【閑話】ユキナの献言
ハヤトは深い眠りの中にいた。
遠征の疲れが全身に染み渡り、ベッドの心地よさに包まれて、意識はどこか遠くへ漂っていた。
肩を揺さぶられる感覚がぼんやりと伝わってきたが、それを気にする気力は湧かない。
誰かが自分を起こそうとしているらしいと感じつつも、体は重く、眠気がさらなる深い闇へと引き戻そうとする。
(あと少しだけ……)
そう思った矢先、肩を揺する力が急に強まり、体全体が大きく揺さぶられた。
ハヤトはしぶしぶ薄目を開けると、すぐ目の前で黒髪が揺れていた。その艶やかな髪が、ハヤトの頬にふわりと触れる。
反射的に目を見開くと、その黒髪の持ち主――ユキナがこちらを覗き込んでいた。
ユキナはハヤトに覆いかぶさる形で、両肩を掴みながら揺さぶっている。
「……え?」
ハヤトは驚き、反射的に体を起こそうとしたが、肩を掴まれたままでは身動きが取れなかった。
「お目覚めですか、ハヤト様」
息がかかるほどの至近距離で囁かれたその声に、ハヤトの眠気は一気に吹き飛んだ。
「お、おはよう……ユキナ」
突然の状況に動揺しながら、ハヤトはぎこちなく挨拶の言葉を絞り出す。
ユキナはその言葉を聞くと、無言のままハヤトの肩から手を離し、静かに体を起こす。
黒髪がさらりと揺れ、彼女がまっすぐな姿勢に戻る。
その一連の動きには、まるで何事もなかったかのような落ち着きが感じられた。
「おはようございます、ハヤト様」
ユキナはいつもの淡々とした声で挨拶をした。
一方で、ハヤトはまだ高鳴る鼓動が収まらないのを自覚しながら、ベッドから半身を起こす。
「ずいぶんとお疲れのご様子ですね。これほど起きないとは思いませんでした」
「ああ、長旅だったからな……」
そう答えながらも、ハヤトはユキナの様子に違和感を覚えた。
普段なら、起こしたあと必要以上に関わることなく静かに立ち去る彼女が、今日はこの場を離れる気配を見せない。
むしろ、何か言いたげにじっとこちらを見つめていた。
短い沈黙が流れたあと、ユキナが口を開いた。
「今回の遠征は、危険なものだったと聞きました。ハヤト様のお命に関わるほどの」
「まあ、ちょっと危なかったかな」
思いがけない言葉に、ハヤトは少し驚いた。
ユキナの声は冷静そのものだが、どこか微かに揺れが感じられる。
心配してくれたのかと思うと、少し嬉しかった。
さらに、ユキナは次々とハヤトの身を案ずる言葉を並べ立てていった。
「ハヤト様は特別な存在です。そのお命が失われるようなことがあれば、軍団全体にとって重大な損失となります」
「ハヤト様には勇者としての使命があるはずです。危険に身を投じることで、その使命を全うできなくなる可能性を、いま一度ご考慮ください」
「どうか危険な行動は控えていただき、できるだけ安全な立ち位置を確保してください」
ユキナがこんなにも心配してくれるのが嬉しかった。
彼女はやっぱり自分に好意を持っているんだと思いながら、ハヤトは彼女の言葉の一つひとつに、相槌を打っていく。
ただ、ユキナがさきほどから手に持ったメモのような紙切れをチラチラ見ているのが気になった。
さらに、気のせいか、彼女の声はしだいに抑揚がなくなり、平坦になっていった。
「ハヤト様が危険に晒されることで、周囲のものたちの負担もまた大きくなるのです」
最後の一言が発せられたとき、その声は完全に棒読みとなっていた。
話し終えたユキナは、今度は自分の服のあちこちを探り始めた。
ポケットや袖口を触りながら、何かを探しているようだが、どうやら見つからないらしい。
その様子を怪訝そうに見つめるハヤトの視線に気づいたのか、ユキナは動きを止めて再び姿勢を正した。そして、じっとハヤトを見つめる。
しばらくの沈黙のあと、彼女は再び口を開いた。
「さまざまなリスクを考慮すると、ベースキャンプからお出にならないのがよろしいかと思います?」
首を傾げながら述べた彼女の言葉は、なぜか疑問調で締めくくられていた。
ハヤトはどういうことなのか尋ねようと口を開きかけたが、ユキナはその隙を与えなかった。一礼すると踵を返し、足早に部屋を出ていく。
部屋を出ていくユキナの背中を見送りながら、ハヤトは言葉を飲み込むしかなかった。
ハヤトは考える。
いつもはあまり喋らないユキナが、言いたいことを忘れないようにメモしていただけなのだろう。
それを読むのに夢中になっていただけ――きっとそうに違いない。
真実は藪の中。事実とは解釈のことである。
ユキナはハヤトを心配してくれたのだ。ほかに理由なんてあるはずがない。
ハヤトはそう自分に言い聞かせる。
勢いよくベッドから立ち上がったハヤトは、大きく伸びをしながらあくびをひとつした。
すると、その拍子に服から紙切れのようなものがベッドに落ちた。
「まさか……」
ハヤトはそれを拾い上げ、恐る恐る広げる。
紙にはびっしりと文字が書かれていた。
ハヤトには文字が読めない。だが、その筆跡には見覚えがあった。
威風堂々とした流れるような筆跡――間違いない、メルヴィアのものだ。
肩をもみながら彼女が執筆する姿をよく見ていたから、確信できた。
「あいつの差し金だったのか……」
ハヤトは肩を落とし、力なくベッドに腰を下ろすと、顔を手で覆いながら深いため息をついた。
しかし、しばらくすると、ハヤトは口元ににやりとした笑みを浮かべる。
ユキナの吐息を間近に感じた、あの目覚めは――悪くなかった。
「今度から、ときどき目覚めないふりをしてみようかな」
そんなことを考えながら、ハヤトは肩を軽く回し、朝の仕事に向かう準備を始めた。




