2ー23 水司ジル・キャトル・レオール
夕飯を終え、セツが風呂に、その間にロワメールが食後の後片付けをする。カイはロワメールを手伝おうとウロチョロし、邪険にされる。そしてセツが風呂から上がり、入れ替わりでロワメールが風呂に、カイは侯爵邸に戻るかセツと晩酌、それがいつもの夜の流れだった。
その晩、ロワメールが食器を洗っていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「おや、こんな時間に誰でしょうね?」
手持ち無沙汰なカイがいそいそと玄関に向かうと、めずらしい人物が立っていた。
「これは……ジル殿、どうされました?」
「夜分に申し訳ない」
男装に身を包み、いつも凛々しい水司が、どこか不安げに瞼を伏せている。
女性にしては背の高い、だが薄い肩の後ろ姿を眺めながらカイが居間へと案内すると、ちょうどセツが風呂から上がってきたところだった。
「ジル? どうしたんだ?」
「マスター、殿下、遅くに申し訳ない。いつも弟がお世話になっている」
生真面目なジルにソファを勧めるも、彼女は固辞し、室内を見渡す。
食器を拭いている王子様に息を飲むが、ジルは沈黙を貫いた。衝撃的光景だが、ジュールから色々聞いているのだろう。
「こちらに弟がお邪魔していないかと思ったんだが……いないようだな」
「なにかあったのか?」
「いや、その、少し仕事の手伝いを頼みたくて……」
ジルは、彼女らしくない歯切れが悪かった。
「いないのならばお邪魔した。失礼する」
「待て、ジル」
さっさと身を翻して出て行こうとするジルを呼び止め、セツが立ち上がる。
「俺が行こう」
司の手に余る事態など、よっぽどのものだ。マスターとしても放置はできない。
「いや、結構!」
しかしセツの申し出を、ジルは断固拒否した。
「その、兄も捕まらず、それならジュールをと思っただけです! マスターの手をお借りするまでもない」
「お、おう」
全力で拒否しているのは伝わってくるのだが、それではなんの解決にもならない。
「だがな、ジル。一人では荷が重いんじゃないのか?」
「ただの書類仕事ですから!」
すでに風呂から上がり、夜着に着替えたセツに遠慮しているのかと思ったが、違った。
「書類仕事というか、その、資料を取りに行くだけですので」
ジルは後ろめたいのか、セツから目を逸らした。要は荷物持ちとして人手が欲しい、ということか。
「カイ」
それまで黙って食器を片付けていた王子様が、側近の名を呼ぶ。カイは小さく頷いた。
「ジル殿。そういうことでしたら、私がご一緒しますよ」
「いや、それは……」
「カイは優秀だよ。家事以外は」
「なにをやらせても大丈夫だろう。家事以外は」
ジルが断る前に、ロワメールとセツが口を揃える。
「お二人共、家事以外家事以外うるさいですよ!」
「だって、しょうがないよ」
「事実だからなあ」
包帯グルグル巻き以降、食器を五枚割り、掃除をして花瓶を割り、雑巾の絞り方がわからず床を水浸しに、洗濯をしようとして力加減を誤りズボンを破り、ついでに料理を手伝おうとして無駄にした食材は数知れず……。
「ぐっ……」
列挙されると、カイも反論できない。
「まあ、そういうわけだから、家事以外優秀なのは保証する」
マスターと王子様から言われて、ジルは観念した。
「では、カイ殿。よろしく頼む」
「喜んで」
カイはニッコリと微笑んだ。
夜の森は暗い。生い茂る木々にかそけし月光は遮られ、ランプの明かりだけがぼんやりと周囲を照らす。
風が吹くたび森はザワザワと不穏に騒ぎ、無性に不安を掻き立てた。
「カイ殿、すまない。就業後に思い出して」
「お気になさらず。ちょうど出るところだったので」
ジルはズカズカと、早足で森を歩いて行く。
「ジュールが心配していましたよ。ジル殿が働き過ぎで、体を壊すんじゃないかって」
「司というのは、雑務が多くてな」
「……人に頼れないんでしょう?」
なんの前触れもなく言い当てられ、ジルが思わずカイを凝視した。
「どうしてわかるんだ!?」
「はは、人を見るのも仕事のうちなので」
急ぎの案件かもしれないが、こんな時間に司自らわざわざ資料を取りに行く、それはいささか不自然である。
「……人に頼るのは苦手だ」
めずらしく弱音を零して苦笑う水司を、カイは否定も肯定もしなかった。
「部下を育てるのも仕事のうちですよ」
ジルが、明るい水色の目をしばたく。
その発想の転換に、目からウロコが落ちたようだった。
「仕事なら、ジル殿は完璧にやり遂げられるのでは?」
その上ジルの性格を把握して、苦手を得意にすり替える。
仕事と言われれば、ジルに否やはない。
「対立陣営の司に塩を送るなんて、カイ殿は甘いな」
「おや、知りませんでした? 私、優しいんですよ」
カイがおどけて見せれば、今日初めてジルから笑顔が零れた。
セツ家に来た時から、ジルの様子がおかしいことにカイは気付いていた。いつも凛々しい水司が緊張している。
目的地である資料棟に入ると、その異変はより顕著になった。資料棟はあまり使われていないのか、建物は古く、暗い。
カイは、ジルの堅い横顔をそっと窺った。
「大丈夫ですか?」
「問題ない」
ジルは強張った表情で強気に答えて見せるが、どこからどう見ても問題しかない。
建物内はシンと静まり返り、わずかな月明かりと、手元のランプだけが弱々しく辺りを照らす。
ジルは、木々の影が妖しく揺れてはおびえた目を向け、幽かな物音に敏感に反応しては、恐る恐る振り返る。
(これは、もしかして……)
ジルは水司だ。荷物持ちなど、そこいらの魔法使いに頼めば誰でも手を貸すだろう。
なのに、兄弟だけを頼ったのは――。
「ここって、アレですよね? でるって噂の?」
聞けば、ジルの肩がビクゥ! と跳ね上がった。
「う、うう、噂? さ、さあ? 私にはなんのことだかさっぱり」
上擦った声が、下手な嘘をつく。
「あ! 今あそこでなにか動いたような……」
「ひぃっ」
小さな悲鳴が上がり、ジルは慌てて口元を押さえ、カイの様子を盗み見た。
カイが素知らぬ風を装えば、ホッと安堵の息を吐いている。
「木の影でした。私の見間違いですね」
「木、木の影、そうか……」
本人は隠してるつもりらしいが、隠しきれていない。
「……ジル殿」
呼び止めれば、今にも泣き出しそうな明るい水色の瞳が、カイを見上げた。
それでも必死に平静を取り繕う健気な水司に、カイはその手を差し出したのである。




