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<百八回目のループ>
ハッと意識が戻ると、私は『また』この場所にいた。
上質な衣服に身を包む紳士淑女たちが、グラスを片手に談笑している。そんな立食形式のパーティー会場には、彼らの歓談の声と、オーケストラの控えめでありながらも上品な生演奏が、豪奢なシャンデリアの下でBGMとして流れている。
給仕係が忙しく料理や飲み物を数多あるテーブルに運んできては、空になった皿やグラス、そしてワインボトルを厨房へと持ち帰っていた。
その様子を横目に、私は会場の中心である、巨大な螺旋階段へと足を向けていた。その階段は、オキグリアン・バグミルグ国王陛下が座る玉座へ続いている。
……どうせ『後から呼ばれる』わけですし、先に移動しておいた方が時間の節約になりますものね。
先に逃げ出すことも試してみたのだが、それはどんな方法を使ったとしても上手くいかなかったことは『既に』経験している。
退屈な欠伸を嚙み殺す代わりに、近くのテーブルに置いてあるグラスを手にして、一口。口の中を白ワインの甘さと爽快さが駆け抜ける。のだけれど――
……改めて飲んでみますと、やっぱりこのパーティーで今出すワインではありませんわね。
飲んだワインの出来は、そこまで悪いものではない。しかし、飲み頃になるにはもう少し寝かせておいた方がいいし、何より致命的なのは、今出されている料理とあっていないということだ。
今テーブルの上に並べられているのは、ウフラックス共和国から輸入した魚卵のサラダだ。しかしこの組み合わせでは、せっかく新鮮な魚卵を使っているのに、その生臭さが引き立ってしまう。料理の調理法やドレッシングを工夫するか、ワインならシャンパーニュ製法かシュール・リー製法で作ったもので合わせた方がいい。
……辛口で厚みのあるワインにするだけでも、随分と印象が変わりますのに。
ヘティオストレラ大陸の中で最も栄えていると言われているこのクルーリア王国、そのオキグリアン国王陛下が主催するこのパーティーですら、そういった気遣いも出来ない有様になっている。
現時点で、この国がそれだけ落ちぶれてしまっているという証拠だろう。そう考えた後、私は心の中でもう何度目になるのかわからない嘆息をした。
螺旋階段へ歩みを進めている途中、私の進行方向の左側に、初老の男性を中心としたグループが会話に花を咲かせている。その男性はワイングラスを手に、上機嫌でこんな話をしていた。
「そうなんですよ! これから我がクルーリア王国の貿易の主役となる国は、サグラール連邦国で決まりです! 是非皆さん、出資をお願いいたしますよっ!」
その話を聞き終える前に、私は先程手に取ったグラスを配膳台の上に乗せる。そしてその代わりに、右側のテーブルに積まれている空の皿を手にした。
手に取ったその皿を、私はすぐに自分の顔の左側へと掲げる。と、丁度そのタイミングで――
「ああ、危ないっ!」
紳士淑女の悲鳴が上がり、先程会話に花を咲かせていた初老の男性がよろめく。その拍子に、彼の持っていたワイングラスが傾き、その中身が私の方へと零れかかって来た。
だが、ワインは私が掲げた空の皿にぶつかり、反射。
結果として、ワインを零した男性の顔に、そのワインが吹きかかる。
「うわっぷっ!」
初老の男性は、奇妙な悲鳴を上げて、その場にうずくまった。
「大丈夫ですか?」
「お怪我はありませんか? オドゥリン・ポウラムヲォン子爵!」
男性の周りにいた取り巻きたちが、心配そうな顔で気づかわし気な声をかける。そして、次にこちらへ非難がましい目線を向けて来た。
男性にワインがかかったから反射的にそうした反応になってしまったのだろうが、それでは逆に、私が何もせずワイン塗れになっていればよかったとでも言うのだろうか?
……この後の展開を考えますと、もうそんな惨めな状況にだけはなりたくありませんわ。
そう思いながら、こちらを睨む男女へ、私は鋭く睨み返した。すると、私の正体に気づいた彼らは、一瞬で顔を蒼白にさせる。
「こ、これはイレイラ様!」
「ヴィルムガルド家のご令嬢におかれましては、本日はお日柄もよく!」
そういった、もはや聞き飽きたセリフに返答する事もなく、私はワインを受けとめた皿を、一連のやり取りを見て唖然としていた男性の給仕係へと押し付ける。
そしてそのまま、階段の方へと歩みを進めていった。
どれだけ愛嬌を振りまかれても、どれだけ低くかしずかれても、それが上辺だけのもので、更にこの後簡単に手のひらを返されるとわかっているのであれば、反応するのも無駄だとしか考えられない。
私は畏怖に近い目線を背中に受けながら、ついに螺旋階段までたどり着いていた。
そのタイミングで、玉座から、ひと際響く声が上げられる。
「イレイラ! イレイラ・ヴィルムガルドはいないか?」
「そんなに大きな声を上げなくても、こちらにおりますわ? グークハール王子」
私の視線の先には、オキグリアン国王が座る玉座の傍に佇む、二人の人影があった。
二人の内、一人は男性だった。彼はオキグリアン国王と同じく稲穂に輝く金髪に、黄金の如き金の瞳を持っている。このパーティー会場にいる人なら、彼の名前を知らないものはいない。
彼の名前は、グークハール・バクミルグ。クルーリア王国の、第一王子だ。
……そしてこれから、私の婚約者『だった』人になる方ですわ。
クルーリア王国の国民であれば誰が見てもイケメンと評する精悍な顔に、金の髪と瞳が栄える純白の礼装に身を包む王子の隣には、二つあったもう一つの人影が佇んでいる。
ロングに伸ばした絹の様なピンク色の髪に、慈愛に満ちた様なつぶらな青色の瞳。男性であれば一目で虜になるであろう可愛らしい容姿を持つ彼女の名前は、フィレバ・ロリルドルア。
彼女はグークハール王子と同じく、雪の様な色を基調としたドレスに身を包んでいる。しかし、そのドレスは完全なる白色ではなく、襟から胸元、そして腰のあたりに、まだ修業中である意味を含む複数の黒のラインが入っていた。
そう、フィレバは、このクルーリア王国が抱える十五名の『聖女候補』の中の一人なのだ。
あの黒のラインは、やがて国に在籍する事になるであろう『聖女』を目指し、『癒しの力』を研鑽中という証に他ならない。
そんな『聖女候補』を脇に置き、グークハール王子は声高らかに、こう宣言した。
「ここに、僕とイレイラ・ヴィルムガルドの婚約関係を、破棄する事を宣言するっ!」
その声がパーティー会場に響き渡ると、グークハール王子の発した言葉の意味を理解した人々が、騒然とし始める。
……まぁ、当然の反応ですわね。
何せこの国を治めるオキグリアン・バクミルグ国王の一人息子、グークハール王子と、現在クルーリア王国に存在する財閥の中でも最大の財力を誇るヴィルムガルド家の令嬢、イレイラ・ヴィルムガルド、つまり私との婚約を、王子が一方的に破棄したのだから。
そして、更に一方的にグークハールがこう宣言する。
「そして僕は彼女、『聖女候補』であるフィレバ・ロリルドルアを、新たな婚約者、いや、妻として迎え入れる事を、この場で報告しようっ!」
何も聞かされていなかった来場者は、更に狼狽し始めた。あまりにも驚いたためか、会場内で腰を抜かすものや、手にした食器を落とす人々が続出。
更にその音に驚いて、人と人がぶつかり合う。
「貴様! 私の服に、なんてことをしてくれたんだ!」
「す、すみません! 申し訳ありませんっ!」
給仕係が、来賓の誰かの服でも汚してしまったのだろう。そうした聞き飽きた喧騒の中、私はただただ、婚約者だったグークハールたちがいる玉座を睨んでいた。
その視線の先で、グークハール王子がフィレバの腰に、手を回す。フィレバはそれを嬉しそうに受け入れ、その豊満な胸を王子へとこれでもかと押し付けた。
そこでもう、私の頭のどこかで、何かが強引に捻じ切れた音がした。
何度も何度も、そう、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も見て来た光景だが、今回ばかりは、今回のルートからは、もうこのイライラを、ストレスを我慢しないと、心に誓っていたのだ。
私は赤の瞳に燃え盛る意志の光を込めて、青色のドレスの裾を強引に捲り上げる。そして上品な黄色のハイヒールが折れるのも気にせず、自分の真っ赤な髪を振り回しながら、螺旋階段を全速力で走り始めた。
そのさまはさしずめ、大気中の空気を食い破る炎の如し。そしてその灼熱の業火が向かう先には、グークハール王子の姿がある。
自身を炎のようにしながら走る私には、当然玉座から王子が何かしらのたまっているセリフが聞こえているわけもなく、更にいうとその彼の言葉はもう何回も聞いているので、今更その内容に興味を僅かばかりも感じていなかった。
私を今突き動かしているこの想いは、ただ一つの事柄を成就せんという、飢餓感にすら近い渇望だ。
私はその情動に突き動かされるようにして、尋常ならざる速度で会談から階段を駆けあがる。そしてついに、グークハール王子が悦に浸った表情を浮かべている玉座までやってきた。
王子はまだ勝ち誇った様子で、今日のために準備していたであろうセリフを語っている。しかしながら、彼に抱かれているフィレバの方はというと、私の異常な様子に気づいたようだった。
『聖女候補』の瞳に、私の姿が映っている。そんな私の姿は、この場で与えられた悪役令嬢という役割より、もはや地獄の底から這い上がってきた悪鬼とでもいった方がよさそうな表情を浮かべていた。
……地獄の底から這い上がってきたとは、言い得て妙ですわね。
と、そこでグークハール王子も、遅まきながら私の異常性に気づいたみたいだ。
「――というわけで今までのお前の狼藉を、って、な、ど、どうしたんだ? イレイラ!」
無言で、かつ猛スピードで玉座まで階段を駆け上って来た女が普通の精神状態であるはずがないのに、こいつはなんで今更そんな事を口走っているのだろう?
……こんなボンクラ王子に惚れていただなんて、本当に私、男を見る目がなかったのですわね。
そう思うと、更なる怒りで、私が床を駆ける速度が更にあがる。
怯えた様子のグークハール王子の顔が、どんどんと私の燃える様な瞳の中で大きくなっていった。その隣で、フィレバは我先にとちゃっかり逃げ出している。
少し間を置いてグークハールも逃げ出そうと足を動かし始めましたが――
……逃がすものですかっ!
「ま、待て、待つんだイレイラ! そこで止ま――」
何か言っているグークハールの首根っこを摑まえると、私は自分の腕を王子の首元に回す。そしてそのまま気合の声を上げて、王子を上下逆さまに抱え上げた。
そして、そこで終わらない。
私は奇声を上げながら、
「ダッシャラァァァアアアッ!」
クルーリア王国の第一王子である、グークハール・バクミルグ王子に対して。
彼の脳天をまっすぐ垂直に激しく床へと打ち付けた(ブレインバスターをぶちかました)。
王子の額から血が噴き出し、それに合わせたように会場から先程以上の叫喚が巻き起こる。
私は満足気に見下ろすが、グークハールは床の上で全身を引くつかせていた。
私がブレインバスターをぶちかました場所が、玉座が設えられている床という事で、厚めの敷物が使われていたのだろう。そのおかげで、致命傷だけは免れたようだ。
……ちっ、運のいい男ですのね。
鼻を鳴らしながら、私は辺りに視線を送る。
すると遅まきながら、私の周りに近衛兵たちが集まってきた。元とはいえ、もう字の婚約者相手にどう対処すればいいのか、悩んでいたのだろう。
そんな彼らだが、今は自らの役割を思い出したようだ。狼藉を働いた国家反逆罪の罪人である私を捉えるため、こちらに躍りかかってくる。
それはこのパーティーの参加者からは、過剰な対応のようにも見えただろう。令嬢一人捕まえるのに、近衛兵は二人でも多すぎるぐらいだ。
だが彼らも、不意を突かれたとはいえ王子に手をあげられている。万が一にも私を取り逃してしまうような失態は避けたいと思っているのだろう。
そんな職業意識の高い彼らを。
私は文字通り、そして擬音語通り、バッタバッタとなぎ倒していった。
私の腕が近衛兵の顎を打ち抜き、振り上げた足は近寄る兵を吹き飛ばす。
それによって、更なる悲鳴が会場に響いた。人々の悲鳴で、パーティー会場中が埋め尽くされる。
果敢にも私に挑んできた兵士たちは、次々に地面に崩れ落ちる。中には、口から泡を吹いて失神している兵もいた。
そうした兵士たちが玉座の周りに屍の如く積み上がり、その玉座に座るオキグリアン国王陛下は呆気にとられている。とられ過ぎて、その頭部から王冠がずれ落ちているのすら気づいている様子もなかった。
そして私がブレインバスターをお見舞いしたグークハールはというと、ぶちかました状態そのままに、床にまだ転がされていた。私が強すぎて、救助出来ないのだ。時折痙攣しているが、当分その状態は続きそうだ。
……あらあら、まぁまぁ。お可哀そうな事ですこと。
さて、ではそんな王子の新しい婚約者となった泥棒猫のフィレバはというと、兵士たちの後ろに隠れていた。一筋縄では私に勝てないと、遅まきながら気づいたのだろう。
そのフィレバを背に隠すように、近衛兵たちが一歩前に出た。兵たちは恥も外聞も捨てた様子で、素手の私を相手に各々槍や剣を携え、構えをとる。『聖女候補』だけは、なんとか守ろうとしているのだろう。
一方フィレバの表情だが、絶望色で塗り固められていた。泥棒猫というだけあって、野生の勘は鋭いのだろう。今までの私と近衛兵たちとの戦闘を見て、自分を守る兵士たちでは私相手では勝算はないと悟っているようだ。
……くくくっ、いい気味ですわ。
笑いを噛み殺す私だったが、こんな状況でもこちらに向かって口を動かせたというのは、流石『聖女候補』とでも言うべきなのだろうか?
そう考えている私に向かい、フィレバは震える唇で言葉を紡ぎだす。
「こ、こんな事をしでかして、ただで済むとおもってるんですか? イレイラさん!」
「あら? 人の婚約者を寝取ったあなたがそれを言いますの?」
そう言って私は、不敵に笑う。ただそれだけで兵士たちは一歩下がり、フィレバはついに堪え切れずに泣き始めた。
それを見て、私は更に鼻で笑う。
確かに過去、私はフィレバに酷いことをした。それについてグークハールから非難されても、それに対して申し開きはしない。
取り返しのつかないことをしてしまった罰は、この私の一生をかけて、償う必要がある。
そして事実、償った。
償い続けた。
その数は、十や二十じゃ数えきれない。文字通り、私は今の十八歳の時点から、数十、それ以上の人生をループして、償い続けてきたのだ。
でも、流石にもう、もう限界だ。
どんな行動をしても、どんな選択をしても、どのルートで私は破滅エンドを迎え続けて来た。
ならば婚約破棄前にこのパーティー会場を抜け出したらどうか? とも考え、そして実行に移した事がある。
しかし、待ち受けている結末は変わらなかった(破滅エンド)。
グークハールの出す罪に従うのもダメで、フィレバとの関係構築ルートも、わだかまりが解消された直後に私は非業の死(破滅エンド)を遂げる結果しか待っていなかった。
何を選んでも、どんなルートを選んでも、破滅エンド破滅エンド破滅エンド破滅エンド破滅エンド破滅エンド破滅エンド破滅エンド破滅エンドの繰り替えし。
誠実に罪を償おうと思ってもダメなら、いっそ完全に悪の道へ振り切ってみた事もある。出家して、修道院に入り、神に人生を捧げた事もある。でも、神は私を救ってくれなかった。悪魔も同じだ。
私はただただ、破滅エンドを向けて死に、そしてその度にこの婚約を破棄された十八歳の時間から何度も何度も、ループを続けて来た。
覚えているだけで、百八回。
煩悩の数だけ私は死を繰り返し、そして様々な破滅エンドを迎えて来たのだ。
……もう、十分ではありませんか? 百八回分の人生、破滅エンドを迎えたのですわよ? 私。
だから私は、決めたのだ。
どんな行動をしても、何を選択しても、最終的には破滅エンドにしかならないのなら。
もうこのイライラを、ストレスを我慢しない、と。
どんな結果に繋がろうとも、私は私のやりたい事を貫き通す。それが喩え、他の人からは理解されず、奇異の目に晒され続けたとしても。
……そうですわ。今回のルートの生き方は、もう決めておりますもの。
私は紅の髪を宙に靡かせて、フィレバを一瞥する。
「ご心配ありがとうございます。ですが、もう私、大丈夫ですわ」
そう言った後、私はこの世界の誰にも憚ることなく、今回の自分の生き方を、こう宣言した。
「キチゲを解放した私は、無敵ですの」
そう、この物語は。
煩悩の数だけ破滅エンドをループした私が、どうせ破滅エンドにしかならないのであれば、イライラを、ストレスを貯めこまずに生きると決めた、物語。
悪役令嬢として婚約破棄された私が。
キチゲを解放させていく物語である。