第65話 輝く青
昼食後、ハヤトは休憩時間を早々に切り上げ、12階層の訓練所に向かおうとしていた。
少し前までは、この時間はエルルたちと休憩所で雑談をする時間だった。
だが、ゲート3が発見されてからというもの、エルルは忙しくなり、昼食が終わるやいなや仕事に戻ってしまっていた。
エルルがいないと、メイドたちとの雑談もどこか味気ない。
なんとなく時間を持て余すようになったハヤトは、以前からリノに提案されていた昼食後の訓練に参加してみる気になった。
リノは「一人前のレンジャーにするよ」と張り切っている。
休憩所を出て階段へ向かう途中、前方のT字路で動く影が目に入る。
軽やかな足取りで横切っていくのは、マドールだ。
そのすぐあとを追うように、エレオの姿が見えた。
彼女のうつむきがちな姿はどこか頼りなげで、歩くたびにふわりと揺れる青い髪とスカートが、ますます彼女の儚げな印象を際立たせている。
(こんなところで珍しいな)
ハヤトはそう思いながらT字路まで進むと、マドールたちの後ろ姿が遠ざかっていくのが見えた。
マドールは背筋を伸ばし、リズムよく歩いている。その後ろを、エレオが少し遅れるようにしてついていく。
エレオの肩には、重たい空気がまとわりついているかのようだった。
なんとなくその姿が気になったハヤトは、声をかけてみた。
「エレオ」
足を止め、ゆっくりと振り返るエレオ。その動きには、ためらいが見えた。
だが、ハヤトの顔を見た瞬間、エレオの表情がふっと変わった。
くすんでいた青い瞳に光が差し込み、ぱっと明るく輝き出す。
うつむきがちだった顔が上がり、頬にほんのりとした赤みが差す。
まるで冷えた部屋に日差しが差し込むように、柔らかな笑みがエレオの唇に浮かんだ。
「勇者くん……!」
その声には抑えきれない喜びが混じっていた。
さきほどまでの陰りが嘘のように晴れ、肩を覆っていた重たい雰囲気も消え去っている。
背筋が少し伸び、全身から新たな活力が溢れ出しているように見えた。
ハヤトは不思議な感覚がする。
ただ名前を呼んだだけなのに、目の前でエレオの世界が一気に変わったような気がしたのだ。
「……どうしたんだ?」
戸惑いながら問いかけると、エレオは少し照れたように笑いながら、こちらに向かって歩いてきた。
「こんなところで、勇者くんと会うなんて、びっくりなんだー」
「びっくりって、ここには俺の部屋もあるし……」
「あー、そうでしたね!」
エレオはハッとしたように手を叩き、にこやかに笑う。
その笑顔は親しみやすく、さきほどの重苦しさがは気のせいだったような気がしてくる。
「マドールは行ってしまったけど、一緒に行かなくていいのか? これから会議なんだろ?」
ハヤトは遠ざかるマドールの背中に一瞬視線を向けてから、エレオへ目を戻す。
彼女は分厚い書類を抱えるように持っていた。
「いま終わったところですよー」
「あ、そうなんだ」
シアの部屋の横にある会議室で、重要な話し合いが行われたのだろう。
エレオが重苦しい雰囲気だったのは、そのせいかもしれないとハヤトは考えた。
エレオはちらりとハヤトが来た通路の奥に視線を向ける。
「勇者くんの部屋って、この階層にあるんですねー」
そして再びハヤトに視線を戻し、にこやかに続けた。
「いまから行ってもいいですか?」
「えーと……」
ハヤトは、以前ユーリから「エレオとはふたりきりにならないほうがいい」と忠告されていたことを思い出す。
彼女の無邪気そうな笑顔の裏に、どんな意図があるのかわからない。
「いまから訓練があるから、時間ないんだ」
実際、これからリノとの訓練がある。約束の時間にはまだ少し余裕があったが、ハヤトはそう答えることにした。
「そうなんですかー。じゃあ、しかたないですね」
エレオは肩をすくめ、小さく笑った。
その仕草には、あっけらかんとした無邪気さが感じられる。
だが、ハヤトにはその裏を読もうとする癖がついていた。
エレオはハヤトの横に並び、顔を上げて言った。
「訓練は12階層でやってるんですよね? 途中まで一緒に行きましょう」
「ああ、行こうか」
エレオたち魔術師の部屋があるのは10階層だ。そこまでの短い間、一緒に歩くことにする。
道中、エレオが話を振ってきた。
「いつもこの時間は訓練なんですか?」
「いや、この時間は休憩時間だよ。今日は特別に訓練をすることになってるだけだよ」
「じゃあ、これから会議が終わったら、お茶を飲みに行ってもいいですか?」
昼食後の休憩時間は、最近暇を持て余していたところだ。
エルルがいないと、メイドたちとの雑談もなんとなく居心地が悪かった。
その点、エレオとなら気楽にお茶を飲めそうだと思えた。
「ときどき訓練をすることになるから、いつも暇ってわけじゃないけど、たまにならいいぞ」
ユーリの忠告が頭をかすめたが、人の多い7階層なら問題ないだろうと判断して答えた。
「やったー。約束ですよー♪」
階段の踊り場でエレオが嬉しそうにくるりと回る。
その姿は無邪気そのもので、まるで子どものようだ。
だが、ハヤトの胸にはわずかな警戒心が残る。
こうして見ると、エレオは自分に好意を持っているようにしか見えない。
だが、彼女が裏で何を考えているのか、まったくわからないのが魔術師だ。
(油断しないほうがいいな)
ハヤトは少し距離を保つように歩きながら、エレオの笑顔に応じて軽く笑みを返した。
別な日の昼休み、ハヤトはいつものように休憩室でメイドたちとお茶を飲んでいた。
メイドたちの今日の話題は、食料の在庫に偏りができているということだった。
大量に余っている食材を飽きずに消費するには、どう調理すべきかということで盛り上がっていた。
配膳だけで料理には参加しないハヤトにとっては、まったくついていける話ではなく、この日もぼんやりと話を聞いているだけだった。
ふいに、メイドたちが休憩室の入り口をちらちらと見出した。
なんだろうとハヤトも目を向ける。
休憩室の入り口には扉がなく、廊下が見えている。
一見誰もいないように見えたが、よく見ると入り口の陰から青い影が見え隠れしていた。
「エレオさんですね」
メイドのひとりがその名前を口にした。
メイドたちはエレオを「さん」づけで呼ぶ。ほかの魔術師には「様」をつけるのにだ。
それだけエレオが親しみやすいということなのだろう。
「どうしたんでしょう? 何か用があるんでしょうか?」
エレオは部屋に入ってくる様子はなく、ときどき頭を一瞬出しては入り口の陰に引っ込めていた。
その様子にハヤトは小さくため息をつき、椅子から立ち上がる。
「約束してたんだった。ちょっと行ってくる」
そう言い残して休憩室を出た。
廊下に出ると、エレオが入り口の横の壁に背を預けて立っていた。
大きな空色の瞳がハヤトを見つめる。
その透き通るような輝きに、一瞬、吸い込まれそうな気がした。
「来ちゃった♪」
エレオが嬉しそうに笑う。
その無邪気な表情に、ハヤトは少し警戒しながらも軽く返事を返した。
「会議、終わったのか?」
「うん」
エレオが軽くうなずく。その仕草は純粋そのもので、裏表などないように感じられる。
「休憩室に入るか?」
ハヤトが提案すると、エレオは首を横に振りながら小さく笑う。
「勇者くんの部屋がいいなー」
その一言に、ハヤトは眉をひそめた。
エレオとふたりきりになることにはまだ少し警戒心が残っている。
だが、いくら親しみやすいとはいえ、参謀という地位にあるエレオが休憩室に入ってきたら、メイドたちが気を遣うのは間違いない。
それを考えれば、エレオの提案も一理ある。
ハヤトは少し考えてから言った。
「いいぞ。すぐそこだ」
ハヤトの部屋は休憩室のすぐ近くにある。
何かあればすぐにメイドたちに助けを求められる。
それに加え、彼女のあっけらかんとした態度を見ていると、そこまで心配する必要もないように思えた。
ハヤトはエレオに軽く手で示し、彼女を部屋へと案内した。
部屋に入るなり、エレオは興味深そうに周囲を見回し、口を開いた。
「へー、思ったよりいい部屋ですね」
工兵部隊に頼んで食べ物を渡す代わりに、必要な家具を一通り揃えさせていたおかげだ。
いまではミリアの部屋と比べても、遜色のない出来栄えになっている。
ただ、入り口にはドアがなく、代わりに布が垂れ下がっているだけなのが惜しいところだ。
それでも、それ以上を求めるつもりはなかった。
ドアを付けてもらうのは不可能ではない。工兵部隊に頼めばすぐに対応してくれるだろう。
だが、そんな目立つ改修をしてしまえば、食料の横流しが上層部に露見する危険があった。
だから家具だけに留め、部屋の中だけを快適にしていたのだ。
エレオはきょろきょろと部屋を見渡していたが、やがてベッドの前で動きを止めた。
「あ、このベッド、柔らかそう!」
そう言ってエレオは勢いよく駆け出すと、軽やかな動きでベッドに飛び込んだ。
小さな体がポンと沈み込み、柔らかなマットレスが彼女をやさしく受け止める。
舞い上がった毛布が一瞬宙を揺れ、ふんわりとエレオの上にかぶさった。
「わー、やわらかーい!」
声を弾ませながらエレオは、目を輝かせて手足をばたつかせる。
まるで子どもが初めてふかふかのベッドを見つけたときのような無邪気さだ。
そのまま毛布を掴むと、器用に体へぐるぐると巻き付け始める。
ふわふわの繭の中にすっぽりと包まれると、彼女は満足げに大きく息をついた。
「んー、最高!」
簀巻き状態になったエレオは、ベッドの上で小さくごろりと転がり始めた。
左右に転がるたび、「ふふふ」と楽しげな笑い声を漏らしながらベッドを揺らし続ける。
「これ、楽しい!」
毛布に包まれたまま転がるエレオは、自由奔放な子猫のようだった。
無防備で、楽しそうで、見ているだけでこちらまで気持ちが軽くなる。
ハヤトは苦笑いを浮かべながら声をかけた。
「何やってんだよ。エレオの部屋のベッドだって、似たようなもんだろ?」
エレオは転がるのを止め、毛布の隙間から顔を出した。
「そうなんですけど、このベッド、私のより広くて気持ちいいんです!」
そう言うと、再び毛布の中に潜り込む。
「あたたかーい」
そのまま寝てしまいそうな様子だった。
「おーい、寝るなよ。何しに来たんだ?」
ハヤトが声をかけると、エレオは毛布の中から勢いよく飛び起きた。
「そうだった!」
エレオはベッドから飛び起きると、今度はテーブルに向かい、椅子を引いて座った。
「勇者くん! お茶しよ?」
「いいけど、俺、お茶入れられないんだよな。……休憩室からお茶もらってくるか?」
「じゃあ、私がいれるよ!」
エレオは勢いよく立ち上がると、慣れた手つきで鍋に水を汲み、魔法で火を点けて温め始めた。
ハヤトにはお茶セットと一緒に火打ち石が支給されていた。
しかし、一度挑戦してみたものの、火を点けるのにまったく成功せず、早々に諦めた経緯があった。
お茶を飲みたければ休憩室に行けばよく、そこではメイドがいつでもお茶をいれてくれる。
つまり、自分で頑張る必要はなかったのだ。
エレオは鍋の火を気にしながら、茶葉が詰まった木箱を開けた。
「あれー? 王国産のお茶はないんですか?」
「ああ、こっちで採れたお茶しかないぞ」
ハヤトたちの飲むお茶は、ずいぶん前からこの地で採れた茶葉に切り替わっていた。
エレオの反応から察するに、魔術師たちはまだ王国産の茶葉を持っているのだろう。
「こっちのお茶のいれ方も練習してるんですけど、まだうまくいれられないんですよねー」
そう言いながら、エレオはカップを並べ、小さじ一杯ほどの茶葉をそれぞれに入れた。
「量は少なめにして……」
次に火を消すと、鍋を軽く揺らし始めた。
「湯は少し冷ます……と」
そうしながらエレオは、ハヤトの方を振り向いてにっこり笑った。
「あ、勇者くんは座ってて!」
促されるままハヤトが椅子に座って待っていると、しばらくしてエレオは湯気の立つカップを持ってきた。
「できましたよー」
テーブルに置かれたカップからは、ほんのりといい香りが漂ってくる。
「うまくいれられてるといいんですけどねー」
エレオは少し心配そうな顔でハヤトを見つめている。
ハヤトはカップを手に取り、一口飲んでみた。
いつものお茶より少し苦みを感じたが、それでも悪くない。
「うん。おいしいよ」
「ほんと? よかったー♪」
エレオの心配そうだった顔がぱっと明るくなり、嬉しそうに笑いながら自分のカップに口をつけた。
ハヤトは特に嘘をついたわけではない。少し苦みが強いとはいえ、おいしいことに変わりはなかった。
「王国産のお茶もおいしいですけど、こっちのお茶も悪くないですよねー」
「あ、そうだ。このクッキーとすごく合うぞ」
ハヤトはふと思い出し、エルルに焼いてもらったクッキーをエレオに出してあげた。
「ほんとだー! すごく合いますね!」
エレオは嬉しそうに笑いながら、お茶とクッキーの組み合わせを楽しんでいた。
その後、たわいもない話をしばらく続けた。
エレオは王国から持ち込んだ食材のことや、髪や爪の手入れについて、楽しそうに語っていた。
やがて会話が途切れ、静かな沈黙が部屋を包む。
カップを置く音だけが、ささやかに響いていた。
ふと、エレオが手元のカップに視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。
「やらないといけないことがあるんだけど、やりたくないときはどうしたらいいですかね?」
その言葉に、ハヤトは胸を突かれるような気持ちになった。
やらなければいけないのに、なぜかやる気が出てこない。勉強や就職活動――ハヤト自身もそうした経験を思い出していた。
でも、やるべきことなら背中を押してやるべきだ。それが正しい答えのはずだ。
だが、目の前で俯くエレオの横顔を見ているうちに、ハヤトは考えていたこととは逆の言葉を口にしていた。
「どうしてもやりたくないなら、無理にやらなくていいんじゃないかな。やる気がないときに無理しても、良い結果にならないことが多いよ」
自分でも意外だったが、言い出した以上、そのまま続けた。
「大事なのは、どうしてそれをやらなきゃいけないのか、自分の気持ちをちゃんと見つめることだと思う。ときには立ち止まるのも必要なことだからね。焦らなくていい。エレオが本当に正しいって思えるときが来たら、そのときに進めばいいんだ」
そうだ。いますぐやらなくてもいい。明日から本気だす。これでいいんだよ。
ハヤトは自分に言い聞かせているような気がした。
エレオは顔を上げると、パチパチと瞬きをしながら問い返してきた。
「やらなくてもいいの?」
「ああ、気が進まないならそれでいいさ」
ハヤトはお茶をぐいっと飲み干し、軽い口調で続けた。
「やらなくていいことなんて、世の中にいっぱいある。本当に必要なことなら、そのときになれば自然とやることになる。それまでは、やらなくてもいいんじゃないかな」
エレオは目を丸くして、ぽつりとつぶいた。
「そっかー、そうですよね」
その言葉にハヤトは少し安心し、ほっと息をついた。
エレオの肩から力が抜けたように見え、どこか気楽になったような表情だった。
締め切りが迫ってから重い腰を上げる――ハヤト自身、ずっとそんな調子で生きてきた。それも悪くないことだと思っている。
エレオは深く椅子に座り直し、カップを手に取って紅茶をゆっくりと啜った。
その表情には、静かな解放感さえ漂っている。
「なんだか少し楽になりました。勇者くん、ありがとうございます」
エレオの柔らかな笑顔を見て、ハヤトは胸を撫でおろした。
普段の快活さとは違う、どこか静かな安堵を感じさせるその様子に、少しだけ安心する。
――だが、次の瞬間、胸に不安がよぎり始めた。
(もしかして、仕事をサボることをそそのかしてしまったのだろうか? これでほかの魔術師の負担が増えるんじゃ……)
ミリアたちが忙しそうにしている姿が脳裏をよぎり、ハヤトは顔をしかめた。
(いやいや、さすがにそこまで無責任なことにはならないだろう。たぶん……いや、きっと……)
自分にそう言い聞かせながら、ふと目の前のエレオに視線を戻す。
彼女はカップを置き、気楽そうに部屋を眺めている。その姿は、何かから解放された鳥のようだった。
(やっぱり、大丈夫じゃないかもしれない……)
ハヤトは小さくため息をつき、テーブルに肘をついた。
その視線の先で、エレオは再び紅茶を啜りながら、ほっとした笑顔を浮かべていた。
■
これは、しばらくあとの話。
食堂の様子は、明らかに変わっていた。
「またジャガイモかよ!」
「昨日もその前も、ずっとジャガイモばっかりだぞ!」
「肉はどこに行ったんだ、肉は!」
「スープが全部キャベツなのはどういうことだ!」
兵士たちの不満が、あちこちから飛び交う。
調理担当のメイドたちも疲れ切った顔で、大きなスープ鍋をかき回していた。
「もう、どうアレンジしても味が変わらないんです!」
その投げやりな声が、ハヤトの耳に刺さる。
頭を抱えたハヤトは、調理場の机に突っ伏してため息をついた。
「まさか、あのときのアドバイスが、こんなことになるなんて……」
すべては、エレオが立てた食料調達計画のせいだった。
在庫の偏りが急激に広がり、結果として毎日同じ食材が食堂に並ぶことになったのだ。
食堂の隅では、エレオが申し訳なさそうにうつむきながら、キャベツ入りスープを静かに啜っている。
誰も、直接エレオを責めようとはしない。
だが、魔術師団の評判は、キャベツとジャガイモとともに、今日もまた確実に煮詰められていくのであった。




