。
もうひとつは、その対面側にある、ほぼ同じ大きさの横穴。
そして最後のひとつは、左手に見える幅20メートルほどの巨大な横穴だった。
「前か左の二択ね」
メルヴィアは懐中電灯を頭上に向ける。
光が闇を切り裂き、遥か上方の天井を照らし出した。
そこは100メートル以上もありそうな高さだった。
「ここも縦穴ね」
「ここを登る方法はないか?」
「……無理ね。浮遊の魔法でも使えれば別でしょうけど」
この世界の魔法について詳しくは知らないが、どうやら浮遊の魔法は高度なものでメルヴィアでも使えないらしい。
回復魔法もシアだけが使えるという状況を考えると、この世界の魔法は攻撃に偏っている印象を受けた。
メルヴィアは懐中電灯をハヤトに返しながら尋ねる。
「前方と左、どっちに進みたい?」
「どっちと言われてもな……」
ハヤトは懐中電灯で左側の横穴を照らしてみる。
白い光の筋が一直線に奥へと伸び、壁や天井をくっきりと浮かび上がらせた。
その表面には微かな影が揺らめき、横穴は遠くで一点に収束しているように見える。
まるで無限に続くトンネルのようだ。
「どこまで続いてるんだろうな……」
つぶやくハヤトに、メルヴィアは感心したように言った。
「ずいぶん遠くまで照らせるのね。ゆうに数百メートル以上届いてると思うわ」
ハヤトもその光の威力に驚いたが、それ以上にこの階層の広さに驚かされた。
「やけに広いな、この階層は」
ベースキャンプの最下層はそこまで広くなかった。
だが、ここは地底湖もあり、その広さは桁違いだ。
「そうね。それにしても不思議なのは、どうしてこんな一直線に長い空洞ができたのかってこと」
言われてみれば、ここに来るまでの横穴も比較的まっすぐではあったが、多少の曲がりはあった。
しかし、目の前のこの巨大な横穴は、懐中電灯の光が遥か遠くまで届くほど、驚くほど直線的だった。
「自然にできた穴じゃないってことか……」
「そう考えたほうがよさそうね」
メルヴィアは横穴を睨むように見つめていた。
その鋭い視線が何かを捉えたように見え、ハヤトも急いで懐中電灯を向ける。
だが、手ぶれで狙いが定まらず、光が暗闇を泳ぐばかりだった。
それでも懸命に照らしていると、一瞬、光の中に黒い何かが映り込んだ。
「なんだあれ?」
ハヤトはもう一度光を当てる。
懐中電灯に照らされたそれは、黒い塊のように見えた。
しかし、ただの岩ではない――それはたしかに動いていた。
「こっちに来るわ」
隣で静かに睨んでいたメルヴィアが、低く告げる。
その言葉と同時に、ハヤトは足元の地面が微かに揺れるのを感じた。
「また地震か!?」
思わず声を上げるハヤトに対し、メルヴィアは冷静に答えた。
「違うわね。あれが揺らしてるみたいよ」
そう言って、横穴の奥に指を向けた。
ハヤトが懐中電灯の光を再び当てると、黒い塊は明らかにさきほどよりも大きくなっていた。
こちらに向かって近づいてきているのだ。
「あれも危険生物か?」
「これまでに見たことはないわ。新種ね」
最初は豆粒ほどだったシルエットが、みるみるうちに大きくなっていく。
それとともに地面の振動が徐々に大きくなり、足元の岩が小刻みに跳ねるのが見えた。
まだ遠くにいるはずだが、その塊が持つ圧倒的な質量が想像できる。
黒光りするその異形の存在に、ハヤトの背筋が冷たくなった。
耳を澄ませば、地鳴りの音に混じって、低く唸るような音が聞こえてくる。
その音は、まるで闇そのものがうなっているかのようで、ハヤトの心にじわじわと恐怖を広げていった。
「やばそうな気がする。あいつ、相当でかいぞ」
「大きいわね。それに速いわ」
目に見えてその塊は迫ってきている。
メルヴィアの言う通り、かなりの速度だ。
あと数十秒もすれば、目の前に到達するだろう。
「下がってなさい。私がやるわ」
ハヤトはメルヴィアの言葉に従い、少し後ろに下がって様子を見守った。
懐中電灯で横穴を照らすと、遠くにぼんやりと見えていた黒い塊が、はっきりと形を成して迫ってきているのがわかる。
それでも、メルヴィアはその場に立ったまま微動だにせず、危険生物をじっと見つめているだけだった。
「来てるぞ!」
ハヤトが焦って声を上げると、メルヴィアは静かに答えた。
「まだ、射程外よ」
その言葉の通り、黒い塊はまだ輪郭しか見えていないほど遠かった。
ハヤトが息を呑んで見守るうちに、やがて危険生物の姿が少しずつ明らかになっていく。
それは黒いドクロのような姿をしていた――いや、ドクロそのものだった。
遠目にはただの黒い塊のように見えたそれが、近づくにつれ異形の輪郭を露わにする。
頭蓋骨を思わせる巨大な輪郭。眼窩のように深く窪んだ穴。
だが、それ以上に目を引いたのは、その下に生えた無数の細長い脚だ。
脚の動きは不気味で、生物的というより機械的でありながら、どこか狂気じみていた。
脚が地面を掴むたびに響く鈍い音がリズムを刻み、そのたびに地面が微かに震える。
それはまるで悪夢の中から現れた化け物そのものだった。
黒光りする巨体は、地面を揺らしながらこちらに向かってくる。
目測で高さは10メートルぐらいはあるだろう――圧倒的な威圧感だ。
「やばい……でかすぎる……!」
ハヤトの言葉にも動じず、メルヴィアは冷静だった。
彼女はゆっくりと片手をかざす。
「そろそろ射程ね」
彼女の指先から光球が放たれた。
それは眩い輝きを放ちながらまっすぐ進み、巨大なドクロに直撃――瞬間、轟音とともに爆発が起こる。
爆発の衝撃が空洞全体を揺るがし、地面が震えた。
その力で、巨大なドクロが横倒しになり、地面に激しく叩きつけられる。
「やったか!?」
思わず声を上げるハヤト。しかし、メルヴィアは冷静に首を振った。
「まだよ」
横倒しになったドクロは一瞬動きを止めたかに見えたが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
爆発の余波で引火した炎がドクロの表面を覆い、空洞を不気味な赤い光で照らしている。
その炎に包まれながら、無数の脚が擦れる音を立て、ゆっくりと動き始める。
折れていたはずの脚が奇妙な角度で立ち上がり、まるで骨が再生するかのように復活していく。
炎の揺らめきの中で、巨大なドクロが再びこちらに向きを変えた。
その眼窩が炎の反射で赤く輝き、不気味な光を放ちながらハヤトたちをじっと見つめている。
「……硬いわね」
メルヴィアが低くつぶやく。
その声には、いつもの余裕の響きがなかった。
これまで彼女が一撃で葬ってきたどの危険生物とも違う――
このドクロは、明らかに次元の違う相手だった。




