2ー17 ズボンの丈は悲しい現実を突きつける
早朝の太陽には、照りつける真夏のギラつきはまだない。
柔らかい白金色の光の中に、汗が散る。ジュールが泉に来た時には、ロワメールはすでに火照った体から汗を流していた。
水筒を傾けながら、ジュールはこっそりと背後にいる王子様を盗み見る。
ロワメールは刀の型を流れるようになぞっていた。
いつ見ても、見惚れるほどに美しい。
真剣な眼差しは、彼が集中している証拠だった。
ジュールは話しかけたいのだが、きっかけが掴めない。稽古の邪魔もしたくなかったし、そもそもロワメールが会話を拒んでいる。それでもジュールが挨拶をすれば律儀に返事はしてくれるので、優しい人柄は窺えた。
(なにか、こう、いい感じのきっかけがあれば、な……?)
考え込むジュールの目の前を、フワリ、と白いものが過る。
タオルだ、と認識する前に無意識に手が伸びたが、白い布は指先をすり抜け、泉に落ちかけ。
「……あ」
バシャーン!
と、ジュールが泉に落ちた。右手は高々と掲げ、タオルを守り通したのは天晴である。
「大丈夫!?」
水音に驚いたロワメールが駆け寄り、いつもの無愛想な態度をとるのも忘れて、泉の中からジュールを引き上げた。
「あはは、滑っちゃって。でも、殿下のタオルは無事です」
「タオルより君でしょ!」
ポタポタと水を滴らせながら、へらりと笑うジュールをロワメールは一喝する。
夏場でも、泉の水は冷たいのだ。
表情の選択に困ったロワメールはずぶ濡れのジュールに背を向け、掴んだ手首をグイグイと引っ張っていく。
「いや、でも、咄嗟のことだったんで。条件反射で」
「条件反射で泉に落ちないで!」
「あの、ところで殿下? どこに行くんです?」
「お風呂に決まってる」
行き先がマスターの家だと悟り、ジュールが焦った。
「殿下!? あの、大丈夫なので! ホントに、夏だしこのくらい……!」
「風邪引かれたら、ぼくの寝覚めが悪い」
泉に向けて大きく開けられたテラスの窓から居間に入り、そのままズカズカと食堂を突っ切る。
「ジュール!? どうした!?」
食堂と続いた台所で朝食の準備をしていたセツが、びしょ濡れのジュールに驚いた。
「あ、マスター、おはようございます〜。お邪魔します〜」
なす術もなく、ジュールはなんとも締まらない挨拶をする。
「殿下〜、マスターの家に初めてお邪魔するのが、これじゃああんまりです〜」
ズルズル引きずられながら、ジュールが泣き言を漏らした。
「ずぶ濡れなんだから、グダグダ言わない」
ロワメールは言葉とは裏腹に、満足気だった。
魔法使いとしてジュールの態度こそ、ロワメールが望むべきものだ。
王族には敬意を。だが魔法使いならば、いかなる権力よりも、最強の魔法使いこそ敬うべきではないのか。
長い廊下を通り過ぎ、風呂場にポイとジュールを放り込む。
「……タオル、ありがと」
「え……?」
「着替え、持ってくるから」
そのまま後ろ手にピシャリと扉を閉め、ロワメールの足音が遠ざかっていく。
「えーと」
一人風呂場に放置され、ジュールが放心状態で立ち尽くす。
「本当に、大丈夫なんだけどな」
水使いならこのくらい、ちょっと魔法を使えば簡単に乾かすことができるのだが。
「殿下、良いお方だな」
お心遣いを無駄にしちゃいけないよね。
ジュールは好意に甘えることにして、浴室に足を踏み入れた。
ジュールと入れ違いに、ロワメールが汗を流しに風呂に入った。
ジュールはロワメールの若草色の着物を借りている。シノンの呉服屋『桔梗屋』で仕立てたものである。
「ズボンは?」
「えーと、裾が……」
「……あ。ああ。そうか、うん」
と、少々気まずい思いをしたが、今ではジュールも人心地ついていた。
着物と違って、ズボンは丈の調節ができないので履いていない。そもそも身長差がある上に、ロワメールは足が長かった。悲しい現実である。
「泉に落ちたって? 怪我はないか?」
風呂場から出てきたジュールに、テーブルに料理を並べながらセツが心配した。
「はい。尻餅をついただけなんで」
「あー、ジュール、そのな……」
ジュールが笑って説明すると、セツが言い難そうに頭を掻いた。
「……すまん」
「?」
謝るのは、あの風がセツの仕業だからだ。
話をしたそうなジュールと頑ななロワメールを見てられず、こっそりと風魔法を使ったのだが、まさかジュールが泉に落ちるとは思わなかった。
「ボク、いつも泉で修行させてもらってて」
「ああ。毎朝頑張っているな」
ロワメールはなにも言わないが、マスターならば、この近距離で誰かが魔法を使えばすぐにわかる。
「無断ですみません」
「かまわんよ。あの泉は、水魔法を使うにはうってつけだからな」
セツは鷹揚に頷き、チラリと廊下に繋がるドアを見てから、ジュールに視線を戻した。
「ジュール。ロワメールなんだが、すまないな。少し意固地になってて。根は素直で優しい子だ。仲良くしてやってくれ」
「そんな、ボクの方こそ。殿下は真面目で努力家で、お優しい方です! 仲良くしていただけるよう頑張ります!」
ふん、と握りこぶしを作って気合いを入れれば、セツは嬉しそうに唇を綻ばせた。
「ところでジュール、朝飯は食ったか?」
廊下の向こうから、ロワメールの足音が聞こえる。
「いえ、まだですが……」
「じゃあ食ってけ」
ロワメールがさっぱりして食堂に戻れば、ジュールが首をブンブンと横に振っているところだった。
「遠慮するな。簡単なものしかないが」
嬉しい! いやしかし!
願ってもないが、さすがにいきなりお邪魔した挙げ句に朝食を頂くのは申し訳ない!
「俺とロワメールだけだから、気を遣う必要もないし」
無茶も甚だしい。
魔法使いとして最も尊敬するマスターと。皇八島国民として最も敬うべき王族と。この二人以上に気を遣う存在はいないのに、気を遣うな、というのは不可能である。
二人のやり取りを横目に見ながら、ロワメールが黙って席についた。ロワメールの横にはすでに、客用の箸が置かれている。
「ぼく、お腹空いてるんだけど。早く座ってくれない?」
「!?」
座れ、とマスターと王子様に言われ、ジュールに断る道は残されていなかった。




