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【閑話】シュレディンガーのユキナ

 ハヤトはまどろみの中で、何かが自分を揺さぶる感覚に気づいた。

 微かに目を開けると、視界にぼんやりと白い影が揺れている。

 まだ夢の中にいるような気分のまま、再び目を閉じようとする。


 しかし、体がもう一度揺すられた。今度は少し強めに。

 

 ハヤトはようやく眠気を振り払い、ゆっくりと目を開けた。

 眼の前には、無言でハヤトを見下ろすユキナの姿があった。


 彼女はいつもの落ち着いた表情で、静かにハヤトの肩を揺すっている。

 淡々とした動作で、起きるように促していた。


「おはよう、ユキナ」


 ハヤトは毛布を払いのけ、ようやく体を起こした。


「おはようございます。ハヤト様」


 ユキナは深々と一礼すると、そのまま踵を返して部屋を出ていこうとする。


「あ、待って。ユキナ。……喉が乾いたんだ。お茶を入れてもらえないかな?」


 もう少しユキナと一緒にいたいと思ったハヤトは、そう頼んでみた。

 ユキナは振り返り、「かしこまりました」と返事をして、部屋の片隅にあるお茶セットへ向かった。


 いつでもお茶が飲めるようにと渡されていたものだ。

 だが、ハヤトは火を起こす手段を持っておらず、いままで使ったことはなかった。


 ユキナは水瓶から鉄鍋に水を移し、手際よく魔法で火を起こす。


 ハヤトはベッドの端に腰掛け、ユキナの後ろ姿を眺めながら、彼女のことを考えていた。


 最下層での襲撃以降、ユキナは毎朝ハヤトを起こしに来るようになった。

 ハヤトは、あの襲撃のとき、ユキナを守るために戦ったつもりだった。

 ユキナもそう思っているからこそ、ハヤトを毎朝起こしに来るのだと考えていた。


 だが、彼女はハヤトを起こすと、すぐに立ち去ってしまう。

 あまりにもそっけない態度に、今日はお茶を入れてもらうよう頼んでみた。

 だが、もしかすると、ユキナは自分の意思でハヤトを起こしに来ているわけではないのかもしれない、という考えが浮かんだ。


 たとえば、メルヴィアの命令で動いているのかもしれない。

 とはいえ、メルヴィアがハヤトを寝坊しないよう起こす理由は思い当たらない。


 とすると、シアの指示だろうか。

 

 ユキナはシア付きのメイドだ。

 そして、いまはエルルともうひとりの一般メイドが、シア付きのメイドになっている。

 

 シアがハヤトの様子を気にかけて尋ねたことがあったのかもしれない。

 そのとき、「ハヤトはときどき寝坊して遅刻する」なんて話が、シアの耳に入ったのではないか。


 シアとしては、勇者の醜聞は避けたいはずだ。

 だから、ユキナに毎朝ハヤトを起こすよう命令したという可能性は十分に考えられる。


 そんなことはない。ユキナは自分の意思でここに来ているはずだ。

 そう思いたいものの、考えれば考えるほど、誰かの命令で動いているとしか思えなくなってきた。

 

 いま、ユキナに聞けば、即座に答えが得られるだろう。

 だが、聞けばユキナはあっさり「はい」と言いそうな気がして、尋ねる気になれなかった。


 ユキナは自分の意思で来ているのか、それとも誰かに言われて来ているのか。


 確認してしまえば、そのどちらかに決まってしまう。

 逆に言えば、確認しなければ、どちらの可能性も残される。

 

 そうだ、確認しなければ、どちらのユキナも存在するのだ。

 

 これは、シュレディンガーのユキナ。

 ハヤトに好意を持つユキナと、持たないユキナが半々で存在している。


 いや、実際には、どちらかに決まっている。

 だが、とにかく確認さえしなければ、「ハヤトに好意を持つユキナが存在する」というロマンは確実に存在する。


 お茶を入れ終えて、こちらに運んでくるユキナを眺めながら、ハヤトはもう聞かないでおこうと決意した。


「お召し上がりください。ハヤト様」

 

「ありがとう、ユキナ」


 ユキナはハヤトにお茶を手渡すと、そのまま踵を返し、部屋を出ていった。

 今度はハヤトも止めなかった。


 やはり、そっけなさすぎると思いつつ、ハヤトはお茶を一口飲んだ。


「にがっ……」


 これはこの地で採れた葉を使ったお茶だ。

 エルルが休憩時によく入れてくれたが、すっきりとした飲みやすい味だったはずだ。

 それが、いまは渋みの強いお茶になっていた。


「ハハ……、ユキナはお茶を入れるのが苦手なんだな」


 そう言ってみるものの、ハヤトは薄々と気づいてきた。

 

 ユキナはシア付きのメイドだ。

 さらに、メルヴィアの給仕も担当している。

 だから、彼女たちにお茶を入れることも当然あるだろう。


 エルルの話では、ユキナは作法に厳しいということだった。

 ならば、お茶の入れ方についても十分な知識があり、相当な腕前を持っているはずだ。


「とすると、これはいったい……?」


 ユキナは、ハヤトにお茶を入れたくなかったのだろうか。

 控えめなユキナからの、無言のメッセージだとでもいうのか。


「そんなこと、ないよね……?」


 違う、そんなことはない。

 そう強く思いながら、ハヤトはカップを口元に運び、一気にお茶を流し込んだ。


 苦みが瞬く間に舌を襲い、喉を焼くような渋みが広がる。

 眉間にシワが寄るのを自覚しつつ、勢いでカップを空にした。


「ごちそうさま!」


 もうお茶を入れてもらうのはやめておこう。

 決して、不都合な観測事実を積み上げないためではない。

 ユキナも忙しいだろうし、余計な手間をかけさせては申し訳ないのだ。


 これからは、都合のいい事実だけを拾っていこう。

 そう思いながら、ハヤトはほっと息をついた。

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