第78話 最下層
炎の壁が音もなく消え去り、ようやく周囲の様子が明らかになった。
「……広いな」
ハヤトは目の前に広がる闇をじっと見つめる。
そこは、息を呑むほど広大な空洞だった。
メルヴィアの魔法の灯りが柔らかく周囲を照らしているが、その光が届く範囲の外は深い暗闇に沈み、空間の全貌をつかむことはできない。
どこかから冷たい空気がわずかに流れているのか、かすかな風が頬を撫でていく。
足元には大小さまざまな岩が転がっていた。
いくつかは鋭く砕け、落下の衝撃を物語るように粉々になっている。
ハヤトはそっと足元に目を向けた。崩れた岩の一部は、さきほど自分が落下したときに生じたものだろう。
上を見上げると、暗闇の中に遠く高く――まるで星のように――小さな光がぽつりと浮かんでいた。
「あそこから落ちてきたのか……?」
隣で同じように上を見上げていたメルヴィアに声をかけると、彼女は「しっ」と短く返し、上空を鋭い目つきで睨み続けていた。
唐突に、カンッ――という甲高い音が響いた。
「!?」
ハヤトは驚いて振り返り、足元を見た。
地面の上で何かが弾けるように跳ね、カツン、カツン、と音を立てながら暗闇の中へ転がっていく。
「いまの……なんだ?」
「コインよ」
隣から冷静な声が飛んでくる。
振り返れば、メルヴィアが何か考え込むような表情をしていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……ここは、上から250メートルあるようね」
「250メートル……」
ハヤトは息を呑み、改めて上を見上げた。
そこには相変わらず遠くぼんやりと光る、小さな星のような光があるだけだった。
「ここ……何階層なんだ?」
「地上からだと300メートルはあるから、20階層ぐらいになるかもね」
「20!?」
ハヤトの声がわずかに震える。
このゲートについて、ハヤトはなんとなくベースキャンプと同じ13階層ぐらいだろうと思っていた。
銃を取りに行ったゲート跡地も12階層だったと聞いている。だから、ここもそれくらいだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
しかし、20階層――それを聞いた瞬間、胸の奥に不安が広がり始めた。
どれほどの危険がこの先に待ち受けているのか、ハヤトには想像もつかなかった。
「もしかして、ここ、最下層なのかな?」
「そうかもね」
ゲート最下層――そこには異世界の危険生物を転送し続ける装置があるはずだ。
ハヤトは、この瞬間も恐ろしい生物が転送されてきているのではないかという想像に身震いした。
「なあ」
「なあに?」
震えるハヤトの声に対して、メルヴィアの声は明るかった。
「ゲートの最下層って……ボスみたいな危険生物がいたりしないのか?」
「さあ、どうかしらね」
「ベースキャンプのゲートを攻略したときはどうだったんだ?」
「下層で強い個体が発見されたって報告があったわね。エイブラたち冒険者が広い空間に誘導して、騎士団で包囲して倒したらしいけど」
「じゃあ、ここにもより強い危険生物がいるのか?」
「多少強いのがいても、魔力はまだ十分にあるから大丈夫よ」
メルヴィアの淡々とした言葉を聞いて、ハヤトは少し安心した。
彼女の戦いぶりを見てきた限り、多少手強い敵がいても問題ないだろうと思えた。
ハヤトは周囲を見回しながら尋ねる。
「さて、どうする?」
メルヴィアの明かりの魔法で照らされる半径10メートルの範囲には何もないように見えた。
しかし、声の響きや風の流れから、ここが相当広い空間であることが察せられる。
「とりあえずこの場所を離れたほうがいいわね。上が崩れて岩が落ちてくるかもしれないし。それに――」
メルヴィアがさっと右手を挙げると、彼女の周囲に複数の光の球が現れた。
その球は暗闇の中を前方へ飛んでいき、50メートルほど先で何かにぶつかった。
ドンッ――爆発音とともに、光の照らす中にいくつもの人影が浮かび上がる。
「たくさん集まってきてるみたいだしね」
「コローダーが集まってきてるのか!?」
ハヤトは慌てて周囲を見渡した。
深い闇に沈んだ果てしない空間から、いまにもコローダーが飛び出してくるのではないかという想像に、背筋が寒くなる。
ハヤトは首からぶら下がっていた銃の安全装置を外し、すばやく銃を構えた。
メルヴィアの背中は自分が護るしかない――そう決意して。
「大丈夫よ。近づけさせないから」
メルヴィアはそう言うと、四方八方に光の球を放った。
光球は暗闇を切り裂きながら飛び、次々とコローダーらしい影にぶつかって爆発する。
轟音とともに燃え上がる影たち――だが、それがコローダーなのか、別の危険生物なのか、ハヤトには確認できない。
メルヴィアが早すぎるのだ。
あまりにもあっさりと敵を倒していくので、ハヤトには影が浮かび上がる瞬間しか見えないのだった。
「なあ、出てきてるのは、上と同じコローダーなのか?」
「どうかしらね? でも、なんであれ、駆除するだけよ」
メルヴィアの声はどこまでも冷静だった。
もしかすると、コローダーよりも強い危険生物が現れているのかもしれない。
だが、彼女にとってそれはまったく問題にならないらしい。
その圧倒的な余裕に、ハヤトは半ば唖然としていた。
そんなハヤトを気に留める様子もなく、メルヴィアは先に進み始める。
「とりあえず進むわよ。大きな岩が落ちてきたら、私の防護障壁でも防ぎきれるかわからないもの」
ハヤトは慌ててその背中を追い、横に並んで歩き出した。
「こっちでいいのか?」
「さあ? でも、後ろから来てるし」
言葉と同時に、メルヴィアは確認することもなく後方へ光球を放った。
ハヤトが首だけ振り返ると、遠くで炎に包まれて燃え上がる人影が見えた。
「……すごいな」
ハヤトはぽつりとつぶやく。
ここまで、メルヴィアは一撃で敵を近づけることなく倒し続けている。
魔力さえ尽きなければ、彼女は無敵なのではないか――そんな錯覚さえ抱かせる戦いぶりだった。
「ほら。行くわよ」
メルヴィアに促され、ハヤトは止まりかけた足を再び動かす。
魔法の光が闇を押しのけるように広がり、ハヤトたちはその道を切り開くように進んでいった。
しばらく歩くと、明かりの魔法に照らされた壁が見えた。
「ここが端みたいだな」
広大な空洞の端にようやくたどり着いたらしい。
メルヴィアは壁の前で足を止め、首を傾げた。
「右と左、どっちに行こうかしら?」
その言葉に、ハヤトはメルヴィアの顔を見た。
彼女は少し考えるように視線をさまよわせていたが、やがて思い切ったようにこちらを振り返る。
「どっち?」
「え?」
突然の問いにハヤトは戸惑った。
メルヴィアはさらに畳みかけるように言う。
「ほらほら、どっち?」
そんなことを言われても、ハヤトにはどちらを選ぶべきか判断する根拠などまるでない。
しかたなく、感で答えるしかなかった。
「……左、かな?」
「ふうん。左ね。いいわよ」
あっさりと返事をされたことで、かえって疑問が湧いた。
「というか、俺が選んでいいのか?」
「いいのよ。どっちに何があるかなんて、行ってみないとわからないんだから」
あまりにも軽い言葉にハヤトは半ば呆れながらも、メルヴィアのあとについて歩き出す。
ふたりは壁を右手にしながら広い空間を進んでいった。
壁側を歩くハヤトは、ほんの少しだけ心が軽くなった。
広大な空間の中央にいるよりも、壁際の方が安全に思えたからだ。
「いま上はどうなってるんだ?」
ハヤトはふと気になって尋ねた。
メルヴィアはマジックドールを通じて上の様子を知ることができる。
自分たちが落下したあと、きっと大騒ぎになっているはずだと思ったのだが、彼女の答えはつれないものだった。
「別にどうとも」
「どうやって救出するとか、話し合ってないのか?」
「どうせ最下層まで下りる予定なんだから、そのうちどっかで会うって話になったわ」
「なんか適当だな」
「私がついてるんだし、どうとでもなるわよ」
メルヴィアの声にはまったく不安が感じられない。
その余裕ぶりに、ハヤトは少し気が楽になる一方で、もっと心配してもいいのではないかとも思った。
――もしかすると、実際には上でそれなりに心配されているのかもしれない。
ただ、メルヴィアがその心配を無視して、結論だけを伝えたのではないか。
そう考えると、少しだけ救われた気がして、ハヤトは思考を切り替えた。
しばらく進むと、壁に横穴が見つかった。
その奥から微かな風が流れ込み、広い空間につながっている気配を感じる。
メルヴィアが光の球を横穴に放つ。
それは周囲を明るく照らしながら進み、やがて人影のようなものにぶつかると、轟音とともに爆発した。
「さっきからちょこちょこ現れてるやつか……」
ハヤトは小さくつぶやいた。
これまでにも何度も遭遇している危険生物だろう。
「入るわよ。上に登るルートを探さなきゃ」
メルヴィアが先頭に立ち、横穴へと入っていく。
ハヤトもその後ろに続いた。
前をメルヴィアに任せる以上、自分の役目は後方の警戒だ。
そう考え、ときおり後ろを振り返りながら、慎重に足を進める。
そのとき、不意にハヤトの足が滑りそうになった。
「うわっ!」
慌てて足元を見ると、黒く溶けかかった粘性のある肉片が散らばり、不快な臭いを漂わせている。
その臭いが自分の靴を溶かしたものであることに気づき、ハヤトは慌てて地面に靴をこすりつけた。
「気をつけなさい」
メルヴィアが振り返り、無造作に手を振ると、地面の肉片は一瞬で炎に包まれ、跡形もなく焼き尽くされた。
「死体でも触ると溶かされるわよ」
その言葉に、ハヤトはぞっとした。
圧倒的な力を持つ騎士でも戦いを避けるべきとされるCランクの危険生物――その恐ろしさが、ようやく骨身に染みるように感じられた。
こんな酸性の高い肉体を持つ相手では、近接攻撃を主体とする騎士では分が悪すぎる。
今回の遠征部隊が魔術師主体で編成されている理由も、納得がいくというものだ。
もっとも、実際に戦っているのはほとんどメルヴィアひとりだったが。
歩いていると、メルヴィアが突然話を振ってくる。
「それにしても、あんたさ、ベースキャンプから出るたびに危険な目に遭ってない?」
「そう言われても……実際、起きてるんだからしかたないだろ」
「ひとりだけ穴に落ちて本隊からはぐれるとか、普通ないわよね?」
彼女の軽い口調に、ハヤトは肩をすくめるしかない。
「この間の食料採取でフロッカーに出会ったのはしかたないとしても、銃を取りに行ったゲートで危険生物に遭遇したとき、前に出過ぎたせいで死にかけたでしょ? 今回のだって、自分から穴に落ちたようなものよね」
「好きで落ちたわけじゃない。落ちるつもりはなかったけど、結果的に落ちただけだ」
「あんたね……」
メルヴィアが足を止め、振り返った。
その視線には、あきれと、わずかな苛立ちが混ざっている。
「まず、自分の身を守りなさい。誰かを盾にすることはあっても、誰かを守って自分を危険にさらすのはやめなさい」
「みんなを救うために喚ばれた勇者がそれでいいのか?」
ハヤトは思わず言い返したが、メルヴィアの返答は冷淡だった。
「いいのよ。つまらないところで死なれたらそれこそ損失だわ。あんたを召喚するのにどれだけの対価を支払ったか、ちゃんと認識しなさい」
「じゃあ、今回の場合、ユーリが落ちるのを見ていればよかったってことか?」
「そうよ」
メルヴィアは真顔で答えた。
その無情な返答に、ハヤトは言葉を失う。
たしかに、ユーリは魔術師であり、自力で下に着地できる可能性もある。
だが、それは万全の状態であればの話だ。
いまのユーリは、メルヴィアに魔力を移譲し続けたことで疲れ切っており、本調子ではなかった。
あの状況で無事に降りられたかどうか――ハヤトには想像がつかない。
仮にメルヴィアが救出に動いてくれたとしても、疲れ果てたユーリを連れて、この下層をさまようことになっていただろう。
ユーリが歩くのもつらそうだった様子を思い出し、ハヤトは自分が代わりに落ちたことが結果として良かったのではないかと考える。
だが、その考えを口にすることはやめた。
「……今度から気をつけるよ」
メルヴィアは黙ったまま、厳しい目でハヤトを見つめ続けている。
その視線は、ハヤトの考えを見透かしているかのようだった。
これ以上追及される前に、話題を変えることにする。
「先へ進もうぜ。危険生物が集まってきてもやっかいだし」
ハヤトが促すように言ったそのとき、突然背後で爆発音が響いた。
「!」
驚いて振り向くと、少し離れた場所で白い人影が火だるまになって崩れていくのが見えた。
メルヴィアが無言で光の球を放ったのだと、すぐに気づく。
「そうね。先へ進むわよ」
メルヴィアは淡々と答え、そのままさっさと歩き出した。
ハヤトは慌てて彼女のあとを追う。
――その背中を見ながら、ハヤトは思う。
そういうおまえは、みんなの盾になっているんじゃないか?
だが、これはマジックドールだったなと苦笑し、ハヤトはその背中を追い続けた。




